まほろば日記

fujioの日常の出来事、記録等を思いつくままに書いた日記です

行くべきか、行かざるべきか

2014-08-27 18:33:45 | 日常
平成26年8月27日
前穂高岳・北尾根行きの訓練全課程を終え、あとは来月天応の岩場での最終訓練を残すまでにこぎつけた。
今年2月2日の初練習から今回まで十数回の訓練を経て今日に至った。ところが藤石さんの遭難事故が突如として起こりました。
その後会長より北尾根山行計画を中止するよう要請がありました。
理由は1ヶ月もの間に2度も事故をされたら大事になる。絶対に中止してほしいとのことでした。
会長は遭難現場におられ、マスコミ、警察との対応におわれ遭難事故の大変さを身に染みて体験されておられたのでこのようなことがまたあったら大変だとの思いがあったのでしょう。
それは理解できるが我々はこの日のために練習に練習を重ねてきた。遭難事故に対してもあらゆる可能性を考え対応もできている。
まず事故の可能性は非常に低い。ここ北尾根での事故は平成23年9月4峰での滑落事故以来1件もありません。昨年度もサイデングラードや吊り尾根、ジャンダルムト等で19件の事故が発生、うち4名が死亡しているが北尾根では事故は1件もありません。ある程度登山技術のある経験者が登るのと、落石の危険性が高いので先行パーティーがいるときには危険地帯に入らないという原則が守られているためでしょう。もちろん我々もこの原則は守ります。天候が悪ければ中止するし、大人数のため順番待ちで遅くなれば中止することも決めていました。
登山ですから絶対安全とはいきませんが最大限の安全策はとったつもりです。ですから「はい、中止します」という気持ちにはとてもなれません。
「この日のために訓練に耐えて、成果を出してくれた仲間を見捨てられません。個人山行ですから自由に行っても良いのではとの気持もありました。
また親友でもある会長の立場を考えると迷いました。仲間か会長か。
友人から亡くなった藤石さんの直前の写真のことを聞きました。横尾で前日に撮った写真、明るい性格の人ですから笑った笑顔の写真と思いきや非常に暗い写真だったとのこと。・・・・・・

登山は正々堂々、楽しんでやるべきである。異なる意見であるとはいえ反対意見を押しのけて行くとその怨念が残る。登る我々もプレッシャがかかります。たとえ無事に成功したとしても会心の笑顔はえられないだろう。
来年までもう少し訓練を積みなさいということでしょう。会長に今回は中止することを伝えました。仲間もこの気持ち理解してくれることでしょう。私は高齢ですから明日はないが若い人にはまだまだいくらでも機会はあります。今回のことも良い教訓と受け止めてくれるでしょう 
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青天の霹靂 「広島土砂災害」

2014-08-21 20:32:54 | 日常
平成26年8月21日
8月20日未明広島市北部が未曾有の豪雨に襲われ大きな被害が発生しました。今日13時の発表では死者39名、行方不明者26名と時間の経過とともに被害が拡大しています。
私は19日の20時ごろ会社で仕事をしていましたが突然の雷雨に襲われました。30から40分も経験のしたことのないような猛烈な雷と滝のような豪雨のため帰ることが出来ず会社に閉じ込められました。
雷が頭上に居座り逃げないのです。何本かが落雷し、ものすごい雷鳴がとどろきます。一時停電になりました。2時間くらいで小ぶりとなりやっと帰宅しました。
会社のある府中町と被災地の安佐南区の八木、緑井とは直線距離で10キロ余りです。この豪雨が移動したのでしょう。
翌朝この土砂災害のニュースを聞きびっくりしました。僅かしか離れていないのにこのような大惨事になろうとは・・・20日未明の3時間に観測史上最高の207㎜の猛烈な豪雨に襲われ31か所で土砂崩れ、土石流に襲われたのこと。
この八木、緑井は本当に自然豊かで住んでみたい町でした。子供のころには八木の梅林に遠足に行ったこともありました。南に太田川の流れ、背後の北側には阿武山(586m)がそびえ北風を遮、まさに「天子南面」する福相の地でした。かって、この地区で住宅を探したことがありました。山際の住宅でした。広い敷地でしたが裏側に回ってみると二階の屋根ほどの切土の崖、それをあがると45度の急斜面の山林がつづいていました。万一大雨でもあり斜面が崩壊したら・・・家はひとたまりもありません。雨が降ったらおちおち寝てなどいられません。当然あきらめました。あの時裏山に登り危険な状態であることを知らなかったら購入していたかもしれません。この地区はこのようなところで無理やり住宅地にしたところが多くこのような大惨事になったと思います。
事実この地区の隣の安古市に大規模な団地が山の斜面一帯を切り開き大造成されていますが、このような事故は起こっていません。安全を考えない無理な宅地造成が原因としか思えません。
住宅の全半壊は46戸とのことですがその割には死者が多い、夜中熟睡中に襲われたためでしょうか。助かった人の多くは山の匂い、音の異変に気づき、すぐに退避行動をとったとのこと。素早い決断が生死を分けました。
最近よく自分の住んでいるところの災害ハザードマップを作ることが話題に上ります。自分の街を知ること、どのような危険が存在するか、そしてその対策を考えることの大切さを痛感しました。山でも同じ危険予知して、その対策をいつも考えておくことの大切さは同じですね。
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雨が降ってもクライミング。そして藤石さん遭難事故。

