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近時雑感 : 「お守り言葉」

2014-08-18 09:00:00 | 近時雑感

いつも散歩の時の通り道です。
ここしばらくの雨で、(オギ)が一気に繁ってしまいました。
人の丈ほどあります。朝は露で通れません。
近日中に、刈払いの予定です。刈りがいがありそうです


8月15日の新聞の社説を、web 版で読み比べました(毎日、朝日、読売、東京、信州毎日)。
その中で、私の印象に強く残ったのは、朝日が引用していた次の文言でした。

  ・・・・政治家が意見を具体化して説明することなしに、お守り言葉をほどよくちりばめた演説や作文で人にうったえようとし、
  民衆が内容を冷静に検討することなしに、お守り言葉のつかいかたのたくみさに順応してゆく習慣がつづくかぎり、何年かの後にまた
  戦時とおなじようにうやむやな政治が復活する可能性がのこっている・・・
(原文のまま転載)

これは、哲学者 鶴見俊輔氏が、敗戦の翌年に発表した論文にある一節、とのことでした。
お守り」とは、「新明解国語辞典」によれば、「それを持っている人を、神仏が災難から守るという札(物)」のこと。
お守り言葉」とは、社説の文言をそのまま引くと次のようなこと(段落を変え、一部を太字にしてあります)、

  ・・・・「お守り言葉」とは、社会の権力者が扇動的に用い、民衆が自分を守るために身につける言葉である。
  例えば戦中は「国体」、「八紘一宇(はっこういちう)」、「翼賛」であり、
  敗戦後は米国から輸入された「民主」、「自由」、「デモクラシー」に変わる。
  それらを意味がよくわからないまま使う習慣が「お守り的使用法」だ。
  当初は単なる飾りに過ぎなかったはずの言葉が、頻繁に使われるうちに実力をつけ、最終的には、自分たちの利益に反することでも、
  国体と言われれば黙従する状況が生まれる。
  言葉のお守り的使用法はしらずしらず、人びとを不本意なところに連れ込む。・・・・

社説は、現下の首相が、「特定秘密保護法」「集団的自衛権」あるいはまた首相が多用する「積極的平和主義」なる「概念」について、何ら具体的な説明を施すことなく、たとえば、それに異議を唱えると「見解の相違」として突き放す、その「行為」を批判的に論じ、ぞの文脈の中で、鶴見氏の論文を引用していたのです。
この論調は、東京、毎日、信毎にほぼ共通していたと言ってよいでしょう。「説明して理解を得る努力をする」とは、首相の口から何度も出された言ですが、未だに聞いたことはないように思います。

一方、訳の分からない「積極的平和主義」を「集団的自衛権」とからめて「丁寧に解説」してくれたのが読売の社説でした。「首相の代弁」と言えるかもしれません。
読売は、社説を次のような文言で締めくくっています。
  ・・・・・
  軍事と外交を「車の両輪」として機能させ、(テロや紛争などの)抑止力を強めることが肝要だ。
  それこそが、8月15日以外に、新たな「終戦の日」を作ることを防ぐ道となろう。
    註 (  )内は、前後の文意をもとにした筆者の加筆。

私は、「独特の論理」の文章にてこずりながら、やっとの思いでこの文言に辿りついたとき、すぐさま、先に紹介した白川 静氏の「字通」の「安全」の解説にあった次の文言を思い出していました。 
   「安全」 : 危うげなく、無事。[顔氏家訓、風操]兵は凶にして戦ひは危し。安全の道に非ず。・・・・
だいたい、武器を片手の「外交」とは、いったい何なのでしょう?
武力を持つ諸国が、武力の増強に努めるのは何故でしょうか?
それは、「武力」を示すことで「外交」を有利にすすめようという思惑、端的に言えば、腕力の強い者が勝つ、という《思考》を強く持っているからではありませんか?
そういう諸国と肩を並べて武力を競う国、それが「普通の国」なのか?そういう国に再びなること、それが「日本を取り戻す」ということなのか?そんなことを思いました。
このあたりを「やんわり」と皮肉っていたのは、13日の東京新聞の「私説・論説室から」の「歴史までコピペするのか」という一文。
  ・・・・
  コピペ行為には思考停止に陥る危うさがある。他人の意見やアイデアを都合よく盗み取り、自分の頭では考えないからだ。
  そこには努力や真心の結晶はかけらも残らない。
  広島と長崎の原爆の日。安倍晋三首相のあいさつは核や原爆症をめぐる内外の動きを紹介したくだりを除き、去年のコピペに等しかった。
  平和の尊さに思いをはせた痕跡は感じられず、安易に官僚任せにしたに違いない。
  立憲主義を骨抜きにし、日本を戦争ができる国に変える。負の歴史までコピペするのは無邪気では済まされない。
  誰の悪知恵の盗用なのか。厳しく審査しなくては。
 (大西隆)

そしてまた、13日の毎日朝刊「水説」(毎水曜日に載る論説の名称)でも、同様の論を「視点」を変えて論じていました。これは全文を web 版から転載します(段落変え、太字化は筆者)。

