令和2年3月29日(日)![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/97/d3b8fb7bec16c58f228cabe422ce37a9.jpg)
今日、引越で久留米市に行きました。その折、予てより念願していた「山田堰」に立ち寄りました。この山田堰はアフガニスタンで中村哲氏が住民の生活をよくするには「百の診療所より一本の用水路」が必要であると灌漑水路を建設した時のモデルとされた灌漑施設だからです。この工法が採用されたのは大型建設機械がなくてのできること。後の維持管理が容易であることが決め手になりました。この筑紫川は利根川、吉野川と共に「日本三大暴れ川」と呼ばれる川です。現地に立つとダムが放流中のため増水した水が広い石畳みの上を白浪を立てながら流れていました。この堰は1790年、古賀百工翁が藩命により干ばつ対策の農業用水確保ため築造されました。その工法は「傾斜堰床式石張堰」と呼ばれ斬新なものでした。川の地形や流れを巧みに利用して、流れに対して斜めに石積みして広い石畳みの堰を作り、平素は3本の水路で下流に流すが増水すればその石積された広い石畳みを越して流れる。せき止められた水は灌漑用に取水し、堀川用水路とした。この工事には62万人もの農民が従事し、用水路の長さは88㌔、650haの畑を潤した。その用水路には2連、3連の水車が7か所余りも作られて農業発展に寄与し田園風景に民俗文化財としてインパクトをもたらしています。これらの施設は「世界かんがい施設遺産」に認定されています。
この堰の横に恵蘇八幡宮があります。そこはかって「朝倉橘広庭宮」と呼ばれた由緒ある所です。
日本書紀によれば「660年7月、百済が唐・新羅連合軍に滅ばされると、斉明天皇は百済救済のため難波より661年3月九州に入り、その年の5月、朝倉橘広庭宮に遷られたが病気のため7月24日、崩御、中大兄皇子は7日後の8月1日にこの地にご遺体を移し、一時的に葬る」とあり地元ではこの山を御陵山と呼んでいます。恵蘇八幡宮裏の標高70m余りの展望の良い小山の頂の鬱蒼と繁つた森の中に小さな陵があり、その周囲は高さ1m余りの石柵が巡らされており、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」と刻されているそうです。天皇の陵とは思えないような質素なものでした。大宰府には水城や山城等の城郭などを築きながら50キロ余りも奥に入ったこの地に本陣を置くとは予ほど唐・新羅連合軍の来襲を恐れていたのですね。その心労のため急死されたのでしょう。
この隣に原鶴温泉があります。15軒余りの温泉旅館のある小さな温泉です。大都市福岡から70キロ余り、博多の奥座敷といえる趣があります。私のイメージでは「美人の温泉」です。それはかって妻と来た時、展望の良い温泉でしたが妻が「見たこともないような若くて美しい絶世の美女に会いました」と話をしていました。妻のことですからいろいろお話をしたのでしょう。博多の水商売をしている方のようでした。それ以来、私には原鶴温泉は「美人の湯」となりました。今回は夜でしたから道の駅近くの家族風呂に入りました。3人用の個室のお風呂で料金は2100円でしたが一人なので少しサービスしていただきました。桧造りのきもちのいい、硫黄泉のお風呂でした。疲れもすっかり取れました。
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今日、引越で久留米市に行きました。その折、予てより念願していた「山田堰」に立ち寄りました。この山田堰はアフガニスタンで中村哲氏が住民の生活をよくするには「百の診療所より一本の用水路」が必要であると灌漑水路を建設した時のモデルとされた灌漑施設だからです。この工法が採用されたのは大型建設機械がなくてのできること。後の維持管理が容易であることが決め手になりました。この筑紫川は利根川、吉野川と共に「日本三大暴れ川」と呼ばれる川です。現地に立つとダムが放流中のため増水した水が広い石畳みの上を白浪を立てながら流れていました。この堰は1790年、古賀百工翁が藩命により干ばつ対策の農業用水確保ため築造されました。その工法は「傾斜堰床式石張堰」と呼ばれ斬新なものでした。川の地形や流れを巧みに利用して、流れに対して斜めに石積みして広い石畳みの堰を作り、平素は3本の水路で下流に流すが増水すればその石積された広い石畳みを越して流れる。せき止められた水は灌漑用に取水し、堀川用水路とした。この工事には62万人もの農民が従事し、用水路の長さは88㌔、650haの畑を潤した。その用水路には2連、3連の水車が7か所余りも作られて農業発展に寄与し田園風景に民俗文化財としてインパクトをもたらしています。これらの施設は「世界かんがい施設遺産」に認定されています。
この堰の横に恵蘇八幡宮があります。そこはかって「朝倉橘広庭宮」と呼ばれた由緒ある所です。
日本書紀によれば「660年7月、百済が唐・新羅連合軍に滅ばされると、斉明天皇は百済救済のため難波より661年3月九州に入り、その年の5月、朝倉橘広庭宮に遷られたが病気のため7月24日、崩御、中大兄皇子は7日後の8月1日にこの地にご遺体を移し、一時的に葬る」とあり地元ではこの山を御陵山と呼んでいます。恵蘇八幡宮裏の標高70m余りの展望の良い小山の頂の鬱蒼と繁つた森の中に小さな陵があり、その周囲は高さ1m余りの石柵が巡らされており、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」と刻されているそうです。天皇の陵とは思えないような質素なものでした。大宰府には水城や山城等の城郭などを築きながら50キロ余りも奥に入ったこの地に本陣を置くとは予ほど唐・新羅連合軍の来襲を恐れていたのですね。その心労のため急死されたのでしょう。
この隣に原鶴温泉があります。15軒余りの温泉旅館のある小さな温泉です。大都市福岡から70キロ余り、博多の奥座敷といえる趣があります。私のイメージでは「美人の温泉」です。それはかって妻と来た時、展望の良い温泉でしたが妻が「見たこともないような若くて美しい絶世の美女に会いました」と話をしていました。妻のことですからいろいろお話をしたのでしょう。博多の水商売をしている方のようでした。それ以来、私には原鶴温泉は「美人の湯」となりました。今回は夜でしたから道の駅近くの家族風呂に入りました。3人用の個室のお風呂で料金は2100円でしたが一人なので少しサービスしていただきました。桧造りのきもちのいい、硫黄泉のお風呂でした。疲れもすっかり取れました。