私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

白人は何故「カニバリズム」にこだわるのか(2)

2007-05-02 13:45:00 | 日記・エッセイ・コラム
 コンラッドを烈しく非難したアチェベの有名な論文の中で、彼はBernard Meyer の「Joseph Conrad: A Psychoanalytic Biography」(1967年)にも、とげのある言葉を投げています。精神分析的方法を過剰なまでに適用した伝記で、例えば、一見ささいな事とも思われるコンラッドのヘヤカット・スタイルを取り上げて延々と論じていますが、「それにもかかわらず、黒人に対するコンラッドの態度については唯の一言も費やされていない」とアチェベは抗議します。黒人について、コンラッドは問題をはらむ発言を幾らもしているのに、メイヤーはそれを全く無視して、ヘヤスタイルの精神分析にうつつを抜かすとは何事だ---というわけです。
 このメイヤーは、コンラッドがカニバリズムに強い関心を持っていた理由を探求して、子供の頃、戦場で大叔父が犬を殺して食べたという話を祖母から聞いて、強い恐怖におそわれた事に発するとしています。ところで、犬を食料にすることについて、私には奇妙な思い出があります。1960年のことでした。学会でメキシコに行き、ついでにメキシコ市の国立博物館を訪れましたが、展示の一つに、メキシコ市の所在地の昔の時代の生活状況が人や動物、それに村落の家々の模型を使って示されていました。アメリカ合衆国からの白人の観光旅行の一団がその展示の回りを取り囲み、若いメキシコ人男性の添乗案内人が訛りのある英語で説明していたのですが、彼が「これは市場で犬の肉を売っている所です」と言った途端、ブーイングと笑い声が巻き起こりました。ところがその若いメキシコ人男性が怒りのこもった大きな声で「何がおかしいのですか。犬を食べて何処が悪いのですか。あなた方だって、兎や鹿や豚を食べるではありませんか」と叫んだので、一瞬、辺りが静まり返ってしまいました。確かにメキシコには昔から犬を食用にする習慣があったようで、食用の犬は毛が短くて子豚のようにまるっこい体形をしていました。
 モンテーニュの随想録は1580年の昔に出版された本で、その第31章は「カニバルについて」です。(私の手許にあるのは、 M.A.Screech 英訳、ペンギンブック、1991年出版)。モンテーニュがこれを書いたのは、「高貴な野蛮人」という些かうさん臭い概念が唱えられた時期より、遥か以前のことですが、“野蛮人の野蛮な習慣”に対する彼の偏見のない公正さには目を見張らせるものがあります。背信、不忠、暴政、残忍といった悪徳非行が我々文明人の社会では日常茶飯事であるのに較べると野蛮人の方がましだとモンテーニュは言います。
「So we can indeed call those folk barbarians by the rules of reason but not in comparison with ourselves, who surpass them in every kind of barbarism.」
いろいろの事例を引いてモンテーニュが書いている通り、カニバリズムについても同じことで、この一事をもって、文明人と未開野蛮の人間たちを区別することは出来ません。しかし、人肉嗜食の点で、例えば、アフリカの黒人と自分たちとの本質的な区別を付けたいという希求が白人心理の中には、歴史的に、脈々と潜在しているように思われます。現在でもアフリカからの報道にはその傾向が見受けられます。そうしたニュースに敏感なのです。松本仁一著『カラシニコフ』の人肉屋の話とか、今でも小柄のピグミーが捕まえられて食べられているといった話です。本当の話もあるでしょう。私が問題にしているのは、こうしたニュースにすぐに飛び付く潜在意識傾向が白人メディアにありはしないかという事です。
 コンラッドの黒人観についてはダーウィンの進化論の影響がよく論じられますが、ダーウィンの友人で進化論を支持した高名な動物学者トーマス・ヘンリー・ハクスリー(1825-1895)は、19世紀イギリスの知的巨人と目され、その主著『自然界における人間の位置』にコンラッドが目を通した可能性は十分あります。Patrick Brantlinger の指摘によると、このハクスリーの主著の中に、前後の科学的議論としっくりしないような唐突さで、アフリカ人のカニバリズムの話が出て来て、“人肉屋”の木版挿絵が添えてあるそうです。(次の挿絵はクリックすると大きくなります。)
