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生きること:過去と未来とエスペラントと

新しい試練!

2020-09-10 13:35:56 | エスペラント
 9月の連休は日本エスペラント大会です。行けたら行こうと宿の予約をしたのですが、ホテルは休業となり、これを天の思し召しとして現地参加は止めました。日本大会はオンライン参加が可能ということです。

 接続方法はzoomとdiscordという二つの方法があるそうです。zoomは先日関東大会で経験しました。

 discordとzoomはどう違うのでしょうか。説明を読むとdiscordの方があちこち会合を覗くことができそうな気がしてきました。このパソコンは元の所有者は夫。discordをダウンロードしようとしたらなかなか自分の名前にならず今ようやく作業を終えました。本当に使えるかは経験してみないと・・・。

 コロナのおかげで思いがけない仕事を強要されています。運を天に任せて挑戦するよりほかないでしょうね。
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2020-09-09 20:57:09 | rememoro: 思い出
8月5日に書きかけてやめた記事です。


一本の道、精霊と祈願の楽園と言うNHKの番組を見ました。

 見てから書き始めたのですがなかなか書き進めません。私もチェコに行ったのですが、当時の写真も見つからないし、ずうと下書きのままです。

 さて番組は‵一本の道「精霊と奇岩の“楽園”を歩く~チェコ チェスキー・ラーイ~´ という題名でチェコのモラビア地方イーチンから歩く旅番組でした。チェコの精霊とはどんなものかと魅かれて読みましたが、初めに水の精がでてきただけでした。ちょっと肩透かしを食わされた感じです。

 私は1996年プラハで行われた世界エスペラント大会に参加しました。その時できるならボヘミアの森を歩いたいというとヤブロネツ・ナド・ニソウにいる友人マリエが1週間なら案内してあげると言ってくれたので大会後、彼女の家に滞在させてもらいました。森を案内してくれたのは元リュージュ選手だったマクス。

  その道に妖精はいませんでしたが、チェコ的鼠小僧が住んでいた岩場があったりとチェコの歴史を垣間見るたびとなりました。

 その地、リベレツ地方は経済的にはドイツ人に差配された時期が長かったようです。また、準宝石と言われる鉱石の産地で発掘や研磨の際の埃で結核にかかる人が多かったそうです。治療のための散策コースが整備されました。半日歩くくらいのところに宿泊もできる休憩場所が整備されていて、じっくりと散策を堪能して歩くとコースすべてを回るとひと月ぐらいはかかるということでした。
 同行者は、マリエのほかにイジナ・ドイツ人兄妹のライネとアネリエ。歩いたのは4日間でした。一日目はヤブロネツ・ナド・ニソウからバスでマリエと二人で森へ。6日目はライネ・アネリエ兄妹と4人で汽車に乗って木造でできたお城へ。

 1日目はマリエの案内でバスで田舎に行き森を散策しました。バスはブルーベリーを摘みに行く人々でいっぱいでした。みんな家族連れでした。ほとんどが大きなかごを提げていました。森近くの田舎に住んでいる人々は共産主義時代には貧しく特に冬には寒さと飢えに苦しんでいたそうです。民主革命後、プラハの金持ちがその家々を別荘として買い取り、彼等の多くは都会に出て行ったのだそうです。
 二人で、数時間湖まで散策し、湖岸で持参のサンドイッチをたべました。帰りは籠や2リットル入りの牛乳パックに入れたブルーベリーを沢山持った人たちで満員のバスに乗りました。男性の中には酔いが回った人たちもいて、バスの中は騒々しさで満ちていました。