  水説 :「民」はどこへ=中村秀明

  広島と長崎の「原爆の日」の式典で、安倍晋三首相のあいさつの冒頭3段落分が、昨年とほとんど同じだったことが議論になっている。
  6日の広島。「68年前」が「69年前」になり、雨だったので「セミしぐれが今もしじまを破る」は削られた。それ以外は一字一句同じである。
  「使い回しなんて被爆者に不誠実だ」という抗議を受け、3日後の長崎ではどうするのかと注目した。だが、やはり「68年前」が「69年前」になっただけだった。
  平和と核廃絶への重い決意が感じられない、と首相への批判は根強い。
  一方で、慰霊の場が時々の権力者のパフォーマンスに利用される方が問題だ、との声も聞く。
  実は、使い回し以上に気になったことがある。違ったところ、変えた表現である。ほとんど同じだった部分の後、4段落目が微妙に違う。
  広島も長崎も、昨年はこうだった。
  「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、『核兵器のない世界』を実現していく責務があります」
  今年は違った。
  「人類史上唯一の戦争被爆国として、核兵器の惨禍を体験した我がには、確実に、『核兵器のない世界』を実現していく責務があります」
  核なき世界を目指す主語が「国民」から「国」になった。「民」は消えた。
  どっちでも同じじゃないか、というかもしれない。国民が国になり、働きかけが強くなった、というかもしれない。そうではない、と思う。
  作家・村上春樹さんのあいさつを思い出す。2009年2月、エルサレム賞の授賞式。
  「卵と壁」にたとえ、私たち生身の人間と、国家や組織、社会制度という強固なシステムとの対立を語った。
  「私たちはみな、形のある生きた魂を持っています。システムにはそんなものはありません」
  「システムに自己増殖を許してはなりません。システムが私たちをつくったのではなく、私たちがシステムをつくったのです」

  5年たって、村上さんの問いかけは重い。
  今、世界のあちこちで「民族」や「自衛」、「宗教」、「経済発展」といったもっともらしい装いをまとい、国家や組織が自己増殖しつつある。
  そして、個が押しつぶされそうな息苦しさが広がっている。
  それは、この国も決して例外ではない。首相あいさつの同じではなかった部分にそう思った。(論説副委員長)

考えてみるまでもなく、自分にも理解できない、ゆえに自分で説明もできない、そういう言葉で、書いたり、あるいは、話したりすることは、できない、してはならない、私はそう考えています。



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近時雑感 : 「分ること」 と 「伝えること」

2014-08-11 14:52:35 | 近時雑感

椎名家の大戸です。ボケてます。あしからず。


[末尾にリンク先追加 19.25」[更に追記 13日 7.20]
先日、「高次脳機能障害」についての研究者であり、「言語療法士」(「言語聴覚士」とも呼ぶようです。Speech Therapist:STの邦訳)でもある方の、自ら脳梗塞を発症、高次脳機能障害に陥り、リハビリで復帰した経験談をTVでみました
   「私のリハビリ体験記 関啓子 言語聴覚士が脳梗塞になった時」 : 13日の午後1時からNHK・Eテレで再放送があるそうです。

一言で言えば、「高次脳機能障害研究者」として「分っていた(と思っていた)こと」と「自分が実際に陥った状況」との間には、まさに「雲泥の差」がある、ということを、あらためて「知った」、逆に言えば、まったく分っていなかった、ということを「知った」、ということになるのではないでしょうか。

これはまさに「真実」だと思います。

私の場合、「話す」ということ、ものを「認知する」ということには、幸いなことに特に支障はありません。
しかし、たとえば、左手指先に遺っている「しびれ」の様態を他の人に知ってもらうことは、容易ではありません。むしろ、不可能と言い切ってもよいでしょう。実状をうまく「伝える」ことができないのです。
どういう様態か、言葉で言い表してみると、たとえば、こんな具合になります。
左手で、たとえばネコの背中をなでる、そのとき、あのネコの毛触りが「ザラザラ」として感じます。右手で感じるそれとはまったく違います。
これは今の様子。発症時は、なでる、さわっている・・・、ことさえ感じられなかった・・・!
そしてまた、「回帰の記」でも触れましたが、左手で眼鏡をはずそうとすると、左手が「目的地」に行き着かないでイライラする・・・。
あるいはまた、水道の水で手を洗う。今でも、水が最初に左手先にあたると、一瞬ですが、棘が刺さったように感じます。「冷たい水である、と認識する」まで、若干時間がかかるのです。だから、もしもこれが熱湯であったとすると、火傷することは間違いないでしょう。これは、OTの方から、気を付けるように何度も念を押されたことでもあります。
「しびれ」というとき、大方の方は、長いこと座っていて「しびれがきれる」その「しびれ」を想起するようです。しかし、その「しびれ」とは、どこか違うのです。そして、これを健常な人に的確に伝えることは、不可能に近いのです。
   今、毎朝のシャツを着るときの「ボタン掛け」の動作は、体調のバロメーターになっています。左手の指先の調子がいいと早いのです。

ところが、少なくとも私が会った理学療法士(PT)、作業療法士(OT)、言語療法士(ST)の方がたは、「私の陥っている様態を適確・的確に理解していた」、そう私には思えました。
なぜなら、彼らの「指導」(というより「示唆」と言う方がよいかもしれません)で、必ず一定程度、様態が「好転する」からです。

もちろん、彼らが、私の陥っている様態と同様な事態を、自ら経験したことがある、それゆえに「知っている」というわけではないはずです。
また、私が彼らに私の様態を正確、如実に、「伝える」ことができていたわけでもありません。

