まほろば日記

fujioの日常の出来事、記録等を思いつくままに書いた日記です

田原坂(たばるさか)・・日本最大にして最後の内乱の地・・・

2013-09-28 13:14:45 | 日常

平成25年9月19日
今年の山岳会の新年会のおり、田原坂のことで盛り上がり是非ともいきたいと望んでいたところ熊本県の宇城市まで行く仕事があり帰路立ち寄りました。
ちょうど今NHKの大河ドラマ「八重の桜」でもこの西南戦争の場面があり、何か不思議なご縁を感じます。
この地は熊本城から北へ15キロの位置にあり、標高80m余りの小高い丘陵地で、頂上は広く平坦な原野で谷を挟んでこのような丘陵地がいくつも連なっていました。

  雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂
         めてに血刀、ゆんでに手綱 馬上豊かな美少年

 この歌で誤解してはならないのは「越すに越されぬ」のは攻撃側の政府軍の方なのです。

この西南戦争の舞台となった熊本城も田原坂も加藤清正が作った熊本を守るための戦略的防御施設でした。彼は北から熊本に入る道はこの一本しか作らなかった。いわば敵を誘い込む道だったのです。だが熊本に入るには政府軍は強固な要塞となつた田原坂を越えるしかなかった。薩摩軍は熊本城を包囲したが攻め落とせなかった。政府軍も田原坂を17昼夜攻撃したが落とせなかった。だから政府軍はここをあきらめ別ルートから熊本平野に進んだため、薩摩軍は城の包囲をとき撤退し、同時に田原坂からも撤退した。
加藤清正には薩摩軍も政府軍も勝てなかったことになる。
この田原坂の戦いは史上まれに見る局地的大激戦であった。3月3日から20日まで戦闘が続きました。両軍合わせて1日に30万発以上の銃弾が飛び交い、その銃弾同士が空中で衝突する「かちあい弾」が発生するほどの激しい銃撃戦が続き、3700名余りの命が失われた。要塞化され掘り切られた長い坂道の両側から薩摩軍が狙い撃ちする中を政府軍の兵士が突撃するのだからたまったものではありません。今静かな丘陵地に立つとき多くの人命がなくなり、血が流れた激しい戦闘が行われたとはとても信じられません。両軍の兵士に御霊安かれと手を合わせました。
乃木大将もかってこの熊本の向坂の戦いで天皇陛下から拝領した連隊旗を薩摩軍に奪われるという失態を起こし、生涯の恥辱となり天皇崩御の際、夫婦ともに殉死された機縁がこの戦にあった。
「八重の桜」では中村獅童が好演した佐川官兵衛もこの田原坂の戦いで抜刀隊に参加して死んだことになっているが、彼はその前に阿蘇郡の戦いで被弾して死亡している。田原坂参戦は史実と違うようです。
南阿蘇に進駐した彼は兵士の略奪行為を厳しく戒め、地元民に慕われたと言う。南阿蘇には十数か所に佐川官兵衛慰霊碑が建てられている。逆の見方をすれば佐川氏が平穏にに進駐した行為が顕彰に値するとは当時の侵略者、軍隊が地元民に対し如何に略奪を繰り返し、地元民に残虐な行為をしたのかを表しているようにおもう。 
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