私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

英国植民地シエラレオネの歴史(1)

2007-05-16 10:05:58 | 日記・エッセイ・コラム
 1787年、熱心な奴隷貿易廃止論者グランヴィル・シャープが提唱する開放奴隷のための「自由の地(The Province of Freedom)」建設を目指して、ロンドンから黒人白人混成の一団がシエラレオネに入植します。
 1792年には、英領カナダの大西洋沿岸の地ノヴァスコシアから千二百人ほどの解放奴隷たちが入植し、シエラレオネ植民地の首都がフリータウンと命名されました。アメリカ独立戦争(1775-83)で英国軍の側で戦った三千人余の黒人奴隷たちは負けた英軍と共に北に敗走し、ノヴァスコシアで解放されて生活を始めていたのです。
 1807年、英国は奴隷貿易の禁止に踏み切り、大西洋での取り締まりを強化、翌1808年には、それまで民間会社が経営していたシエラレオネ植民地は英国政府直轄となります。英国海軍が洋上で拿捕した奴隷密貿易船から解放された黒人が次々とシエラレオネに送り込まれ、1833年には奴隷制そのものも廃止されて、その人口が増えて行きます。こうして解放奴隷を主な入植者とする英国植民地シエラレオネは1961年に独立するまでの約180年間存在を続けました。
 英国植民地シエラレオネの歴史をこのように要約すると、それは英国の国家としての倫理性の高潔さを示しているように見えます。上の要約に「1827年には解放奴隷の子弟のためにフォーラー・ベイ・カレッジがフリータウンに開校し、約200年の歴史を誇る西アフリカ最古の大学として、英語圏西アフリカの高等教育の拠点であり続けた」とでも付け加えれば、英国植民地シエラレオネの美化は完成します。しかし、現実の歴史の詳細を覗き込めば、その美しいイメージは無残に壊れてしまう--要するに、英国植民地シエラレオネも、米国植民地リベリヤと同じく、アングロサクソンの黒人棄民政策の産物であったのです。ホブソンのいう、プラトンの「魂の嘘」の意味で、国民的偽善性においては、シエラレオネの方がより罪が重いというべきです。
 前にも申し上げたことですが、英国植民地シエラレオネの歴史は濃厚な内容を持っていて、その本格的な記述は、スペースの点からも私の知識と力量の不足の点からも、ここで企てるべくもありません。したがって、以下では、幾つかのエピソードに筆を絞り、覚え書き的な「英国植民地シエラレオネの歴史」を提供します。専門の方々からの叱正を切に願っています。
 第一話は「ヘンリー・スメスマン」。18世紀後半の世界史の大事件といえば、勿論、アメリカ独立戦争(1775-83)です。独立を押さえようとした英国側は、旗色が悪くなるにつれて、支配下の黒人奴隷を「解放」の約束をエサにして戦力に組み込んで行ったのですが、結局、ワシントン将軍率いるアメリカ軍に打ち負かされて北へ南へと敗走します。そうした黒人数千人は英国白人と共に北の英領カナダの大西洋沿岸の地ノヴァスコシアに落ち延びて、その大部分は、一応、開放奴隷、つまり、自由な人間としての生活を始めます。他の解放黒人は南の西インド諸島の英国植民地ジャマイカにも流れ、また英国本土のロンドンなどにも流れ込みました。その頃すでに奴隷貿易廃止運動が盛んになりかけていた英国社会の進歩性の風評が、数千人の解放奴隷黒人たちに新しい生活の場としてのロンドンに足を向かわせたと思われます。確かに、北米大陸での奴隷生活よりは「自由」に生活は出来たものの、流れ込んだ黒人たちはロンドンで貧困生活を強いられることになりました。アメリカ独立の1783年以後、黒人貧民の増加に対処するため、ジョナス・ハンウエイは黒人貧民救済委員会を立ち上げ、富裕な慈善家たちから多額の寄付金を集めて、黒人貧困者に無料でスープ、パン、肉などを毎日与える事業を始めました。一日当り数ペンスの現金が与えられることもありました。ロンドンには白人の乞食たちも沢山いたのですが、その中には顔を黒くして黒人に化け、大盤振る舞いの慈善にあずかろうとする者もあったようです。しかし、北米大陸で英国側に付いた黒人貧民の報償に、黒人に対する真の同情を見るよりも、英国の上層部の偽善性の本性を見据えるべきなのです。自己の善行への心酔と耽溺であり、貧困黒人に向けられた真の愛ではなかったのです。実際、ハンウエイ自身も、貧民層の黒人と白人の間で性関係が増加し、混血児が増加していることを憂慮して、英本国に集まってくる解放奴隷黒人の問題を根本的に解決するには、どこかに植民地を開いて、そこに彼らを送り出してしまうことだと、始めから考えていたようです。ロンドンの社交界の会話でもそのアイディアがしきりと語られるようにもなりました。