しかし、「適確・的確な示唆ができる」ということは、私が陥っている様態が何に起因しているか、彼らが(一定程度)「分っている」からである、と言ってよいはずです。

TVをみながら、私は、「分る」「分りあえる」ということはどういうことか、またまた考えていました。
本当に分るためには、ありとあらゆる事態・事象を「経験」しなければならないのか?
これは療法士の世界の話には限りません。どういう場面であっても同じです。
しかし、そのようなことは、それこそ「絶対に」あり得ません


しかし、そうでありながら、私たちは「分りあえる」ことができているのではないでしょうか。
もちろん、まったく「寸分の狂いなく分りあえる」わけではありません。
あえて言えば、「概念的に分りあえている」。それで「用が足りている」のです

しかし、こういう「分かりあえる」は、「いわゆる(近代)科学の世界」では、「分ったことにはならない」はずです。そこでは、「分る」とは「《精密に》分ること」、具体的には、数値的に鮮明に示されること、のはずです。
けれども、私たちの日常の「分りあえる」様態は、そうではないのです。このあたりについてはだいぶ前になりますが、
冬とは何か」で触れました。
そしてこれが、まさに、「 communication の『真髄』」なのだ、ということになります。

では、どうやって「概念的」に「分りあえる」ことができるのか。
いろいろ考えてみると、それを支えるのは、私たちそれぞれの「想像力」以外のなにものでもない、という「事実」に辿りつきます。
そして、この「想像力」を培うには、幾多の経験が必要、ということになります。

しかし、単に経験の数を増やしても意味がない。
常に、経験した事象を観察し、経験した事象の「構造」を読み取ることが必要になる、実は、その繰り返しがあってはじめて「経験・体験」になるのだ。そのように私は思います。「構造の読み取り」を欠いたならば、それは「経験・体験」ではない、ということです。

私が会った療法士さんたちは、多くの患者さんと接するなかで、それぞれの患者さんが抱えている「『様態』の『構造』を読み取るコツ」を学んでいたのだ、と考えると納得がゆきます。
彼らは「想像力」を駆使していたのです。「想像力」を働かせないと、患者と communicate できないのです。


では、患者である私はどうするか。どうしたか。
私は、うまくゆかないことは承知の上で、「いつものような」動作をするように、極力努めました。しかし、すべてがうまくゆくわけがない。時には、何をしようとしているのか、傍からは分らなかったに違いありません。つとめて、やらんとしていることを口にしましたが、しかし、うまく説明できているとは限らない。それでも「伝える」べく努める。そうこうしているうちに、こちらの「意思・意志」はそこはかとなく、伝わる、つまり「分ってもらえる」のです。

私のリハビリのときに、インターンの学生さんがいました。その方に、テレビのリモコンを左手では操作できない、しかし何度かやってるうちに何とかなるようになった、と話したところ、彼は、その動作を「復活」するには、どういう「訓練」がいいか、一晩考えたようでした。おそらく彼は、一晩中、患者である私の様態に近づこうとして、「想像力」を駆使し続けたのです。翌日、考え出した訓練法を彼は披露してくれました(残念ながら、具体的な内容は忘れてしまいましたが・・・)。ちょっとしたことで、私の様態が彼に「伝わった」のです。私と彼をつないだのは、お互いの「想像力」だった、と言えるでしょう。

これは、私たちの「日常」も同じだと思います。「想像力」を欠いたとき、「思い」は満足に伝わらない、伝えられない、のです。


時あたかも、広島、長崎の原爆の日。首相の「挨拶」は(昨年のコピペと揶揄されていますが)まったく心に響きませんでした。
単なる文字・単語の羅列で、そこに、広島、長崎への「想像力」を駆使しての「思い」がまったく感じられなかったからだ、そう私は思いました。
もしかすると、首相は、「いわゆる近代科学の世界観」にどっぷり浸かってしまい、抜け出せていないのかもしれません。
そう考えれば、原発再稼働や原発の輸出に、何の躊躇いも感じていないことも「納得」がゆきます。


台風が、一段と暑さを運び込んだようです。
暑さ寒さも彼岸まで・・・。お盆だというのに、彼岸が待ち遠しい毎日がしばらく続きそうです。

残暑お見舞い申し上げます。

今回に関連することを「『分ること』と『感じること』」でも書いています。[追加 19.25]



