私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ルワンダの霧が晴れ始めた(6)

2010-08-18 13:37:00 | 日記・エッセイ・コラム
 一つの統計によると、20歳日本人の平均身長は,1945年から1995年の50年間に(男、165.0cm→171.1cm;女、153.2cm→158.4cm)と、5センチほど伸びています。いま84歳の私も、近頃、すらりとした長身の若者が増えたことを町やエレベーターの中でつくづく実感します。ルワンダ・ジェノサイドについての重要文献の一つである
* Mahmood Mamdani 『When Victims Become Killers』(Princeton University Press, 2001)
に、興味深い指摘があります。ツチ族とフツ族の身長の違いは長い間の食べ物の違いが生んだのかもしれないというのです。歴史的に、ルワンダのあたりで支配階級の地位を占めてきたツチは牛などの牧畜に、非支配階級のフツは自給農業に従事してきました。ツチ族は、フツ族よりも、牛乳や牛肉を余計に摂取して育ったことでしょう。ツチの人たちがヨーロッパの白人風にすらりと背が高いから、もしかしたら白人がアフリカの地で黒くなったのでは、と考える白人たちが居た話は、前に何度か書きました。前回も、アレックス・シューマトフの話をしたところです。
 第一次世界大戦の結果、ルワンダ地域の植民地支配はドイツからベルギーに移りますが、白人宗主国は、少数派ツチ族の多数派フツ族に対する支配体制を強化維持する政策を一貫して採用しました。もともと世襲的にツチ人が酋長の地位を占める伝統はあったのですが、ベルギーはこれを制度化して、1935年には、お前はツチ、お前はフツというIDカードを各個人に押し付けることまでやってしまいます。種族間混血で、区別が必ずしもはっきりない場合も多かった筈ですが、いったんこの区別を確立すると、教育制度にしても両者を峻別して、カトリックの学校システムで、フツ族は低い教育しか与えられないのに、ツチ族にはエリート教育が与えられるようになりました。この白人宗主国の植民地経営政策は、現地の対抗勢力間の抗争を人為的に増大させる分割支配の常套でもあったのでしょうが、ツチ族の重用支持の背後に、あの馬鹿馬鹿しい『ハム仮説』を生んだ白人心情があったのも確かだと思われます。ツチ族が全人口に占める割合はほんの1割強、これでは,社会的権力とそれに付随する特権から排除されたフツ族の、被支配者、犠牲者としての鬱憤が内にこもって蓄積するのは当然の成り行きでした。さて、第二次世界大戦後、アフリカ全土に独立の機運が燎源の火のように広がり、支配層のツチはソ連の力を借りてでもベルギーの植民地支配から独立しようとし、被支配層のフツはこの機会にツチの支配から逃れようとする複雑な状況が発生しました。これを見たベルギーとその背後に控える西側勢力は、ソ連の影響を排除するために、掌をひるがえして、ルワンダ地域の支配をツチ側からフツ側に移す動きを示します。それに勢い付けられたフツは1959年年末以後、数百人のツチ人を虐殺し、それから逃れるため、数万人のツチのエリートたちが国外に逃亡し、ルワンダ・ディアスポラと呼ばれるようになります。いま問題のポール・カガメはその第二世代を代表する英雄です。結局、1962年、ルワンダはフツ勢力支配の下で独立を果たし、新しい独立政権は、公式に市民としてのツチ/フツのIDカード的差別制度を廃止しました。なにしろ人口比としては8割以上を占める多数派のフツ族は、ストレートに民主主義が適用されると選挙で圧勝するのは明白です。ですが、この地域でのツチ族のエリート的支配の伝統は強力で、両族の血で血を洗う対立抗争が継続したのは、ある意味で必然的であったとも言えましょう。
 1972年、ルワンダの南に隣接する人口7百万人の小国ブルンディで、15万人から30万人と推定される多数派平民フツ族が少数派ツチ族支配層に虐殺される事件が発生しました。しかし、ルワンダでは、1973年、ハビャリマナ(フツ人)が無血クーデターで権力の座についてから、ハビャリマナ大統領はフツ/ツチの融和に努め、彼の政府の下で、表面的にはルワンダに平和とつつましい生活水準向上の日々がしばらく続いたのですが、1990年、事態は一変します。北の隣国ウガンダで武力を蓄えたツチ族の軍団、ルワンダ愛国戦線(RPF)、がウガンダから越境してルワンダの北部に侵攻し、ハビャリマナ政府を打倒して支配権力をツチ族に奪還する戦闘を開始しました。ルワンダ内戦の始まりです。
