私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

英国植民地シエラレオネの歴史(2)

2007-05-23 11:37:13 | 日記・エッセイ・コラム
 今回の話のタイトルは「オラウダ・エクイアノ」。Olaudah Equiano、生れは多分1745年、1797年に亡くなった黒人の名前です。知識層の黒人ならば、おそらく、誰もが知っている名前でしょう。立派な英語で書かれたこの人の自伝は1789年に出版されて当時のベストセラーになりました。何万人という英国人が奴隷出身の優れた黒人のライフストーリーを熱心に読んだわけで、それ以来、この古典の出版は絶えたことがなく、今日でも何種かの版が容易に入手できます。ただし、私が本書を知ったのはほんの数年前のことです。
 小説『闇の奥』の著者コンラッドをレイシストと呼んだ黒人作家アチェベに反論する一つの戦略として、「非白人作家、非白人英文学者の誰それが『闇の奥』を高く評価しているから、アチェベのコンラッド非難は間違っている」とする白人英文学者たちがいます。彼らが頼りとする非白人の一人はスリランカ人(?)のGoonetilleke で、この人が編集した Heart of Darkness のテキストを2002年に買った時、その付録部分でオラウダ・エクイアノの名を初めて知りました。1897年1月、今のナイジェリアのベニンで英国人9人が惨殺される「ベニン大虐殺」事件が発生し、英国は直ちに反応して強力な討伐軍を派遣して、同年2月ベニンを首都としていた王国を亡ぼし、辺りを英国領土としてしまいます。ベニンの黒人王国が、口にするのもおぞましい人身供儀などの野蛮な風習を保っていたとして、これを英国はベニン侵攻占領を正当化する理由としました。Goonetilleke は、この事件がコンラッドのコンゴ行き(1890年)と『闇の奥』執筆(1898-99年)に挟まれていることを重視して、2冊の本、R. H. Bacon の『Benin: The City of Blood 』(1897年出版)とオラウダ・エクイアノの自伝(1789年出版)、から可成り長い引用をしています。ベーコンはベニンの王が血に飢えた絶対君主だったと強調します。コンラッドはここから『闇の奥』のクルツ創造のヒントを得たかも、とGoonetilleke は示唆します。では、エクイアノの自伝からの引用は何のため? 実は、エクイアノはベニン王国(今のナイジェリアの一部)の奥地の生れで、白人など見たことも無かった平和な少年時代の思い出が綴られているのです。この二つの引用文を並べて読むと、ベーコンの本には、ナイジェリアの植民地化を正当化するための誇張と欺瞞が含まれていることが感ぜられます。これが編集者Goonetilleke の意図だと考えれば、白人英文学者が期待するほどGoonetilleke は頼りになる味方ではないかも知れません。因みに、アチェベはナイジェリア出身です。
 前置きが、いや道草が、すっかり長くなってしまいましたが、この奴隷出身の傑物オラウダ・エクイアノは、ロンドンから「自由の地」シエラレオネへ初の入植者を送る事業に深く関わっているのです。それが前回に続く今回のお話の主題です。
 1786年7月1日にスメスマンが急死すると、公金横領が明るみに出て、ハンウエイはスメスマンを烈しく非難しましたが、9月にはハンウエイも病に倒れて死んでしまい、シエラレオネ計画推進の主役はグランヴィル・シャープが担うことになりました。スメスマンが売り込んだ地上の楽園シエラレオネのイメージは白人たちにはすんなりと受け入れられたのですが、ロンドンの黒人たちはその受け入れに遥かに慎重でした。それには十分の理由があったのです。
 まず、この1786年の時点では、奴隷の売買も保持もまだ合法であり、英国の奴隷貿易廃止は1807年、奴隷制度廃止は1838年、つまり、遥か先のことだったことに注意しましょう。シエラレオネの現地でも、依然として、奴隷売買が続けられていましたから、せっかく、自由の身になって英国内に住み着いた元奴隷たちが、シエラレオネでまた奴隷商人に捕まって、あるいは、騙されて売り飛ばされる危険があったのです。次に、シエラレオネ植民計画を支持する英国の上流人士の中には、奴隷保持者として知られている人たちも混じっていて、これも黒人たちの不安の種になっていました。慈善事業を装っていても、植民地開発事業は本質的に営利を目的としたものであり、民間の開発会社が設立され、その株が売り出されて人々の投資の対象になったわけです。シエラレオネの土地風土はコーヒーや砂糖などの栽培生産に最適--というスメスマンのホラを鵜呑みにして、一儲けしようと投資した白人たちも少なくなかったことでしょう。しかし、シエラレオネ入植にこれからの運命を賭ける黒人たちは、またぞろ奴隷の身分に戻されてはかなわないと、つい慎重になったのも当然でした。