2014-08-19 20:41:12 | 日常
平成26年8月16日
先週の9日に続き今週もまた雨天のクライミング訓練となりました。8月に入り晴れた日はたしか3日しかありません。
本当に今年は異常気象です。
早朝から激しい雨でしたが予定通り福山・蔵王の岩場で4人が雨具を着用してクライミングを行いました。
普通は岩登りは晴れた日にしかしません。岩が滑って登れないという先入観があるからです。
私も初めはそのように考えていましたが昨年屏風岩をにぼる訓練の時、万一雨になったときのために雨天の登り方の訓練の仕方を教わってから
雨でも登れることに気が付きました。要は雨でも登れる方法を知ることです。それは平らな足場、尖って滑らない足場を見つけてそこに足を乗せればよいのです。
ですからクライミングシューズの靴底のフリクションを使った方法は岩がぬれて滑りますから使えません。利用できる足場は減少しますがある足場を使えば登れます。
初めはすべるという不安がありトップロープで何回も連続して登ってもらいました。体が慣れてくると次第に適格に使える足場が見つけられすばやく登れるようになりました。ザイル操作にも慣れ、荷物を背負ってのリードもできるようになりみんなに笑顔が浮かんできます。常識を破ったのです。雨が降っても登れる。これは大きな自信になったことでしょう。
朝9時から午後4時まで汗びっしょりとなりましたがこれだけやれば必ず北尾根は登れる。風さえなければたとえ雨天でも登れるような気がしてきました。むしろ雨天の方が登る人が少なくそれだけ落石の危険が少ないので安全ではないかという気もしてきました。雨天訓練の大きな成果です。
帰りがけに、江種事務局長から電話がありました。藤石会員が奥穂高岳に登り帰ってこない。18時に福山駅前に集合するようにとの電話でした。
会長をはじめ9名の役員が集まり協議。
「状況は屏風岩登攀組3名の車に藤石氏が同乗した。彼らがクライミング中に藤石氏は奥穂高に登り、15日に上高地で合流して帰る」計画であつた。
下山してこないので16日午後警察にその旨届け出をしたとのことでした。
一般登山道であり、何らかの理由で下山が遅れているのだろうとの判断であったが翌朝の新聞には第1面に遭難事故が大きく掲載されていました。派手な扱いにびっくりしました。遭難したのではと捜索依頼を出したのだから仕方ないです。17日12時第1陣として会長ほか3名が出発、18日、早朝上高地に入り岳沢から紀美子平間を捜索する計画。
第2陣は1日遅れて18日12時福山を出発、19日早朝上高地に入り穂高山荘まで登り翌日吊り尾根を捜索し岳沢に降りる計画でした。
メンバーは私、川口、藤田、越智の北方稜線組の4人と柴本氏の5人組です。
18日福山を出発して間もなく遭難者を発見との一報が入る。発見したのでくる必要なしとのことで龍野西インターで捜索を打ち切り帰福しました
遭難場所は吊り尾根のほぼ中間地点、稜線より200m下った岩場、心肺停止の状態で発見された。
藤石さんの行動は15日朝自宅に電話が入っている。「穂高山荘近くでテントを張っている」とのこと。小屋には岳沢に下ると言っていたらしい。当日は大雨であり強風であったと聞く。
100キロ近い巨漢の藤石さんも強風のためバランスを崩し転落したらしい。ヘルメットも破損し即死とのことでした。直ちに収容予定でしたが天候が悪くヘリが飛べなかったり、19日には収容予定であったが他に遭難事故が発生しこちらは生存の可能性ありとして救助が優先され、19日現在、収容はまだなされていない。
今回の山行の目的を忖度すると楽な小屋泊まりでなく重いテントを担いでの登山は怪我からの復活を目指してのリハビリ登山ということだろうと思いますがそれならなぜ悪天にもかかわらず厳しいコースを下山したのか。「無理をしない」、「安全はすべてに優先する」という原則は守っていればこのような事故にはならなかったでしょう。
些細なミスで死の代償を賜るとはあまりにも過酷な仕打ちではないでしょうか。自然よ、何故許してくれないのか、厳しい仕打ちを恨まざるを得ない。
1日も早くご家族のもとに帰られることを祈念しております。ご冥福を心よりお祈りいたします。