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これはあるポルトガル人の話に基づいているのだそうですが、「野蛮黒人こうあれかし」というヨーロッパ白人の潜在意識から浮上した作り事と思われます。
 米国史で最も有名なカニバリズム事件は「ドナー・パーティー(Donner Party)」事件です。イリノイ州スプリングフィールドのジョージ・ドナー、その弟ジェイコブ、友人ジェイムズ・リードは、彼らの家族を連れてカリフォルニアへの移住を決心し、1846年4月中旬、総勢30人余りで家畜をともなって西へ向かいました。途中で参加者が増えて90人近くになったドナー幌馬車隊は、グレート・ソルト・レークの南を通り、シエラ・ネバダ山脈を越えて、秋の暮れまでにはサン・フランシスコに到着する筈だったのですが、豪雨に見舞われたり、近道と聞いて辿ったトレイルが結局はひどい遠道になったりして、10月の末、シエラ・ネバダの山並みの中の一つの峠(あとでドナー・パスと呼ばれるようになる)に差掛かった時、10メートルを超える積雪に行方を遮られて、幌馬車隊は身動きが取れなくなってしまいました。目的の地 Sutter’s Fort (今のサクラメント)から200キロほどの地点でした。連れて来た牛馬や犬は勿論、獣皮や樹皮などおよそ食べれる物はなんでも食べるようになり(チャップリンの映画「黄金狂時代」に靴を煮て食べるシーンがあります)、餓死の恐怖がキャンプにみなぎり始めます。12月中旬、15人の隊員が救助を求めてサッターズ・フォートに向かいましたが、約20日間の修羅の旅を生き抜いてフォートに辿りついたのは、たったの7人だけでした。1847年2月初旬、第一次の救助隊がフォートから派遣されましたが、打ち続く悪天候と難路のために救助作業は難行し、生存者の全てをフォートに運ぶまでに4回の救助隊派遣と2ヶ月の月日が必要でした。その間に90人弱の当初の人員の約半数が死に果てました。
 カニバリズムは、救助を求めてフォートに向かった人々の間で行われ、また4回にわたって救助隊が訪れたキャンプでも行われました。それは動かぬ事実と思われます。しかし、その具体的状況を描いた「真相もの」の大多数は猟奇をねらった扇情的なフィクションのようです。もし読みたければネット上にも十分の量のインフォーメーションがありますが、私としては、「ドナー・パーティーのカニバリズム」についてのアメリカ人の異常な興味が、その事件発生当時(1847年)から現在に至るまで、綿々と衰えることなく続いている事実の方が、むしろ余計に気になります。
 実は、フォートに向かった上述の15人の他に員数外のインディアン二人が道案内として同行していたようです。ルイスとサルバドルという名前を記した文献もあります。ただ、この二人の運命については色々です。一行の食料が底をついた時、二人は先ず一番に射殺され、煮て食われてしまったという説が一つ。また、隊員の白人一人が疲労衰弱して死んでしまった時、白人たちがこの先どのようにして死体を食料とするかを冷静に相談するのを聞いた二人のインディアンは恐れをなして森の中に逃げ込み、姿をくらましてしまったという説もあります。両説ともフィクションかも知れませんが、それなりに food for thought を私に与えます。先ず、一般論として、北米の先住民にしろ、アフリカの先住民にしろ、白人が侵入してきて、彼らを色々な形態の「極限状態」に追い込む以前は、動物または植物の食料資源は割に困難なく身辺で手に入ったことは容易に想像出来ます。アメリカの山河にもアフリカの山河にも生命が満ちあふれていた筈だと想像しても余り間違ってはいますまい。そもそも大自然の中で、不可抗力の場合は別にして、無理に自らを「極限状態」に追い込むような事はしない--それが“野蛮人”たちの生活の知恵であったのです。だから、モンテーニュが書いているように、彼らが人肉を食したのは主に儀式的な場合であって、極限的な飢餓状態に追い詰められてのカニバリズムは稀であったと思われます。二人のインディアンがカニバリズムの計画を聞いて恐れをなして逃亡したのは本当の話だったかも知れません。