glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

とりとめもなく

2021-05-03 09:46:34 | ひとりごと
 最近日中テレビを見ることは少ない。以前はBSニュースを見ることも多かったが最近BSニュースの時間が変わったらしく、さてと椅子に腰を下ろしテレビをつけるとニュースが流されていないことが多い。

 昨日午後、一寸休憩。テレビをつけると漫画家のヤマザキマリさんがどなたかと対談していました。番組名もわからないけれどとても示唆に富んでいて面白かった。

 子どもの想像力を育むためには辞書を使わせなさい。辞書を使っていろいろと考えるということが大切。そして辞書には自分が捜していることの隣にと全く別な言葉や意味が載っている。全く違ったことにも触れることで視野も広くなる。というようなこと!

 おやおや。これは子どもにだけ言えることはない。
 これは大人にも言えること。特に時間がある老人にはこれ以上の遊びはない。辞書をめくってあれこれ考えているうちに時間はどんどん過ぎてゆく。そして、これ以上のボケ防止の頭の体操はないとさえ私には感じられる。
 私は辞書が大好き。時間があれば朝から晩まで辞書で遊んでいると言っても過言ではない。エスペラントをやっている人に特に言いたい。話すことも読むことも大事だけれど文を書いてごらんなさい。辞書なしには文章は書けない。それは生まれた時から使っている言葉ではないから。
 エスペラントにも文法があり、文法無視はできないけれど強制的な語順がない。主語が後に来ようと、動詞が先頭に来ようと自由です。だが、それを使って自分の感情というか感性を表現しようとおするととても難かしい。読み返して、自分の文が滑らかになるようにするのも結構大変。でも、それが楽しくて何度も読み返し書き換える。この作業に適しているは自分の好きな日本文の翻訳である。一つの文にいくつものエスペラント文が浮かぶ。そして作者は何をどう伝えたかったのか、書き手の思いをエスペラントで表そうと努力する、これが楽しい。

 辞書の話から外れてしまうけれど今私が凝りに凝っているのは日本語の擬音です。例えざわざわという表現でも、木々のざわめき、人の動き、個人の心の動きとか色々あるのです。
 いつだったか日本文学を研究していた人が、日本に魅かれた理由として擬音をあげていました。私たちは子どもの頃から擬音に慣れ親しんでいる。また、言葉遊びかもせれないけれどお話には人の心に響く楽しい音が色々ある。例えば、桃太郎;ドンブラコッコ、ドンブラコ。おむすびころりん;オムスビコロリンスットントン等々。
  こんな日本的表現がエスペラント文の中で表現できた日本のお話の面白さを伝えられるかもしれない・・・などと考えて私は日夜遊んでいるのです。

 ヤマザキマリさん。日本人が寛容さが足りないということも話していました。自分と少し違うだけで、拒否する。ローマ帝国の話を例に出しながら話していたけれど、人種・宗教・文化が少し違うだけで拒否する傾向がある。他者の違いに自分を同化させる必要はないが、話を聞いてその背景を理解するくらいの度量があっても良いではないかというような(長い話を無理にまとめました。)

 2030年代になっても残したいものという質問に対いしての答えは愉快でした。

 温泉。銭湯が消えてゆくのは残念とも。ローマ時代の大浴場。ローマの皇帝も通ったそうな。風呂の中ではみな裸。虚飾を捨てて付き合うことになると。

 【昔、父が風呂の中では皆裸というような歌を歌っていたが今思いだせません】
 日本の政治家が高級料亭での会合を捨てて、銭湯で話し合ったらどんなことが起こるのだろうが想像しただけで愉快でした。

 
最後に、昨日5月2日はラオスにいる孫Tの6歳の誕生日でした。記念の写真を!



動画では兄と二人でふうふうとロウソクの火を消していました。


ロックダウン。でも親子ともども元気なようです。
 長男Mと母親はかなり太ったようです。


コメント (1)
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