 学生時代に読んで、以後の私の考えかたを支えてくれた諸著作の抜粋を一部、下記に再掲します。


・・・・
我々は、ものを見るとき、物理的な意味でそれらを構成していると考えられる要素・部分を等質的に見るのではなく、
ある「まとまり」を先ずとらえ、部分はそのあるまとまりの一部としてのみとらえられるとする考え方
すなわち Gestalt 理論の考え方に賛同する。
                                    ・・ギョーム「ゲシュタルト心理学」(岩波書店)より
・・・・
かつて、存在するもろもろのものがあり、忠実さがあった。
私の言う忠実さとは、製粉所とか、帝国とか、寺院とか、庭園とかのごとき、存在するものとの結びつきのことである。
その男は偉大である。彼は、庭園に忠実であるから。
しかるに、このただひとつの重要なることがらについて、なにも理解しない人間が現れる。
認識するためには分解すればこと足りるとする誤まった学問の与える幻想にたぶらかされるからである
(なるほど認識することはできよう。だが、統一したものとして把握することはできない。
けだし、書物の文字をかき混ぜた場合と同じく、本質、すなわち、おまえへの現存が欠けることになるからだ。
事物をかき混ぜるなら、おまえは詩人を抹殺することになる。
また、庭園が単なる総和でしかなくなるなら、おまえは庭師を抹殺することになるのだ。・・・)
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
・・・・
それゆえに私は、諸学舎の教師たちを呼び集め、つぎのように語ったのだ。
「思いちがいをしてはならぬ。おまえたちに民の子供たちを委ねたのは、あとで、彼らの知識の総量を量り知るためではない。
彼らの登山の質を楽しむためである。
舁床に運ばれて無数の山頂を知り、かくして無数の風景を観察した生徒など、私にはなんの興味もないのだ。
なぜなら、第一に、彼は、ただひとつの風景も真に知ってはおらず、また無数の風景といっても、世界の広大無辺のうちにあっては、
ごみ粒にすぎないからである。
たとえひとつの山にすぎなくても、そのひとつの山に登りおのれの筋骨を鍛え、やがて眼にするべきいっさいの風景を理解する力を備えた生徒、
まちがった教えられかたをしたあの無数の風景を、あの別の生徒より、おまえたちのでっちあげたえせ物識りより、
よりよく理解する力を備えた生徒、そういう生徒だけが、私には興味があるのだ。」
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
・・・・
私が山と言うとき、私の言葉は、茨で身を切り裂き、断崖を転落し、岩にとりついて汗にぬれ、その花を摘み、
そしてついに、絶頂の吹きさらしで息をついたおまえに対してのみ、山を言葉で示し得るのだ。
言葉で示すことは把握することではない。
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より
・・・・
言葉で指し示すことを教えるよりも、把握することを教える方が、はるかに重要なのだ。
ものをつかみとらえる操作のしかたを教える方が重要なのだ。
おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、それが私にとってなんの意味があろう?それなら辞書と同様である。
                                    ・・サン・テグジュペリ「城砦」(みすず書房)より

更に追加すれば、まだあります。いくつか、次の記事で紹介しています。
  「形の謂れ・補遺」 [追記 13日 7.20]
コメント (2)
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近時雑感 : 暑中お見舞い申し上げます

2014-07-26 10:10:00 | 近時雑感


昨年に比べ、蒸し暑い日が続いています。
暑中お見舞い申し上げます。

隣地のネムノキの花が、やっと盛りを迎えました。今朝の写真です。空が霞んでいます。天候は晴ですが、気温29℃、湿度75%!

いつもはもう少し早く咲いたのではないかと思います。今年は雨が多かったせいかもしれません。

丘陵の縁辺の広葉樹林に咲いていると、そこだけ、薄い紅色の雲がたなびいているように見えます。
みんな実生です。実に羽が付いていて遠くまで飛んでゆくのです。
思わぬところに咲いていて、こんなところにも・・・、と思うことがしばしばです。繁殖力が旺盛なのです。


「日本家屋構造」の紹介の編集、ゆっくりとやっております。もう少し時間をいただきます。

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近時雑感 : 初夏の風物

2014-06-02 14:45:00 | 近時雑感


六月になりました。早いものです。

写真は、近在の畑の地境に植えられているウノハナ:ウツギです。
盛りは過ぎましたが、香りに誘われてハナムグリやいろいろなチョウが群がっています。
ホトトギスは、当地には五月のはじめごろから現れ、今も、毎朝けたたましく啼きながら翔んでいます。
近くの藪では、ウグイスが四六時中忙しく囀り、時折キジも鋭く啼いています。
いつもならキジは山に帰る頃。もしかしたら、このあたりが山になったのかも・・・。
神社の杜からはキツツキのドラミングが聞こえてきます。音の大きさからすると、アカゲラかもしれません。
夜になれば、神社の杜や近くの林からは、コノハズクでしょうか、ホーホーと寂しげな声が響いてきます。たんぼからはカエルの声。
今は、彼らの季節なのです。
  コゲラは近くまで来るので見かけるのですが、アカゲラコノハズクは、まだ姿を見たことがありません。

季節外れの猛暑とのこと。
たしかに暑くなりました。が、さいわい当地はいまのところ爽やかな風が通り、いい季節です。

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近時雑感 : 「事実」と「風評」

2014-05-16 10:30:07 | 近時雑感

続・ブルーベリーの花。
今は花は散り、実になりつつあるようです。



コミック「美味しんぼ」に描かれた原発周辺での体調変化の件が騒がれています。そしてそれが、福島の「評判」を悪くし、風評被害を生むから怪しからん、との「論調」が一部にあるようです。

この状況に違和感を感じるのは、私が「異常」だからでしょうか?

原発周辺一帯は、何段階かのグレードで「危険地帯」として「指定」されている筈です。
では、どのように危険なのか、どうしてそこで暮しては危険なのか、具体的に「危険」の様態について、たとえば、そこに居続けると、どのように体調に変化が生じるのか、などについて詳しく語られ、知らされ、示されているのでしょうか
少なくとも私は知りません。知らないのは私だけでしょうか。
私が知らされているのは、年間何ミリ以下なら問題ない、ということぐらいだけではないでしょうか。

「何ミリを超えると危険だ」という以上は、そのとき、何が体に起きるか、「いわゆる専門家」たちは知っている筈です。なぜそれが具体的に示されないのか。
「起き得る事象」が、具体的に示されていない、これこそが「風評」を生む最大の因だ、と私には思えます。
「事実」が広く世の中に知られると、何か不味いことでもあるのでしょうか?