 それに先立つ1986年、ウガンダの政変で、ヨウェリ・ムセベーニ(ツチ族)が大統領に就任して新しい最高権力者となります。ポール・カガメは軍事的才能を買われてウガンダ国軍の幹部となってムセベーニ大統領の側近となり、その支持の下、大統領の長年の友人であったFred Rwigyema(ルウィギェマ?)と共に、ルワンダ愛国戦線(RPF)を創設します。ただし、RPFがルワンダに進攻した1990年10月の時点では、カガメはアメリカのFort Leavenworthにある米陸軍高級将校大学(CGSC, The U.S. Army Command and General Staff College)で本格的軍事作戦の特訓を受けている最中でした。
 ルウィギェマをリーダーとしてウガンダからルワンダ北部に侵入したRPF軍はルワンダ政府軍の激しい抵抗に直面し、ルワンダの一般市民の取り扱いに関してルウィギェマと二人の副官の間で意見の違いが生じ、ルウィギェマは拳銃で射殺されてしまい、進攻作戦は挫折して国境周辺の密林の中に敗退の憂き目に会いました。そこで、ムセベーニ大統領はアメリカからカガメを呼び戻し、RPFの総指令官として頽勢の挽回を図ります。カガメは軍事的天才を発揮して、ルワンダ政府軍を撃破して迅速に占領地区を拡大し、1993年2月には大攻勢をかけてフツ族権力下のルワンダ政府を和平交渉に追い込みますが、その時までに、RPFの占領地区から逃れたルワンダ国内難民の数は百万人を超えるまでになっていました。これから約1年後の1994年4月に、「ルワンダ・ジェノサイド」が勃発することになるのです。
 1994年4月6日に始まり7月4日に終る約100日という短い期間に、80万から100万、つまり国内のツチの全人口の数割が鉈や小火器で惨殺されたとされる悲惨極まりない大虐殺事件に到るまでの歴史的背景のごくごくあらましを辿ってみました。ルワンダ国内のツチ族に対して残虐の限りを尽くすフツ族の一般人と民兵と正規軍兵士に対して、カガメの率いるRPF軍兵士が猛然と襲いかかって、殺人者たちをルワンダの隣国コンゴ追い出してしまうことでジェノサイドは終息したのですが、その間、カガメのRPF(ルワンダ愛国戦線)の側も相当数の敵を殺したに違いありません。そうでなければ、虐殺が止まる筈がありません。ところがRPFが殺した人々のことを調査解明しようとする努力は、きまってカガメ政権によって妨害阻止されて今日に及んでいます。RPFの兵士によるフツ族の殺戮が広範に行なわれたというイメージが私たちの頭の中にないのは、これに関する情報がカガメ政権によって圧殺隠滅されてきたことに加えて、フツ族が一方的にツチ族を虐殺したというプロパガンダがアメリカとイギリスの御用ジャーナリストたちによって意識的に展開されたからです。日本人の「ルワンダ・ジェノサイド」についてのイメージを決定的に形成してきたのは、映画『ホテル・ルワンダ』と、ゴーレヴィッチの『ジェノサイドの丘』:原著、Philip Gourevitch 『We Wish to Inform You that Tomorrow We Will be Killed with Our Families: Stories from Rwanda』(1998年)でしょう。前回にも示唆したように、ゴーレヴィッチの本は決して中立公正なノンフィクション・ドキュメンタリーではありません。著者がルワンダを初めて訪れたのはカガメが権力を掌握した後の1995年であり、事の始めから徹底的にカガメのRPF支持の立場にあったアメリカの国務長官マドレーヌ・オルブライトとも連絡があっての取材でした。フィクションだと酷評する声さえあります。ゴーレヴィッチと並んでアメリカ人の「ルワンダ・ジェノサイド」観を決定した人物として有名なのは、アリソン・デ・フォルジュですが、彼女は大虐殺以前の1992年から有名な人権擁護NGOであるHRW(Human Rights Watch)の要員としてルワンダの土地を踏み、1999年、彼女とその協力者は、789頁という大冊の本(報告書):『Leave None to Tell the Story: Genocide in Rwanda』を出版し、彼女はルワンダ問題の権威者の一人と目されるようになります。しかし、彼女もアメリカ政府機関(USAID)から資金を得ており、決して中立公正な立場ではありませんでした(2009年飛行機事故で歿)。ただゴーレヴィッチとの違いは、1990年にRPFがウガンダからルワンダに侵攻してから、1994年の大虐殺の進行中、それに続く1994年以後の時期にわたって、RPFの兵士たちが犯した一般住民虐殺行為についてある程度調査し、それを発表したことです。私は上記の本には目を通していませんが、HRWは、事件から10年目の2004年に新しい序論と結論を付けて、アリソン・デ・フォルジュの報告書をネット上で提供していますので、それを覗いてみました。1999年に出版された報告書の「結論」の一つ前に「THE RWANDAN PATRIOTIC FRONT」と題された章があり、その中にRPFが犯した一般住民虐殺行為が列記されています。アリソン・デ・フォルジュは、原則的には、カガメ政府とアメリカ政府の強力な代弁者の役を演じた人ですが、人権擁護者として、RPF側の人権侵害を全く無視する良心の痛みには耐え通すことが出来なかったのでしょう。しかし、彼女のその僅かな非難もポール・カガメは許しませんでした。死の前の何年かは、アリソン・デ・フォルジュはルワンダへの入国を禁止されていたようです。カガメは恐ろしい男です。