 ハンウエイの死後、黒人貧民救済委員会の実務はスメスマンの書記だったジョゼフ・アーウィンが担当、シエラレオネ入植希望者の数も次第に増えて数百人に達し、シャープなどの尽力で英国政府も経費の負担に同意して、輸送船の手配、船長、同乗事務官の人選も進みました。奴隷貿易廃止運動の黒人側からの発言者としてシャープの信任を得ていたオラウダ・エクイアノは輸送船団の会計係のような役に任命されました。当時の黒人としては前代未聞の抜擢でした。
 1786年11月末、ロンドンでテムズ河に停泊する二艘の船に実際に乗り込んで船上生活を始めた人数は三百人弱、船内は凍てつく寒さ、混雑していて、まるで奴隷時代を思い出させる扱いを受けて、不満が鬱積して行きました。乗船してみて、給与された衣服の劣悪さや医療の貧しさを目の当りにしたエクイアノは、政府が支出した費用をジョゼフ・アーウィンが着服しているのではないかと疑って調査を始め、アーウィンとの間に烈しい争いが起こりました。船団はテムズ河を下って英仏海峡に入り、西進してイングランド南西部のプリマスに入港し、そこでも追加の入植者を収容しましたが、この数百キロの航海中、冬の嵐に襲われて何人もの人命が失われたようです。プリマスでアーウィンの汚職の証拠をつかんだと思ったエクイアノでしたが、船団長トムソンが仲介に入り、暗にアーウィンの有罪を認めながらも、結局、エクイアノの方が下船させられてしまいました。憤慨してロンドンに帰ったエクイアノは、シエラレオネ入植計画を全面的に非難する立場を鮮明にしていったのでした。
 数多のごたごたの後、「自由の地」シエラレオネを目指した船団は、ロンドンを離れてから4ヶ月たった1787年4月9日に、4百人余りの入植者を乗せてプリマス港を出港し、5月10日、シエラレオネ河の河口に達しました。
 私が参考にしている書物の一冊、Simon Schama 著の「ROUCH CROSSINGS」(2005年出版) のp236によれば、383人の自由黒人が英国から到着したとありますが、入植者全体の数とその内訳については、信頼出来る情報を私は把握してはいません。色々の説があって、数十人の白人下層売春婦が含まれていたとも伝えられていますが、これは、おそらく、英国で自由黒人男性と結婚した下層階級の白人女性のことであったと思われます。
 今回の私の「オラウダ・エクイアノの話」はこれでおしまいですが、エクイアノが途中で降ろされた第一回のシエラレオネ入植計画はうまく成功したのでしょうか? 英国植民地シエラレオネの歴史の簡単な要約には,普通、書いてない事ですが、入植者たちは、先ず、苛酷な風土と天候のために次々に倒れ、次には、原住民たちの反乱逆襲にあって、グランヴィル・シャープの名を取ってグランヴィルと命名した入植地の中心も焼き討ちに会い、第一回のシエラレオネ入植事業は青息吐息の状態に陥る失敗に終ったのです。
 上記のシャーマの本のp221-22には
To many historians, this entire operation has seemed more like social convenience than utopian idealism. If Smeathman’s own motives for promoting the settlement are now seen as something short of altruism, the reasons impelling official support have been judged by its severest historical critics as even more scandalous: a poisonous combination of hypocrisy and bigotry.
と書いてあります。リベリアと同じく、英国植民地シエラレオネも、その本質を抉り出せば、望ましくない黒人たちを追い出す棄民事業でしかありませんでした。アングロサクソンの自己欺瞞-「魂の嘘」-が生み出す自己陶酔の美辞麗句の下に息づいていたのは、またしても、彼らの猛々しいエゴイズムであったのです。

藤永 茂 (2007年5月23日)