世の中、「専門家」「有識者」任せにしておけばよいのでしょうか。私たち一般人は、彼らの「思惑」に従え、ということなのでしょうか。

これは、ことによると、昭和の時代よりも恐ろしいことが起こる予兆ではないか、そのように私には思えてなりません。

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近時雑感 : 無事に生きています。感謝!

2014-05-15 17:32:26 | 近時雑感

10日ほど前のブルーベリーの花です。
カラスアゲハが遊んでいたのですが撮影失敗。
チャンスを待っているうちに花が散り、来なくなってしまいました!


昨日14日は、退院一周年でした。
左手指先の痺れと左ひざの耐力(重心移動を支える力)の弱さは相変らずです。
手先を使う微細な仕事にイライラすることはありますが、杖を使わず、一度も転ぶこともなく、一年が過ぎました。

無事に生きていられることに感謝しなくてはならない、と思いつつ過しています。
コメント (2)
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近時雑感 : 風薫る

2014-04-28 10:00:00 | 近時雑感


神社の杉の林の中で、杉の背丈を超えて枝を張るの若葉です。
欅をツキノキと呼ぶ地域があり、の字が当てられていますが、この姿を見ると、それは、「突き」からきた呼び名ではないか、と思いたくなります。
樹々の緑が日ごとに濃くなってきました。
いい季節です。気象情報では花粉の飛散は少なくなった、とのことですが、未だにくしゃみは出るは、目はかゆいは・・・・・。
まわりを杉檜の林で囲まれているのだから、そして日ごろそういう環境を満喫しているのだから、文句を言う方が間違っている・・・・・・、そう思いながら過ごしています。

過日の記事で紹介させていただいた東京新聞の連続社説「ドイツは失敗したかには、その後2回の連載がありました。
福島原発の事故を機に、当事国の日本とは逆に、国を挙げて脱原発に舵を切ったドイツのありようについての論説です。
今回、その続き2回分を TOKYO Web から、印刷、転載させていただきます。



ドイツの人びとは、あくまでも理性的だ、目先の利を追い求めずに、を通す。これが私の読後の感想でした。

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近時雑感 : 春 たけなわ !

2014-04-14 15:15:00 | 近時雑感
昨日今日、暖かい日が続いています。
てきめんに体が軽くなります。

昨日の日曜日、私の所の西側、小さな谷一つ隔てた丘へ、ちょうど満開の山桜を見に行ってきました。

南傾斜の斜面の上端に生えている樹です。右手前の二本は栗の木。実生だと思います。栗の木に囲まれている場所は、近世の墳墓址と言われています。
丘の上一帯は畑地化されていますが、此処だけは残されているのです。まわりより、少し小高くなっています。

斜面の向うに、田起しの終った水田が見渡せます。もうじき水が張られ、このあたりでは、今月末からの連休は、家中総出の田植えになります。

私は、新緑の初め、芽を付けだした木々の間に咲く山桜が好きです。


今度の日曜日は、「かすみがうらマラソン」。私の所は、そのルートに囲まれているので、ほぼ一日、そこから外には出られなくなります。





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近時雑感 : 「好い加減」

2014-03-23 11:01:18 | 近時雑感

サンシュユ:山茱萸の花が盛りになりました。中国大陸が原産とのこと。
冬枯れの山野で出会ったら、感激するのではないか、と思います。
ジンチョウゲ:沈丁花の香りも漂っています。
藪では、鶯が囀り、雉がけたたましく鳴いてます。
彼岸が過ぎ、春到来を実感します。



[註記追加 24日 9.00]
いいかげん」、これほど正反対の意味を持つ語はないでしょう。

「新明解国語辞典」には、
いいかげん」:「好い加減
① 「過不足のないころあい」、
② 「一貫性や明確さを欠いていて、それに接する人に、うそ・ごまかし・でまかせだという印象を与える様子」とあります。
①は、風呂の湯加減について使うぐらいで、普通は②の意で使う方が多いかもしれません。そのときは「好い加減」という表記ではなく「いいかげん」「イイカゲン」と書く方が「好い加減」かも・・・・。
そして、もう一つ
③ 「限度を超えていて、そろそろ何とかしてもらいたい感じだ、ということを表す」

