木造家屋と耐震・耐火研究・・・・暮しの視点は?

2008-01-09 19:48:05 | 地震への対し方:対震

[字句追加:21.38][重複文言修正:1月10日10.38]

先回は年末のTVで放映された「気になる《研究・実験》」について書いた。
実は、暮れの新聞にも「気になる《研究》」の報告記事が載っていた。
上は、その記事のネット版からの転載である。

  ただし、この場合は、プレス・リリースではなく、
  あくまでも上記記事を読んでの感想である。

そして、記事を読むかぎり、私は、この[研究]に、先回の[煉瓦造破壊実験・研究]と同様の「違和感」を感じたのである。

関東大震災の火災拡大は、家屋の倒壊が誘引。それはその通りだろう。
気になるのは、「当時の木造建物すべてが現在の耐震基準を満たしていれば...」以下の部分。
これは、「だから、(大震災時の火災を回避するために)木造家屋は、すべて現行の耐震基準(いわゆる新耐震基準)で建てるべきだ」、さらには「新耐震基準でつくられていない木造家屋は、耐震補強すべきである」と続けたいのだ、と推察される。

ところが、上記記事に依れば、その「考察・解析」の前提には、「倒壊家屋数が大きいところ=震度が大きい地域」という「仮定」があるらしい。この「仮定」に従うならば、「倒壊が少ない⇒倒壊が少ない地域は震度も小さい」ということになるが、本当か?論理が自家撞着を起こしていないか?
つまり、「倒壊家屋件数の大小で震度を推測し、出火件数と相関させる」という手法は、あまりにもご都合主義、予定調和的、「結論が先にある分析」ではないか、ということ。よく言ってもaboutに過ぎる。


この点がきわめて大事なのだが、関東大震災では、すべての木造建物が倒壊したわけではない。そして、この「研究」の「仮定」によれば、震度が小さかったら倒壊しなかった、ということになるのだが、倒壊しなかった木造建物は、震度の小さい地域にあった、ただそれだけの要因で倒壊しなかった、と断定するのは適切ではない。

関東大震災の後、しばしば、木造と煉瓦造の建物は壊れた、鉄筋コンクリート造、鉄骨造は強かった、とまことしやかな言説が世間で喧伝された。なかには、言葉は悪いが、これで鉄筋コンクリート造が増える、と震災を喜んだのではないか、と思われる発言をする《専門家》もいた(下記「参考」参照)。
しかし、真っ当な人は、「地震で被害に遭ったのは、材料や構造の種類によるのではなく、一に、設計、構造、施工に意を尽くしているか否かによる」と喝破している。木造、煉瓦造でも倒壊しなかった例は多数存在し、鉄筋コンクリート造でも被災した例があったのである。簡単に言えば、「壊れたのは、壊れるべくして壊れた」のである。

   参考 「大正大震火災誌」(大正13年改造社刊)所載の論説より
     
     「・・鉄筋コンクリートと称する詞が新聞や雑誌に可なり多く
      散見するやうになった、人の口からも度々聞くやうになった、
      吾々鉄筋コンクリートに関係があるものはそれ程通俗化した
      ことを嬉しく思ふ。・・」                (土居松市)

     「・・明治24年の濃尾の大震災は非常に当時の建築家を驚かし、
      その設計、構造、施工に非常な注意を払ふに至った。それ故
      この頃の建築は煉瓦造でも今度の地震(関東大震災)に比較的
      安全で、被害も左程激甚でもなく、火事で焼かれたものでも
      復興は左程困難ではない。その後の建築の方が・・・反って
      油断の為に不成績を暴露したものが多い。・・」 (岡田信一郎)

     「・・最も強固であるべき鉄筋コンクリート建築は、設計者の
      疎漏や工事施工者の放漫によって最も危険なる建物になる。」
                                   (岡田信一郎)
  
たしかに、関東大震災で倒壊した木造家屋が多いのは事実である。
しかしこれは、もう少し別の視点で見る必要があるのではないか。

すなわち、幕藩体制が解体して職を失った各藩の武士のうち、帰農できなかった多数の者たちが、仕事を求めて都会・都市へ集まってきた。ときの政府が、彼らに居住場所を用意したわけではない。
それゆえ、人びとは自前で「とりあえずの住まい」を確保しなければならなかった。それらは、言葉の本当の意味でbarrackだったと言ってよいだろう。
彼らに、どんな地震にも耐える建物にせよ、などと求めることがどうして出来るというのだ。それはあまりにも非情、酷というもの。

つまり、端的に言えば、関東大震災の大被害の最大の要因を建物自体に求める前に、その大きな要因は、「とりあえずの住まい」をつくらざるを得なかった都市への異常な人口の集中にある、という視点を欠いてはならないのではなかろうか。
それは、各国の震災や洪水等の自然災害で被災するのは、決まって、「とりあえずの住まい」で暮さざるを得ない人たちの集まっている地域である、という事実にも現われている。
中南米の地震で、煉瓦造建物の被災がよく見られ、多くの《専門家》はそれを煉瓦造のせいにするのだが、「ちゃんとした専門家」は、古い煉瓦造に被害が少ないことに注目している。地盤の良い所に建てているからである。新たに都市へ集まった人たちは、地盤の良い所に住めなかったのである。
関東大震災で被害の多かったのも、かつては人が住もうとしなかった低湿地、悪い地盤の場所に暮さざるを得なかった人たちの住まい:家屋であった。

実は、これも端的に言えば、現在の「耐震規定」はもちろん「建築法令」自体が、「人びとがやむを得ずつくるとりあえずの住まい:家屋」の耐震性能を高めよう、といういわば小手先の手段に基づいている、と言ってよいだろう。
しかも、そこで規定された諸方策は、人びとが、とりあえずではなく、「落ち着いて、先まで見通して住まい:家屋をつくる」場合には、逆に、大きな障害として結果しているのである。
なぜか。提案される諸方策が、「本格的な木造家屋のつくりかた」を知らないままに考えられたからである。震災被災調査において、そこにこそ「耐震・対震」のヒントがあるはずの、「壊れなかった」建物を見ようとしなかったからである。

建築の専門家は、理科系かもしれない。だからと言って、耐震、耐火といった「物理的な」側面だけを見ていればよいのか。
「住居」「家屋」すなわち「人が暮す住まい」とは、どのようにして成り立ち存在し得るのか、この視点を欠いたなら、それは建築の専門家とは言えない、と私は思う。
ところが、《耐震の専門家》は、ほとんどが、この視点を欠いているのではないか。
「理科」とは、そしてscienceとは、ものごとの筋道・条理を究めることにあるのであり、「住居・家屋」の物理的側面だけを見るのでは、真の意味で「理科」ではないのである。
建築は、人の生活の表れ、ゆえに「社会:人の暮しのありよう」の視点を欠いては成り立たない。この新聞記事の研究の、どこにその視点があるのだろうか。

それゆえ、この新聞記事が紹介している研究に、根本的な点で、私は違和感を覚えたのである。

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