追記
8月21日午前中に無事収容されました。
本当にありがとうございました。
19日にも吊り尾根で滑落事故がありました。
詳細は「岳沢小屋スタッフブログ」に詳しく記されています。ご参考までにご覧ください。
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原爆の日

2014-08-06 17:40:51 | 日常
平成26年8月6日
今日は原爆の日です。
広島は8月になっても連日の雨です。今朝も大雨で高速道路、鉄道等交通機関も遮断され大混雑です。
いつもこの日は「あの原爆が投下された日のような暑い日」なのですが雨というのは初めての経験です。
43年ぶりの雨といいますから記憶にないのも当然です。
私の父も私が1歳の時原爆で亡くなりました。
当時は爆心地に近い細工町の郵便局の本庁に勤務しており即死です。この一瞬に14万人がなくなりました。父の遺品も遺体も何も残っていません。300人余りの職員が殉職されました。
広島では平和公園の慰霊祭だけでなく、犠牲者が所属する職場、会社、学校、地域ごとに慰霊祭が行われています。
郵便局の慰霊祭は比治山の麓にある多聞院で執り行われました。老母と孫娘が参列しました。それがすんでから平和公園に行くそうです。
いま原爆被爆者の平均年齢は79歳です。全国の被爆者の団体も高齢化のため活動が停止され36もの組織が消滅解散したとのこと。年ごとに減少するのは仕方ないことです。原爆も忘れされれるのではと心配です。
生き証人である「語り部」も同様で先細りで語る人がいなくなると危惧され、心配されていましたが今若い世代が「語り部」を語り継ぐことが継承されています。これで途絶えることなく引き継がれていくことでしょう。
ひと安心です。山岳会も同様で若い人に技術、高山行のやり方引き継がれることを進めております。全くの同感です。将来の展望が開かれる思いです。
昨日テレビでアメリカネバダ核実験場の放射線等汚染物により多くの住民ががんで亡くなっていることが放映されました。
千発近い核実験の汚染物が風に乗り、何百キロと離れたアメリカ全土に運ばれました。牧場の生き物も奇形が生まれ、農地も食べ物も汚染されています。
今までは愛国心の美名のもと隠され続けてきましたがその被害は周辺だけでなくアメリカ全土に汚染が広がっていることが明らかになりました。
広島だけでなくアメリカにおいても多くの被爆者が存在する。身内の肉親が次々とがんに侵されなくなります。核兵器の非人道性が明らかになることでしょう。広島の思い、訴えも理解されることでしょう。平和を考える一助になればと思います。
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剣岳・北方稜線縦走

2014-08-03 13:48:20 | 日常
平成26年7月24日から29日
ついに北方稜線に行ってきました。予想されたこととはいえ途中でビバークしたので1日日程が延びました。
困難な山行の場合は予備日を設けることを痛感しました。北方稜線はわが国で最も困難なバリエーションルートの一つと言われています。バリエーションルートですから標識や鎖などの安全施設はありません。だからザイルや支点とするギアが必要です。今年は雪も多いのでピッケルや12本アイゼンも必要です。
このコースは山岳会という組織だから行けたコースです。旅行会社の企画する山行ではいけません。
コースを熟知したリーダーと仲間を助け合うチームワーク、困難を乗り越える訓練が必要だからです。今回のメンバーには高齢者、新人もおられましたが事前のトレーニングに合格したから参加を認めました。
訓練を通じてチームワーク、みんな一緒に完遂しようという気持ちも育ったように思います。
7月24日 17時福山発、北陸自動車道の流杉PAで仮眠
7月25日 宇奈月に車を置き、タクシーで馬場島に移動。早月尾根を登る。途中我会の山ちゃんに会いました。日本三大急坂の登山道ですが森林組合の方々のおかげで草刈り、土嚢積とよく整備されていました。蒸し暑く大汗をかきましたが予定どうり15時には到着。経営者が変わったのでしょうか夕食も豪華でおいしくいただきました