この「いいかげん」な話が、昨今いくつも話題になっています。

一つは、売約済みの「高級集合住宅(世のナライの表現では高級《マンション》)」が、完工間近なのに全解体することになった、という件。
詳しくは知りませんが、「工事ミス」がいくつも露見しているようです。
「代表的」なのが、設備配管用の孔が用意されておらず、コンクリート打設後に壁を刳り貫いている箇所が、聞くところによると1000のオーダーを越えるほどある、とのこと。
建物の設備機器、配管・配線は、人体で言えば、諸臓器と動脈・静脈・毛細血管、神経系統の関係のようなもの。設計図の作成上、極めて注意を払うところです。建物が建物として機能しなくなるからです。そして、工事は、設計図の指示に応じて進行する。
ところが、工事に於いて、そのために必要な作業が忘れられていた、そこで、できあがってしまったコンクリートの壁を刳り貫かざるを得なくなった、ということらしい。
この刳り貫くことを「コア抜き」と呼んでいます。
「コア抜き」は、普通は、既存の壁などに、新たに配管を通す必要が生じたようなとき、(たとえば、エアコンを新設することになり、ドレイン管を通す孔を設けるようなとき)やむを得ず行なわれる工事です。リング状の刃の付いたドリルを回転させて穿孔します。鉄筋コンクリートの壁などでは、鉄筋も切断できます。
木造の建物の場合ならともかく、鉄筋コンクリートの壁では、あまりやりたくない。鉄筋を切ってしまう恐れがあるからです。必要だから入れてある鉄筋を切るには「勇気」がいります。
だから、鉄筋コンクリート造では、普通は、コンクリート打設前に、孔の用意をするのがあたりまえ。当然、設計図には、その「用意」を指示する必要があります。
しかし、事前に分っている、つまり設計図に示されている設備用配管のための孔の用意を「失念する」ことがあります。これはいわゆる「工事ミス」。そのようなとき、やむを得ず打設後に穿孔することもあります。
しかし、この件の場合は、どうも、そういう「用意の忘れ」が異常に多い。用意を一切しなかったのではないか、と思われても仕方がないほどの多さのようです。つまり、「工事ミス」とは言い難い。

そもそも、「設計」の「設」の語の字義は、「前もって用意する」という意味。「計」は、「企て」。したがって、「設計」は、「建物を建てるという企てのためのあらかじめ用意をする」こと。それを、図で示したのが「設計図」、ということになります。
   各語の語義は「字通」「大修館・新漢和大辞典」に拠っています。
それゆえ、設計図には、その建物の建築にあたり必須な事項が極力明示されていなければならない。配管が必要なら、位置、大きさなどが明示されていなければならない。
たとえば、木造建築の場合、柱や梁・桁を貫いて配管を通すことは考えません。最初から、それらを避けて通すように考える。鉄筋コンクリート造、鉄骨造でも、基本的には変りはないはず。この点についての「思案」は、設計を為す場合必須なのです。したがって、「設計図」には、この「思案」の結果が盛り込まれていなければおかしい。
そして、施工時には、配管経路などを正確に割り出しておく必要があります。そのために、現在の現場では、通常、「施工図」だ描かれます。

しかし、「施工図」を描くためには、「(実施)設計図」に、「施工図を描くために必要な諸事項」が指示されている必要があります
   「施工図を描くために必要な諸事項」:人体で言えば、諸臓器と動脈・静脈、毛細血管の位置などに相当します。
   特に、集合住宅のような場合には、かなり詳しく決めておかなければならず、更に、保守点検のための方策を考えておくことも必須です。
ところが、最近、「施工図を描くために必要な諸事項」の示されていない図が、「(実施)設計図」と称されて世に蔓延っているのではないか、と私には見えます。
そんなことは、「施工図」を描く者が考えること、と設計者が思い込んでいるからではないでしょうか。設計者は出来上がりの恰好を考えているんだから、皆の衆、それに協力せよ・・・

もっとも、今回の件は、単純に、工事業者の、工程省略による《経費の合理化》:「求利」が目的だった、と考えた方が分りやすい・・・。
出来上がってしまえば分らないよ、誰も見てないんだから・・・。
この建築工事は、日本で一二を争う大手工事業者の「請負」仕事。設備工事も同様らしい。
しかし、見ている者がいた。現場で工事に関わった人が、さすがに見るに見かねて「内部告発」をしたようです。

請負(仕事)」というのは、江戸時代に始まった工事方式です(前もって定めた金額で、全責任を負って仕事を引き受ける契約方式)。
この方式は、本来、依頼する側と引き受ける側相互の「信頼」の下で成り立っていた
「信頼」というのは、一人称・二人称の世界で初めて成り立つ関係。
ところが、第三者の関わらない二者だけの関係であることをいいことに、「請負」の名に便乗し利を貪る策に変質した・・・。
これは氷山の一角に過ぎず、これに似た「いいかげんな」事例が、水面深く大量に隠されているのかもしれません。
この「事件」、なんとなく、偽《ブランド品》を買わされるのに似ている・・・。住宅を購入した人たちも《ブランド》で買ったのでは?

町場の大工さんの仕事も多くは請負仕事。しかし、彼らは《ブランド》で仕事をしているのではない。施主との「信頼」で仕事をしている。仕事の「質」が「信頼」の基。だからこんな事件は起こさない。起こすわけがない。起こせない。

   工事が行われていた以上、「建築確認」済のはず。確認申請には、「設計図書」が添付されている。そういう役所お墨付きの設計図があるではないか、
   と思われる方が居られるかもしれません。
   これは誤解。大きな誤解。この「添付図書」は「設計図」ではないのです。あくまでも「申請図書」。
   しかし、今は、設計を「専門とする(はずの)」建築士にも、「確認申請添付図書=設計図」と考えている方が多いようです。   
   確認申請添付設計図書には、「確認審査をする人間にとって審査をする上で利便なように」諸項の記載が要求されます。
   しかし、それら諸項は、工事をする側にとっては必ずしも必要な事項ではなく、むしろ煩わしい余計な事項の方が多いのです。

