白棚線、そして連なる思い出

 一週間ほど前に「ふくしまから はじめよう。」https://www.facebook.com/FutureFromFukushima/ に白棚線のことが書かれていたのを懐かしく読んだ。

 白棚線。「しらたなせん」ではなく「はくほうせん」と読む。福島県の白河と棚倉を結ぶ23km余の鉄道であったが戦中の鉄材供出により廃線となり、私が白河に住んでいた頃には廃線跡を舗装した専用道路を走る国鉄バス白棚高速線として運行されており「高速バス」として親しまれていた。

 私の父の実家は茨城県の水戸と郡山(正確には安積永盛)を結ぶ水郡線の福島県内最南端の駅である矢祭山の一つ手前の東舘にあった。盆と正月、春秋の彼岸や法事の折には家族揃って高速バスで棚倉に出て、そこで国鉄水郡線に乗り換えて東舘に出かけたものであった。

 当時は鉄道時代の23kmのほとんどが高速バス専用道路で、交差点でも高速バスが優先走行していたためバス停間はほとんどノンストップであったように記憶している。単線の廃線跡の幅員は意外と狭く、上り下りの行き違いはバス停で行い、バス停間の距離が長い場所では途中にすれ違い用の退避スペースが用意されていた。磐城金山であったか、鉄道時代の名残でローカル線の駅のような「バスの駅」もあったような気がする。

 父の実家は東舘で「那須屋」と云う田舎宿屋を営んでいた。旅館だからもちろん料理を出すが、近くを流れる久慈川では、六十年前には竹で編んだ仕掛けでウナギが採れた。鮎は宿のおやじである父の長兄が投網で獲っていた。宿の奥、一番山側には小学生の背丈ほどもある漬物樽と梅干(梅漬け)の甕が鎮座した漬物小屋があった。折々に食べた炊き込みご飯やおはぎ、ドンブリに山と盛られた白菜漬け、たくあんの旨かったこと。

 那須屋の玄関の黒光りする廊下の突き当りには電話室があった。それは屋内にある電話ボックスで、ドアのガラスには「東舘十番」と金文字でかかれていたのを思い出す。受話器を取って右側のハンドルをグルグル回すと交換のお姉さんが出る。「白河〇〇〇〇番お願いします」と云って受話器を置くとやや時間をおいてベルが鳴る。急いで受話器を取り「東舘局です。繋がっていますのでお話ください」と云う交換嬢の声が消えると白河の祖母と話ができる、そんな電話機であった。もう六十年近くも前の想い出である。


 と云う訳で今日の一枚は金色の稲田の中、白棚線廃線跡の専用道路を走るJRバス。
 写真は「ふくしまから はじめよう。」のFacebook Pageから転載いたしました。

 今日は思い出すままに脈絡もなく子供時代の記憶を書き連ねましたが、父の出身地である福島県矢祭町(旧東舘村。最近は「合併しない宣言」「町議の日当制」「もったいない図書館」で少し有名か)、実家の那須屋について、10年ほど前に書いた小文がいくつかあります。興味を持たれた方には、下記のURLを辿りお読みいただければ嬉しく思います。
http://blog.goo.ne.jp/gauche7/e/5b22e733c37f1409d0868907a187fe7f

 「恩田の森Now」 http://blog.goo.ne.jp/ondanomori に、ただいまは 9月24日に撮影した写真を5点掲載いたしております。稲刈りの時を迎えた森の様子をどうぞご覧ください。

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