 もう一度要約しましょう。昔から少数派のツチ族(上流階層)が酋長や王侯の形で多数派のフツ族(下流階層)を支配していましたが、アフリカがヨーロッパの植民地になると、宗主国はこの支配/非支配階層の区別を極端に明確化し、ツチ/フツの関係が悪化し、そのままアフリカの独立時代の混乱にもつれ込みます。上述した、1959年のフツによるツチの虐殺事件に始まったルワンダ・ディアスポラの発生と、1972年のツチによるフツの大量虐殺事件は、その悲劇的な混乱のただ二つの事例に過ぎません。1990年のルワンダ内戦の勃発以前にも、フツとツチはお互いに殺意を抱く関係にあったのです。そして、有名な1994年の「ルワンダ・ジェノサイド」も全く一方的にツチが悪魔と化したフツによって大量虐殺されたという単純な一方的悲劇ではなかったことは明白な歴史的事実であると、私は今や確信しています。しかし、現在のこのブログのタイトルを『ルワンダの霧が晴れ始めた』とした理由はそれだけではありません。問題は、悲惨を極めた大虐殺が、カガメのRPFのお蔭で、1994年7月4日にピタリとピリオドを打たれたという、その7月4日以後に何が起ったか、1994年後半以降に、ルワンダとそれに隣接するコンゴ東部で何が起ったか、これを見極めることにあるのです。何が起ったか、何が起っているかが、かなりはっきり見始めたと実感したことが、「霧が晴れはじめた」という表現をあえて採用した私の倨慢の理由です。「ルワンダ・ジェノサイド」と呼ばれる歴史的事件の真の歴史的意義は、隣人として暮らしていた住民の二つのグループの一方が、ある日突然他のグループの住民に襲いかかり、大鉈や手鎌で切り刻んで惨殺するという真にむごたらしいジェノサイドであった点にあるのではなく、それを契機として、ポール・カガメの統率下の軍事勢力が隣国コンゴに攻め入り、地域の政情不安定化を促進し、その結果として、5、6百万人のコンゴ住民が命を失うことになったということにあるのです。
 ルワンダ問題の最高の権威者の一人と看做されるパリ大学教授ジェラール・プリュニエはこの戦乱を「アフリカの世界大戦(AFRICA’S WORLD WAR)」と呼びます。こうして、私は、私のアフリカ問題意識の原点であるコンゴに舞い戻って来たことになります。
 今回のブログの冒頭に掲げたマームド・マムダーニさんの本に戻ります。そのタイトル「When Victims Become Killers」は、直訳すれば、「犠牲者が殺人者となる時」です。本多勝一流に訳せば「殺される側が殺す側になる時」となりましょう。「被害者が加害者になる時」と訳してもよいでしょう。どの訳にも「Killers」という鋭い響きが移されてはいませんが。ここで思い出されるのはフランツ・ファノンの暴力論です。ファノンは、長い間奴隷の立場を強いられた犠牲者としての黒人たちが、突然、暴力的な集団殺人者に変わることの必然性を理解していました。ファノンの暴力論に侮蔑の言葉を投げかけたハンナ・アレントはその理解に欠ける所があったのだと私は思います。
 19世紀アメリカでの最も有名な奴隷反乱として、「ナット・ターナーの反乱」があります。犠牲者の側が殺人者集団になった事例の一つです。ご存知ない方のご参考のために、拙著『アメリカン・ドリームという悪夢』のp119から事件の要約を引いておきます。:
 ■その翌年1831年8月21日、奴隷の黒人青年ナット・ターナー(1800-1831)の率いる奴隷反乱がヴァージニア州サウサンプトン郡で起こった。ターナーは自分が働いていた農園の奴隷数人とともに行動を起こして、主人一家を殺して銃を奪い、次々と農園を襲って仲間を70人ほどにまで増やしたが、弾薬が尽きて鎮圧された。殺された白人の数は婦女子を含めて55人だった。州当局は反乱奴隷の56人を絞首刑にしたが、他に約2百人の黒人が怒り狂った白人群衆から暴行を受け、殺される者もあった。その多くは反乱とは関係のない人々だった。ターナーは幼少の頃から利発で、たちまち読み書きの能力を身に付け、聖書を熱心に読んだ。独立宣言の記念日7月4日を期して反乱を起こす計画だったが、病気のために延期を余儀なくされたという。独立宣言の言語道断の偽善性に対するターナーの怒りはウォーカーの怒りと通底していたに違いない。■