 歩くということはおしゃべりにもってこいです。おしゃべりするということは他の人の人生について聞いたり、つい立ち入ったことも聞くことになったりします。

 マクスはすらりと背の高い男性です。父親はドイツ人だったそうです。第2次世界大戦が終わった時、ドイツ人はドイツに送還されることになったそうです。ただ、母親がチェコ人の場合、15歳まで送還は免れたそうです。当時マクスは14歳でしたが、体が大いのでどう見ても14歳には見えず収容所に入れられたそうです。マクスの母親は毎日収容所にやってきて2週間ほど’息子は14歳だ’と叫び続け、彼はようやく解放されたそうです。父親がいないので弟妹4人のために母親を助けて働いたそうですが、あの時ドイツに連れていかれたらと思うと、収容所前で叫び続けてくれた母親に感謝しかないと。リベレッツでソーセージを買って夕方マクスの建てた川沿いのヴィラに行き、たき火をしてソーセージを焼いて食べながらそんな話もしました。彼はレンガ積み工だったそうで、そのヴィラを一人で建てたということでした。彼には子どもがいないが弟家族が週末にやってきて楽しんでいるということでした。本人は団地に住んでいて、同行しイジナはこの散策の間、マクスの家に滞在しているということでした。

 イジナは大会中もパプリカとかキュウリとか沢山持参して私たちに食べさせました。パプリカは健康に良いから少なくとも一日半個は食べなさいとマリエに毎朝食べさせられました。イジナの夫は森林保安官。チェコでは森が大切なので森林保管官は尊敬される職業だそうです。野菜作りが好きで、800㎡ほどの庭があるという広さの説明が楽しかったです。幅が1㍍とすると長さが800㍍の庭だそうで、これでなるほどと理解しあえるエスペラントは面白い。
 イジナは趣味で建築を学んでいるそうで、プラハでは市内の案内役をしてくれて、カフカの家なども連れて行ってくれました。建築様式の説明は私にはチンプンカンプンでした。
 一人娘が父親と同じ森林保安官になったととても喜んでいました。


数年後、娘さんが同僚の森林保安官と結婚したとイジナが送ってくれた写真。


同行者ライネとアネリエ兄妹


 二人は両親と共にこの地に移住してきたドイツ人で、戦後どつに送還されたのだそうです。美しい緑の草原を横切る時、私がその美しさに驚いていたら、ライネはここは石ころだらけで畑にできないのだと話してくれました。だから、大木の管理は大変なようでした。ライネは´僕のように心を病んだ人間にはこんな自然を歩くのが一番良いと。’と言っていました。この二人は一緒にエスペラント大会の前遠足や大会後遠足に参加していて、幾度となく再会しました。ライネはチェコの歌を聞いてほしいとテープをくれました。
 2,011年、コペンハーゲン大会の遠足アネリエではない女性と一緒だったので彼女の消息を尋ねると2カ月前病気で手術したので、チェコの従妹と一緒に参加したと話していましたが、数年後、リールでアネリエとあったので従妹もエスペランチィストなのと訊いたら、彼女豪快に笑いだして、’なんでそんな嘘をつくの、彼女はガールフレンドよ!’と言っていました。その時アネリエは体をさせる2輪車で歩いていました。がんの手術をしたのだそうです。古い城めぐりでした。城の中を巡る時、その補助具を折りたたみ、松葉杖のような使い方をしていました。石の階段は滑るので肩を貸すと、大柄な彼女に私の肩の高さがぴったりと合っていました。

 体が不自由でも、眼が見えなくても遠足に参加する人は結構多いのです。以前、知的障害のあるやんちゃな弟が目の見えない姉と参加していました。他の参加者たちは弟が羽目を外すと声をかけながらも楽しんでいました。日本では奇異な目で見られるかも。

 大きな川のほとりを休んだ時マリエが言いました。’学校の遠足でここに来た時に、娘はここで衣服を脱ぎ棄て川に飛び込んだの。こんな社会はもうイヤ!みなさん、さようなら!と言って。17歳だった!’
 そこはイジナに言わせると世界最初の水力発電所が見える場所でした。残されたのは衣服だけだったそうです。

 私が泊まったマリエの部屋のここかしこに少女の写真が飾ってありました。良くできた娘のようで、彼女がエスペラントの集まりに参加するときはいつも弟たちの世話を買って出て励ましてくれたそうです。