 さて、ここに詐欺師もどきの奇人ヘンリー・スメスマンが登場して、解放奴隷黒人たちを国外に出してしまいたいという英国人の意識水面下の願望を、本音を、英国植民地シエラレオネという形で一挙に実現するための堰を切る役を担うことになります。
 スメスマンは、18世紀の偉大な植物学者・探検家として名を残すジョゼフ・バンクス卿(1743-1820)に依頼されて、1771年から3年間、シエラレオネの沖のバナナ諸島で植物標本収集に従事しますが、そのうちに白蟻をはじめ各種の蟻と蟻塚に大変興味を持つようになり、昆虫学者になってしまった変わり者です。その頃シエラレオネは奴隷の輸出で知られてはいましたが、植民地化はされていませんでした。3年の滞在の間に、スメスマンは、辺りの西アフリカ沿海地方が西インド諸島やブラジルにも勝る植民地となる可能性があるという考えに取り憑かれ、英国に帰った後、借金取りから身を隠す目的もあってフランスに行った折りには、新しく独立した米国政府の代表フランクリンにも自分の「名案」を話したのですが、相手にしてもらえなかったようです。スメスマンによると、黒人奴隷の価格の急激な高騰と、コーヒー、サトウキビ、タバコ、綿花などの栽培についてのシエラレオネ地方の適性とを併せ考えると、解放奴隷黒人を受け入れ、自由労働者として雇用して、植民地経営は十分以上にソロバンが合う、というのが彼のビッグ・アイディアなのでした。
 ハンウエイによる黒人貧民救済委員会の立ち上げは、スメスマンのプランの売り込みに絶好の機会を与えました。1786年の春、スメスマンはシエラレオネをまるで地上の楽園ででもあるかのような誇張の言葉でハンウエイの委員会や奴隷貿易廃止運動の先頭に立つ名士グランヴィル・シャープに売り込みました。スメスマンによれば、シエラレオネは「one of the most pleasant and feasible countries in the known world」であり、その土壌はほんのちょいと鍬を入れるだけで豊作間違いなしの豊かさで、しかもそうした土地は耕したいだけ入手できる広さがあるから、一度入植したら、二度と離れる気にはならず、子々孫々そこで栄えることになろうという見通しでした。その上、スメスマンの試算によれば、英国内の黒人貧民のシエラレオネへの移住入植は一人当り占めて14パウンドの政府出費で実行可能とのことでした。このスメスマンの「シエラレオネ・プラン」にシャープもハンウエイも簡単に乗せられました。こうして、このブログの冒頭に書いたように、1787年には、英本国からの黒人白人混成の一団のシエラレオネ入植が実現しました。では、スメスマンの説いた夢の楽園は実現したのでしょうか? いやいや、スメスマンの言ったことは、根拠の無い,まるっきりの嘘っぱちで、入植者には苛酷な災難が襲いかかりました。 その話は次回にいたしましょう。ただ、今回の話の締めくくりとして、スメスマンという男のいい加減さを、もう少し見ておきましょう。スメスマンがバラ色のシエラレオネをロンドンの名士たちに売り込んだ1786年の前年の1785年、英国政府の一委員会がシエラレオネの北の余り遠くない所にあるガンビアの流刑植民地としての適否を検討した際、その辺りの気候風土に通じた人物として諮問を受けたスメスマンは、高温多湿の風土気候の凶悪さを強調し、医者や薬がなければ、送られた罪人の100人中99人といわず、6ヶ月の内に死んでしまうだろう、と証言していました。シエラレオネの売り込みに成功した直後の1786年の夏、スメスマンは急病で亡くなりましたが、その後、黒人貧民救済委員会の金を着服して自分の借金の返済に充てていたことが発覚しました。

藤永 茂 (2007年5月16日)



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