   たとえば、「床高」(設計GL~床面)の明示が要求されています。
   それゆえ、建築士試験の製図でも必須とされ、教育機関でも、そのように描くことが「教育」されます。
   CADソフトもそうなっているらしい・・・。
   しかし、木造であれRC造であれ、床高は仕上り床高、いくつかの工程を経てできあがる「結果」。つまり、床高位置は、当初はいわば宙に浮いている。
   宙に浮いている位置の指示は、「実体」をつくり上げる人:工事をする側にとっては無意味。
   例を挙げれば、申請添付設計図書の床高寸法がラウンドナンバーであっても、実体の位置寸法は、ラウンドナンバーにはならない
   工事をする方がたは、床高表示の図面から、逆算をして「実体」の位置寸法を算定するという面倒で余計な作業をせざるを得ないのです。
   工事をする側にとっては、当然、実体の位置寸法が分りやすい寸法の方が「好い加減」。
   実体が分りやすいように按配して描いてこそ、「設計」という本来の意に即した「設計図」である、と私は考えています。
   そして、「設計図」が本来の意に即しているならば、「現今見られる施工図」は、本来不要のはずなのです。
   と言うより、現在多くの《建築家》の為さる仕事では、施工者が用意する「施工図」が「設計図」なのです
     これも昨今話題になった「作曲」事件で、「作曲指示書」を「作曲実行者」に示した《作曲家》に相当するのが現今の《建築家》と言えるかもしれません。
     そして、多くの「建築士」も、それを見倣い「エラく」なる、「エラく」なりたがる・・・。
   ついでに・・・。
   この解体「事件」の報道で、「論評」を加えていた人を「欠陥住宅の専門家」と紹介していました。これにもいささか驚きました。
   「いいかげん」にしてくれ。世の中何でも専門家頼み・・・?!。

    註記追加[24日 9.00]
    「日本家屋構造・中巻・製図篇」の矩計の描き方は、先ず、土台下端~桁上端を指示するべくあったと思います。要は、「実体」間の寸法の指示。
    設計GLは、いわば仮定線。だから、寸法に実体がない。
    その他の「木割」も、すべて「実体」の位置を指示していることに留意したい、と思います。
    これに比べ、当今の建築(教育・行政・その他諸々)は、如何に「机上の空論」で為されていることか・・・・!!嘆かわしいかぎり。


「万能細胞」の「研究」の話も賑やかです。

大方の「論議」は、画像の使い回しや、他論文のコピ・ペについて。それ自体、確かに「いいかげん」なことではありますが、私が最も「いいかげんなんだ」、と思ったのは、論文の共著者の方がたが、「異常」に気付いていない、ということ。そして、「同様の事態」が博士論文の「審査」に於いても見過ごされている、ということ。
研究内容は、世に言う「系」の研究。であるにも関わらず、どうして事態は不条理な道筋を進んだのか。「理解」に苦しみます。
   念のため、「新明解国語辞典」から
    理解:それが何であるか(を意味しているか)正しく判断すること。
    正しい:① 道理・法に合っている様子だ。② 真理・事実などに合っていて、偽りやまちがいが無い。
    真理:① 正しい道理。② その物事に関して、例外なくあてはまり、それ以外に考えられないとされる知識・判断。ex「真理[=学問]探求の学徒」

もしかして、「理系」の「研究」も、「今の世の中の風潮」に染まり「利系の研究」に堕している、のでなければ幸いです。

つまるところ、「一貫性や明確さを欠いていて、それに接する人に、うそ・ごまかし・でまかせだという印象を与える様子」の意での「いいかげん」が蔓延るのは、
世の中が、自分の利にとって都合がよい、すなわち「自分の利にとって好い加減」な状態を求めたがる傾向が強いからなのかもしれません。 それが「今の世の中の風潮」・・・。
そして、時には「自分の利にとって好い加減な状態を求める願望」が「実態」であるかに思い込んでしまう。あるいはまた、修飾語で「実態」を隠蔽する。
要するに、「夢」と「現実」の見境がつかなくなる・・・。
しかも、国のトップを任ずる方がたが率先してその風潮を加速させている。
曰く「福島原発はコントロールされている・・」、曰く「復興の動きが肌で感じられた・・」、曰く「《積極的》平和主義・・」・・・・

あまりにもいいかげんが過ぎる。私にはそのように思えます。

しかし、この「風潮」に「待ったをかける」のは、「待った、をかけることができる」のは、私たち自身であって、人任せにはできない。人任せにしてはならない。そう思っています。



このブログを書くにあたって、極力、「いいかげん」にならないように:自分に都合のよいようにならないように、心しているつもりではあります。
しかし、それは、私の「願望」。実態が「いいかげん」になっているかもしれません。
もしも、これはどうみても「いいかげんだ」と気付かれたときは、何なりとご指摘くださるよう、お願いいたします。
コメント (5)
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近時雑感 : 「ユマニチュード」の語に思う

2014-02-11 12:25:13 | 近時雑感

8日の雪は25㎝ほど積もり、吹き溜まりでは長靴が埋まるほどでした。
柿の木にも写真のように北西側に積もっています。9日朝7時過ぎです。
9日は午後から集落の方が総出で重機を使い道路の雪搔き。
掻ききれない雪を除くには手作業。微力ながらお手伝いをさせていただきました。
午前中から家のまわりもやっていたので、さすがに左脚がこたえました。
今日11日も雪がちらついてます。