 たった1週間の思い出でも書き出すと止まりません。この辺でやめることにします。


私が訪問した時マリエの長男は婚約中でした。
マリエからもらった最後の写真、孫と犬達です。


 これが準宝石と言われる石でしょうか。
マリエからもらった記念品です。身に着けて出かけるところはありませんが、大切にしています。
 
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散策:9月2日

2020-09-07 12:06:26 | taglibro: 日記
 今日は台風10号の影響で天気が不安定で、私たちの地方も竜巻警報などが出っています。9月2日も台風9号の影響で天気が不安定でしたが、鎌倉へ散策に行きました。極楽寺周辺を歩きました。初めに極楽寺に近い成就院。熊野神社。鎌倉は狭い範囲でいろんな石碑など古い歴史が残っています。ぶらぶらあるきで訪れた場所は月影地蔵。日蓮が処刑前に衣を汚したくないと袈裟を脱ぎ、懸けたという石碑のある袈裟懸けの松(小さな松が植えられていました)。針摺橋。11人塚。約10600歩

  
成就院






弘法大師






成就院前から眺めた海、由比ガ浜


偶然見つけた針摺橋跡。江戸へ抜ける街道だったという。狭い道は結構交通量が多かったです。


 雨には降られませんでしたが、湿度が高く空気が重く感じられてとても疲れました。途中で寄った商店街は人の往来はまばらでした。商店も買い物客は空っぽ。カツオの刺身が驚くほど安かった。買って、疲労回復ににんにくのみじん切りを添えて夕食に食べました。

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育つⅡ

2020-09-05 07:55:24 | 家族・友人・私
 2日続けて孫の話になってしまいました。
 昨日、9月4日はベルリンに住む孫Hの11歳の誕生日です。今朝写真がきたのでつい。


数日前着いた贈り物です。すべて1週間以内で着きました。




こいのぼり!?と思う方もいるでしょう。

はじめてに節句に送ったものです。
節句に替えて誕生日にいつもあげます。



 贈り物の一つ、アニメ本。
ドイツで現在放映されているものですが放映時期が日本とずれているので捜すのに一苦労!
日本語になじむための教材です。


 我が孫たちは父親が日本人と言うだけで、全く違う環境の中で育っています。特に母親たちの生活習慣の違いは格別なものがあります。大人になったらどんな交流をするのか。それとも交流無しで生活をするのか。興味津々です。が、残念なことに命に限りがあり、それを観察できないことが私にはとっても残念です。

 名も知らない人を観察し、その人がどんな人か想像するのはとても楽しい!観察は私の趣味かもしれません。
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育つ

2020-09-04 12:33:37 | 家族・友人・私
 3男の3男Sの写真が送られてきました。ラオスで生まれて5か月半、ハイハイするビデオもいっぱい。コロナ禍でも赤ちゃんは元気に育つものだと喜びの声をあげ這っているSに拍手!





 上の子たちの写真が来ない。彼等はどうしているのと言う私の問いに次の写真が来ました。ラオスの毎朝の光景です。

 

 朝のお布施のために家を出たところ。彼女が穿いているのが民族衣装の巻きスカート:シン。ラオスでは法律で義務づけられています。違反者には罰金が科せられます。経済の発展にに伴ってでしょうか無視する人も多く取り締まりができない状態のようでした。
膝がでるミニスカートならぬミニシンを穿いている高校生を見ました。
正装の時は方にマフラーのような布をかけます。今日の肩掛けは白いのでわかりにくいかも。

 

 家の前に座ってお坊さんたちが来るのを待ちます。Mはまだ目覚めていません。



毎朝の光景です。朝お布施を終えてから朝食。そして登校します。


以前、ドキュメンタリーで見たのですが、みんなのお布施から、お坊さんたちは自分たちの1日分の食料を取ります。残りは貧しい人たちに分け与えるのだそうです。ですから、貧しい人たちはお寺の裏門に待機しているとのことでした。お寺を通して富の分配が行われているようです。ですから、飢える人はいないようです。こんな環境も経験している孫たちはどんな大人になるのか興味がありますが、人生限りがありますから…。
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熊雄君と寅雄君

2020-09-03 08:43:14 | rememoro: 思い出
 夕べのNHKニュー”秋田県仙北市で今年初めての稲刈りが行われた!”