7月26日
3時30分発。カニノハサミも越え7時30分剣岳山頂。大勢の人で賑わっていますが北方稜線組は我々だけ。
ハーネスを着用いざ出発。基本どうり稜線上を行き、長次郎のコルへ降り立つ。下から見上げル岩峰は迫力満点。前回はノーザイルで登りましたが今回は無理。ザイルを出して中間部を巻き、トラバースする。眼下は長次郎雪渓が広がる。落ちれば命はありません。緊張感を持つて渡る。先頭の人にはこれから先の偵察に行ってもらう。見覚えのある二枚岩、ここには小さな平地がありテント2張り可能。稜線に出て池ノ谷乗り越へ下る。八つ峰の頭に登る予定でしたがここから八つ峰がよく見えます。後半は足場も少なくなったので安全のため懸垂下降で下る。チンネの頭にクライマーの姿も見える。ながい池ノ谷ガリを落石に用心しながら下りようやく三の窓に到着。ほとんどコルの上まで雪渓がある。大変な雪の量です。
小窓の王の急な斜面、雪がのこつているとの情報でしたがほとんど解けていました。助かりました。
この急坂が凍結していてば大変なアルバイトをするところでした。
小窓尾根からはすぐに100m下って斜面をトラバースした記憶があるがガラ場でとても困難。稜線上の道を行くと下りながら最初の雪渓に出る。末端はがけになっているようなのでザイルを出す。中間地点にピッケルで支点をとり渡る。後続の3人組のパーティが追い付いてきたので我々のザイルを利用して通過してもらう。少し行くと2番目の雪渓にでる。急傾斜ではないが万一スリップすれば事故になるのでザイルを張る。眼下の小窓雪渓の上部に黄色のテントが見える。あと少しだ。少し行くと先ほどの3人組がいて道がわからないので探しているという。昨年も来てよく分かっているはずなのに・・・・しばらく我々も手分けして探す。ハイマツ帯を抜けるとその下部は草付で樹木もまばらである。時間もかなり超過しており小窓まで下りれば水もあり指呼の間である、下る決断をする。樹林帯に踏み跡があったがそれもすぐに消えやぶ漕ぎとなる。悪戦苦闘してハイマツ帯を抜けると急斜面の草付がよく滑る。砂地を探して降りる。途中で偵察するとはるか左の雪渓の上に登山道らしきものが見え。稜線のハイマツ帯の際に道らしきものが見えた。登り返しはかなりの苦労もありそのまま下る。下部の平らそうなところがありそこでビバークすることにする。3人組も今日の池の平小屋はキャンセルするとのこと。
我々の仙人池ヒュッテもいけない。ビバークの伝言を依頼する。彼らは上り返し上部の平らな所にテントを張ろ明日は正規の登山道を下るという。ビバーク地は少し傾斜があったが2張り張る。とにかくツェルトにもぐりこみ食事をとり眠れぬ夜を過ごす。風は強かったが雨は降らなかったのが幸運でした。
7月27日
明るくなると同時に行動開始。下部まで下るとそこは断崖の上でした。雨風も強くなってきた。
登り返しの厳しいアルバイトを覚悟した時、白いカラビナが目にはいった。おおきな岩壁の割目にフィックスロープがある。ザイルで確保してもらい下降すると下部の雪渓まで到達していた。これなら大丈夫である。本当にラッキーでした。皆を集め順番に下ってもらった。危機は脱したとの安心感が広がる。小窓雪渓は傾斜もゆるやかであったが安全のためザイルをつなぎ旧鉱山道の入り口を目指す。入口は標高2170m余りに入り口に幅もあります、ペンキのしるしもはっきりと残っていました。鉱山道に入ってすぐに岩場の道で後続の方が5から6m転落された。怪我はない模様。そこに山岳警備隊の方が巡視のため来られた。ビバークのことは連絡が入っていたが巡視に来られたようです。我々の降りたところは良く迷うところの様です。池平山の山裾を巻いて池の平小屋へ、小休止して仙人池に到着。昼前でしたが明日早く出発することにして今晩は仙人池ヒュッテに泊まる。暖かい日差しぬれた衣類、装備を満艦飾に乾かす。ラーメンを食べゆっくりとくつろぐ。一番風呂にも入りさっぱりとする。正に至福のひと時です。いつものイカスミをごちそうになり早々と就寝。
7月28日
予定より30分遅れ3時30分出発。雨である。足元に注意しながら用心して下る。
雪渓を下り滝の音が近くなる。下りすぎたのかな。以前もここで間違った登り返して山の左側の登山道を下ったことがありました。入り口は左側。方々探すが道らしきものはない。困った。滝の上の右岸側にペンキがあるという。明らかな手がかりでありそれ以外に道はない。離れたところから左斜面の山復に道らしき物が見えるが入り口は崩落して崖となっている。
8年前とは登山道が変更になっていたのだ。昨夜よく聞いておけばよかった・・・・残念。変更はあるよね。
あとは仙人温泉、阿曽原をひたすらに歩きましたが欅平の最終便には間に合わず祖母谷温泉山荘にお世話になりました。1日遅れの行程となりました。無理をすれば事故につながりかねず、予備日は必要ですね。
お疲れ様、よく歩きました。
(写真は長次郎の頭の中腹を巻くところです)
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