藤永 茂 (2010年8月18日)



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5 コメント

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司馬(スコットランドの次に)オランダへ行きまし... (読者A)
2010-08-18 22:25:02
司馬(スコットランドの次に)オランダへ行きましたら、やはり十七世紀の軍服、靴など残ってました。165センチぐらいの身長のものでした。そうなると、ヨーロッパ人が大きくなったのは十七世紀ぐらいからかと思って、帰ってきてこのことを江上波夫さんにききましたら、答えは即座でした。オランダ人が大きくなったのは、インドネシアを植民地にしてからだと、つまり、十九世紀になってたくさん食べられるようになったからだとおっしゃる。堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿「時代の風音」UPU 1992年 一九三頁。
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 食べるとは、他のいのちをいただくこと・・・有... (池辺幸惠)
2010-08-21 07:17:50
 食べるとは、他のいのちをいただくこと・・・有り難くいただくのか、搾取し食欲にまかせて食い放題するのか、大違いですね。いのちを奪うことではジェノサイドも同じことかも。なにしろ、アメリカ人のヒップは日本女性の3~5倍はありそうな! ストアのショートパンツぶかぶかばかりでした。
 食べる量と体の大きさは比例しているようですね。戦時中子供時代の人たちは総じて小さいです。わたしにプロポーズしたかなり年上の方は、食べれなかったから小さいのだと必死で言い訳していました。今から思うとほんとそうだったのね。戦後、とくに大きくなっている少し年下人に聞いたら、高校の頃は弁当を二つ持っていってたとのこと、納得。
 ツチ族の人たちは・・・そんなに食べ物が違ったのかしら・・・けっこうアフリカの黄金都市伝説あたりでは眉目秀麗スマートな像などありませんか?だってツタンカーメンだっていい顔してそうだし、クレオパトラは又違う人種なの??
 うちは3人兄弟でもみな顔の系統が違っています。おもしろいですね。^^
 
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たしか、会田雄次氏の『アーロン収容所』のなかに... (nazuna)
2010-08-25 01:00:40
たしか、会田雄次氏の『アーロン収容所』のなかに、英軍人も階級によって体格が違うという話があったと思います。(私はこの本を藤永先生のブログで知り、近くの図書館で借りて読みました。)

将校と下士官以下の兵では身長も物腰も違うということで、似たような制服でもはっきり区別が付くと言うことでした。会田氏は当時の日本人にしては大柄な方(170センチ)だったそうですが、英国軍の下士官以下の人たちには会田氏以上の身長の人はあまり見られなかったそうです。

もちろん、彼等は出身階級も異なります。アングロサクソンは征服民族という話も聞いたことはありますが、そうしたことが現代にまで影響を及ぼしているのかどうかはわかりません。(幕末に日本を訪れた西洋人が武士と町人について、同じようなことを言っていたという話を聞いたこともあります。)

生育期の栄養摂取の差もあったのかもしれませんが、会田氏は彼らが受けた教育の差、特にエリート層が通うパブリックスクールにおけるボクシングやフェンシングのようなスポーツ教育の影響に触れられていたように思います。

もしこれを持って「英国の上流階級と庶民階級では人種が違う、英国の庶民階級は、白人種ではなく、体格が近いアジア人種の末裔だ」などと言ったら噴飯ものでしょう。

ちなみに私の母は身長148センチですが、私は160センチです。
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今更気がつきましたが、アメリカの独立宣言とルワ... (Unknown)
2010-09-08 21:28:21
今更気がつきましたが、アメリカの独立宣言とルワンダジェノサイドの終結宣言が同じ7月4日というのは単なる偶然とは思えなくなりますね。
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タンザニア在住の者です。御著『闇の奥の奥』から... (根本利通)
2012-04-23 19:31:26
タンザニア在住の者です。御著『闇の奥の奥』から入り、ブログを拝見しています。私の知らないアメリカのことを勉強させていただいています。
気になることがあります。
例えば、ルワンダの人を表記するのに、
「ツチ」「ツチ人」「ツチ族」と書かれるのは、意図的に書き分けておられるのでしょうか?
残念ながら読み取れません。
「ツチ族」と書かれるのは、少なくとも現在のルワンダの状況には合わないし、不要に思えるのですが。さらに言うと日本語の文脈からすると、差別を追認する形になると思います。ご検討ください。
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