 黄色に実り垂れた稲穂と青い空に中学時代の同級生のことをと思いだしました。現在の仙北市は私が小中高と暮らした地域が含まれます。そこは農村でした。私が中学に入学したのは昭和27年。高校に進学したのは160名の同級生の内3分の1ほどでした。私は本以外は興味がなくて、級友たちに話しかけられれば話を聞きますが、だれかれとなく話しかけることはありませんでした。
 男子生徒は良く廊下にたむろしていました。その中に小柄な生徒が二人、それが熊雄と寅雄でした。彼等は時々ちょっかいを出してきます。ちょっかいと言いうのは彼らの前を通ると足を出して私を転ばそうとすることぐらいでした。でも、そんないたずらにいつも引っかかる愚か者なのどおりません。出した足を引っかけて彼等を転がすなど朝飯前で、初めこそ何度かよろめいたことはありましたが、私はそんな罠にはまることはありませんでした。私は彼等を子犬のクマちゃんトラちゃんと思っていました。

 21年前、還暦の同窓会をするので出席してと言われました。幹事に同窓会はいつもお盆靖だから、列車が混んで出席できないというと6月に開いてくれました。私が田舎を出て40年余り、広い村でしたから帰省してもほとんどの人とはその間あっていませんでした。温泉で1泊した夜、なぜか私は皆さんの人生の聞き役をさせられ、農村で生きてきた人の労をたくさん聞きました。

 トラちゃんは私など買えないような大きな白いバンでやってきました。クマちゃんはトラちゃんと一緒でした。私は初めて彼等がどんな環境で育ったのか聞きました。彼等はほとんど土地のない農家で育ったこと。土地が欲しくて懸命に働き、夫婦で貯蓄し、売りに出された土地を買い足し、息子も息子の妻も協力してくれたので、クマちゃんは今4町歩(9.900㎡×4)の田んぼを持っていると嬉しそうに話してくれました。

 ’フーン、熊雄君は頑張ったんだ!’と私が感心すると、クマちゃんが言いました。’えっ、俺、熊雄じゃない文雄だよ!’ 熊雄は私の勘違いでした。彼は私が子どもの頃母が作ってくれた人形’クマのコロちゃん’に似ていたので、いつの間にか私の中で熊雄という名に変換されていたようでした。

 何はともあれ、二人が元気で、彼らの田んぼも豊作でありますように。

 寅雄君はなぜか住所が変わっても、姓が変わっても、毎年年賀状を送ってくれました。私は悪筆なので自分からは年賀状を書きませんでしたが。
 彼の文字は素晴らしく美しく、中学時代にあんなに目立たなかったのにと思うほどでした。還歴同窓会から数年後彼からの年賀状は来なくなりました。もしかしたら異変が!と思っています。
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身長

2020-09-01 14:33:28 | 家族・友人・私
 ひと月ぶりで医院へ。血液検査しましょうと言われたので、市から配布されている無料の検査をお願いしました。どうしても身長が知りたかったのです。
 昨年秋、孫娘と並んだら、ほとんど同じと言われてしまったのです。普通の血液検査では身長は測ってもらえないのです。高校卒業時から、いや、大学入学時の身体検査から5センチ4ミリ縮んでいました。歩く時はかなりの歩幅で歩いているつもりですがきっと狭くなっているのでしょう。

 日曜日夜久しぶりにHの写真が送られてきました。学校がコロナで休校の頃スクーターを買ってもらい家の前で滑り、止るのがやっとだったのですが、なんと結構な坂道を上ったり下ったりできるようになっていました。

 


 孫とスクーター:nepo kun skutilo


 息子も親ばか!どれだけできるようになったか見せたくて、いろいろな場所のて短い動画を、これでもかこれでもかというように、こちらが見飽きるほど沢山送ってきました。
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