[蛇足追加 12日9.10][註追加 12日 9.25]
先日、「ユマニチュード」という言葉を初めて耳にしました。
NHK「クローズアップ現代」で、「いわゆる認知症」の「新療法」として、日本の医療・看護・介護の世界で「ユマニチュード」が最近話題になっている、と報じていたのです。
それによりますと、「ユマニチュード」というのは、35年ほど前にフランスで始まり、ベルギー、ドイツなど西欧でも最近採りいれられるようになった「療法」とのこと。フランス語の「造語」では?
   註 おそらく、英語で言えば、humanity + attitude で、「人としての(心)構え」というような意ではないかと、勝手に思っています。[註追加 12日 9.25]
その「基本」として、①「見つめること」、②「話し掛けること」、③「触れること」、④「立つこと」の四つが挙げられていました。「見つめる」というのは、相手の目を見ながらという意味のようです。「話し掛ける」ときは、上から見る、見下ろす位置ではなく、相手と同じ高さに居ることが要点のようでした。「触れる」というのは、いわゆるスキンシップ、「立つこと」とは、「歩ける(ようになる)こと」の意のようです。
要は、「いわゆる認知症」の方は、この基本に立って接する(看護・介護する)とき、医療者・看護者・介護者に対して心を開き、結果として、容体は格段に向上する、ということのようでした(これは、あくまでも、私の「理解」です)。

今、「専門」「専門家」の世界では、「医療を行なう人―医療を受ける人」、「看護する人―看護を受ける人」、「介護する人―介護を受ける人」、・・・、つまり「「専門のサービス行為を行う人―そのサービスを受ける人」という「関係」の存在が、「あたりまえ」になっているはずです。そしてそのとき、この「関係」の様態は、常に、「専門のサービス行為を行う人>そのサービスを受ける人」となっているのが現代の常態ではないか、と思います。
更に、こういう「現在の様態」を、「いわゆる健常者」の世界では、人は別段気にも留めないでしょう。というより、気に留めなくなってしまっている。そういう風に馴らされてしまっている。そういうものだと、いわば「諦めている」。
ところが、「いわゆる認知症」の方は、自分にとって理不尽(に思えるような)ことには、唯々諾々として従わない、従わなくなる
多くの医師・看護師・介護士の方がたが、医療・看護・介護を頑強に拒否された経験があるようでした。ベッドに拘束する、などというのは「出歩かないように」と言っても「言うことは聞かない」から、嫌悪感・罪悪感を感じつつも「介護のためにやむを得ずなのだ、と自らに言い聞かせながら」拘束するのだそうです。
ところが、「ユマニチュード」の方法に留意して「いわゆる認知症」の方がたの看護・介護にあたると、容体は目に見えて格段に向上する。たとえば、歩けなかった方が自ら進んで歩くようになったり、無表情だった顔の表情が豊かになる、話し掛けに一切応じなかった方が懸命に話をしようとする・・・などの感動的な姿が映像で伝えられていました。
おそらく、「いわゆる認知症」の方は、「いわゆる健常者」が「馴らされてしまっていたこと」から、解放されているのだ、人本来の姿に戻っているのだ、と私には思えました。「ユマニチュード」で接するとき、人本来の姿で接してくれていることが分り、心を開くのだ、と思われます。
別の言い方をすると、「医療を行なう人-医療を受ける人」、「看護する人-看護を受ける人」、「介護する人-介護を受ける人」の関係が、現在は普通「三人称の世界」になっているのに対し、「ユマニチュード」では「一人称~二人称の世界」になる、と言えるかもしれません。「私と彼・彼女」ではなく、「私たち」あるいは「私とあなた」の関係になるのです。
「三人称の世界」とは、言い換えれば、「人」を、この場合は「いわゆる認知症」の方を、「一つの対象として見なし扱う世界」と言えるでしょう。
そして、実は、このような見かたは、「近代」が進んで取り入れてきた「人の世、世界の事象全般に対する見かた・思考法」だった、と言えるのではないでしょうか。それはまた、「いわゆる近代科学」の拠って立つ「地盤・基盤」でもあった・・・。[基盤の語追加 12日9.40]

私は、この番組を見ていて、「ユマニチュード」の考え方・人への接し方は、なにもいわゆる「認知症」の方への接し方ではない、人と人との関係、更には人と事象・事物との関係、その基本的・根本的見かたにかかわる話であって、少し大げさに言えば、現代の大方が拠って立つ「近代的思考法」にいわば挑戦しようという考え方なのではないか・・・、と思いました。
そして更に、近代以前の日本人の事物・世界への対し方は、考えてみれば、たくまずして「ユマニチュード」の考え方そのものだったのではないか、しかるに、日本は、近代化の名の下で、人びとにとってごく自然であたりまえであったこの考え方を捨てることこそ近代化である、と見なして捨ててきた。今も変わらないどころか、一層ひどくなっている・・・。
ところが、彼方の近代思考法・思想の源泉の地では、周辺諸国も含め、その radical な「再考」が始まっている・・・
   蛇足 日本人だけがそうだった、という意味ではありません。
        そもそも、「人」というのは、どの地域で暮そうが、そうだったのです。
        しかし、日本人は、それこそが近代化だと思い込み、それを捨て、忘れ去ることに、今でも夢中になっているのではないか?[12日9.10追加]

番組を見て、私は、明るい気持ちと暗い気持ちの両方を抱き、複雑な気分でした。

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