次に、食べるか食べないかは別にして、ゴールドラッシュのカリフォルニアになだれ込んだ白人たちが土地の先住民(インディアン)たちを、冷酷に、計画的に、容赦なく、殺戮し絶滅させたことは歴史的な事実なのです。シオドーラ・クローバー著『イシ-北米最後の野生インディアン』(岩波、同時代ライブラリー)を読んだ方々は御存知のように、イシが属したヤヒ族も虐殺されて絶えた部族の一つです。著者を母親に持つアースラ・ル・グウィン(「ゲド戦記」の原作著者)は「ナチによるユダヤ人大量虐殺に等しいインディアン撲滅の生き残りであるイシ」と言っています。ドナー・パーティー事件は発生当時の1847年以降極めてセンセーショナルに報ぜられ、論じられたので、元々カニバリズムに関心のあったコンラッドも恐らく知っていたと思われます。カニバリズムは白人が極限的な飢餓に追い詰められて犯した罪業であったかも知れませんが、カリフォルニア・インディアンの虐殺撲滅は平常な素面の白人たちが実行した事であったのを忘れてはなりません。ドナー・パーティー事件は「親が子の肉を食み、子が親の肉を食んだ」から醜悪な事件であっただけではありません。リーダー格のジョージ・ドナーの一族は子供一人を残して全部死に果てましたが、ジョージ・ドナーが携えて来た可成りの額の現金の行方をめぐっても醜い争いがあったようです。事件翌年の1848年にはサクラメントの近くで金鉱が見付かり、カリフォルニアの黄金狂時代の狂躁が猛り狂います。その中でアメリカ西部の先住民の大量虐殺が進行したわけです。その一つ。1864年11月29日の朝、米軍騎兵隊がコロラド州サンド・クリークでシャイエン・インディアンのに襲いかかり、多数の女や子供を含む約200人を惨殺しました。襲撃に先がけて、指揮官のシヴィングトンは“Kill and scalp all, big and little; nits make lice (大きいのも小さいのも皆殺しにして頭の皮を剥げ;シラミの卵はシラミになるからな)”と命令しました。米国史上に残る名科白です。シヴィングトンはメソジスト教会の牧師でもありました。インディアンの死体から切り取られた性器や胎児などがデンバーの町で衆目に曝された記録が残っています。フォークナーの『八月の光』で、パーシー・グリムがジョー・クリスマスを射殺し、生前、白人女性と性交したクリスマスに「永劫にそれを許さない」目的で、死体から性器をえぐり取ってしまったというくだりが思い出されます。シヴィングトンのやった事もグリムのやった事も、極限状態に追い込まれた果ての行為ではありませんでした。
 ほんの数日前のこと、思いがけず、ネット上で上記のシヴィングトンの言葉に出会いました。ヴァージニアの工科大学で33人が射殺された事件をノンストップで報じるアメリカのマスメディアが、「米国史上で最悪の乱射事件」とか「この國の歴史で最悪の銃撃虐殺事件」とか、「学園で」という肝心な言葉を添えるのを忘れ勝ちなのに抗議する先住民たちの発言でした。シヴィングトンの言葉など、今のアメリカ合衆国史の教科書からは消されているの知れません。しかし、インディアンたちは決して忘れない。史上最悪の銃撃虐殺を被ったのは彼らだったのですから。
 ところで、前のブログで映画『Mr. & Mrs. Smith』を「夫婦間の馬鹿馬鹿しい殺し合いゲーム」と書いたことに反撥される向きも多いかと思います。二人の人気スターが見事に演じきった最高のエンターテインメントとして、アメリカでも日本でも高い評価をうけているようですから。しかし、1941年製作の映画、長く人気を保ったテレビ映画シリーズ、そして、今回(2005年製作)の映画---この50年間に、『Mr. & Mrs. Smith』という同一のタイトルの下にハリウッドが生み出して来た三つの道程標を見比べながら、大昔からアメリカ映画を覗いている一老人としての私は、社会一般の暴力に対する不感症の進行と蔓延を憂えます。この最新作を暴力映画として見るなんて野暮の骨頂--という声が聞こえて来ます。しかし、果たしてそうでしょうか? この映画を上出来の娯楽として受け取って怪しまない我々の神経とヴァージニア工科大学での惨劇とが全く無関係だと言い切れますか?

藤永 茂 (2007年5月2日)

付記:足立信彦氏から食肉言説についての必読の論考を戴きましたので添付します(5月7日):


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