今日は長崎に原爆が投下された日。
小学1年生の頃永井隆博士のこの子らを残してという随筆が新聞に連鎖されました。毎日だったのかそうでなかったのか記憶はない。母はこの記事をいつも読んでくれました。カヤノさんはあなたと同じとしなのよと幾度となく聞かされました。彼女は学年は同じでしょうが、多分昭和14年生まれだったような気がします。数年前、彼女の死亡記事を読みました。
中学生になって、この本を見つけて読みました。妻を原爆で亡くし、自分も倒れてしまった親の悲しみは計り知れませんでした。
2010年長崎で日本エスペラント大会が開かれた時、姉と永井博士が暮らした家というより、庵といった方が良い住まいを訪れました。亡くなった人の悲しみや親を失った兄妹の寂しさが残っているように感じて動けませんでした。
放射能による被害者の個々の悲しみや苦しみは想像を絶します。私たちは今後このようなことが起こらないようにと願うだけではいけないのです。今、私にできることは何かと自問しますが、答えが見つかりません。ですが、みんなで考えることはできるのではないでしょうか。
小学1年生の頃永井隆博士のこの子らを残してという随筆が新聞に連鎖されました。毎日だったのかそうでなかったのか記憶はない。母はこの記事をいつも読んでくれました。カヤノさんはあなたと同じとしなのよと幾度となく聞かされました。彼女は学年は同じでしょうが、多分昭和14年生まれだったような気がします。数年前、彼女の死亡記事を読みました。
中学生になって、この本を見つけて読みました。妻を原爆で亡くし、自分も倒れてしまった親の悲しみは計り知れませんでした。
2010年長崎で日本エスペラント大会が開かれた時、姉と永井博士が暮らした家というより、庵といった方が良い住まいを訪れました。亡くなった人の悲しみや親を失った兄妹の寂しさが残っているように感じて動けませんでした。
放射能による被害者の個々の悲しみや苦しみは想像を絶します。私たちは今後このようなことが起こらないようにと願うだけではいけないのです。今、私にできることは何かと自問しますが、答えが見つかりません。ですが、みんなで考えることはできるのではないでしょうか。