まほろば日記

fujioの日常の出来事、記録等を思いつくままに書いた日記です

千葉への引越とその後の楽しみ

2021-03-23 00:44:04 | 日常

(新倉山浅間公園の案内板を撮りました。「晴れていればこのよう見えます。」あいにくの天気で富士山は雲の中、桜もまだツボミでしたがしっかりと想像できました。)

令和3年3月18日から21日
3月は引越の繁忙期です。広島市から千葉県の習志野市まで単身者の引越があり行ってきました。
この引越に便乗して日頃からお世話になっているが電話でしか話したことがない東京の取引先の会社を訪問し親交を深めてきました。
19日夜は川崎の娘家族に2年ぶりの再会を楽しみ、3日目には念願の富士山のビューポイント富士吉田市の「新倉山浅間公園」へ、さらに足を延ばし工藤夕貴さんの経営されているカフェナチュレにも立ち寄りました。
4日目には奈良にゆき、あいにくの雨でしたが山の辺の道・南コースを車で巡り,最後に聖林寺の十一面観音菩薩像を拝観して帰りました。
走行距離1900キロ、3泊4日の充実した日々を過ごしました。

3月18日、15時お客様の荷物を積み広島出発、山陽道,第二名神、西名神、新東名を経て19日、1時45分海老名SAに到着、ここまで780㌔,今夜はここで仮眠する。既にここには赤帽車が5から6台駐車している。先方の会社には10時ごろ訪問予定なのでゆっくりできます。
お土産の「生もみじ」手に訪問する。いつもは電話で打ち合わせをしています。声と実際のお顔はどう違うのか想像しながらでしたがイメージ通りのお方でした。社長さん、担当社員の方、事務員さんにお会いした一層親密感が増しました。一度知ってしまうともう断れませんね。有意義な会合でした。
引き渡し予定時刻は14時で、余裕をもって到着するはずですたが高速道路,事故渋滞なので遅れ30分前の到着となりました。無事引き渡し完了。娘の住んでいる川崎には17時前に到着する予定でしたが高速道路またも事故渋1時間余り遅れて到着しました。東京は渋滞で思うように行動できませんね。料金もタクシー並みに距離と時間の併用しなければならないように感じました。

(糖質カットとはご飯、パン類、めん類、イモ類を食べないこと。でもお肉やお魚はしっかり食べても大丈夫です。何とか次回の血糖値検査でよい結果が出ますように続けたいと思います。)

娘家族とはコロナの影響で帰つて来れなかったので2年ぶりの再会です。食事の時、娘の料理と内容が違うので聞いてみると只今糖質オフの食事ダイエット中とのこと。私も血糖値が高いので現在薬を飲んで治療中、低カロリーに注意するより糖質量を1日60g~80gに減少させる方が大切とのこと。今までの効果がないので試しにやってみようかな。要は太る原因の高糖質な主食のご飯、パン、麺類を食べないこと。御肉や魚介,卵、大豆製品と野菜中心の食生活に移行すること。娘から本を頂いたのでしっかり勉強します。大転換ですがやってみて良い結果を待ちましょう。人生最大の収穫となるかな。

翌日は8時、孫たちに見送られ、次の目的地 富士山のビュ―スポット「新倉山浅間公園」に向かう。
ここは富士山を中心に赤い五重塔と紅葉、桜が咲き、外国人にもっとも日本的な風景のみれる場所として人気があるところです。
東名高速道路の横浜青葉ICに乗りましたが渋滞のため中央自動車道の河口湖ICまで3時間余りも要しました。
ICから10分余りで浅間神社の100台余り置ける大きな駐車場に着きました。さらに絶景スポットの展望台までは標高差130m、階段は400段余りと長いです。
しかし、意外と楽に歩けました。何故だと思いますか。階段の高さが10センチ余りと低いので楽に足があげられるからです。楽な登山道の在り方、勉強になりました。時節柄、団体客はありませんが欧米よりもアジア系の方が多いのでしょうかいろいろな言語が聴かれました。赤い五重塔は富士吉田市戦没者の慰霊塔でした。
もう一か所「金鳥居」に行きました。国道を挟んだ商店街の中に金鳥居が建っています。アングルによってはその鳥居の中に富士山が写るのです。面白いですね。
名物の「吉田うどん」食べました。四角な麺で少し硬めでこしがあります。

次は女優の工藤夕貴さんが経営しておられる「カフェ ナチュレ」(富士宮市人穴346)に行きました。
ここからは富士山の反対側になりますがめったの来られないので是非とも行きたいと念願していた所です。
NHKのドラマ「山女日記 ~女たちは頂を目指して~」のガイドの立花柚月役で好演しておられました。
山好きな女優の中でも一番実力のあるかたではないでしょうか。
ここ富士山のふもとに広大な土地を購入し無農薬による野菜作り、お米作りを実践されています。
その敷地の一角に自分で育てた健康野菜を使った「カフェ ナチュレ」を開いておられます。

この場所は人穴小学校の近くにあり、観光農園もありました。こじんまりとした平屋の建物で室内に5席、屋外にパラソル席が5席ありました。私はシーフードカレーを注文しました。お米もご自分で作られたものです。またここの無農薬合鴨農法米を使用した純米酒「賜る(ぎふと)」も作られています。もちろん一本購入しました。彼女のこと。富士山のこと。周囲の景色を思いながら飲むお酒の味は格別なものがありました。

(北側から見た富士山山頂、大きくえぐられた火口跡が印象的です。頂上に笠雲がかかりつつあります。雨が近いことを表しています。)

ここに来る途中一瞬だけ晴れて山頂を見ることができました。本当にきてよかった。思い残すことはありません。
次の目的地は飛鳥。「山の辺の道」と「聖林寺の十一面観音菩薩」に会うことです。雨の中車を走らせ天理のパーキングで仮眠。
朝7時、最初は「石上神宮」。

入り口横に置かれていた万葉歌碑、その案内碑には日本語、英語、、ハングル語で万葉歌が記してありました。万葉集も国際的になったことを知りました。
    石上布留の神杉神びにし
        我やさらさら恋にあひにける (万葉集巻10-1927)

この境内には長鳴鶏の一種、東天紅や烏骨鶏など8種、40羽余りが放し飼いにされ,「コケコッコー、コケコッコー」とあちことから元気な鳴き声が森中に響く。気分よし。いいものだ。

次は「竹之内環濠集落」、小高い地形ながら集落の周囲に水濠をめぐらし外敵に侵入を防いでいる。今もその一部が残っています。
次に行ったのは「長岳寺」 弘法大師が創建された古刹です。ここの鐘楼門は幾多の戦乱にみ生き残り日本最古といわれています。
池を囲んで建物が巡らされ落ち着いた雰囲気のお寺でした。
水濠をめぐらした巨大な崇神天皇陵や景行天皇陵、卑弥呼の墓といわれる箸墓を見物しました。
いよいよ最後は聖林寺。談山神社のある多武の峰の麓、小高い位置にあり大和盆地がよく眺められる。

藤原鎌足の長子である定慧和尚が建立したといわれる由緒あるお寺です。
聖林寺の十一面観音菩薩は日本彫刻史上最高傑作といわれ国宝となっています。
木心乾漆造り、漆箔、像高209㎝、奈良時代の作品です。
頭上面は前方にやさしいお顔が3つ、左方に怒ったお顔が3つ、右方に牙を出したお顔が3つ、後方に大笑いしたお顔が1つ、頂上に仏様のお顔が一つとあらゆる方向を向いて我々を助けてくれます。
本堂に参拝すると大きな大石仏。子安延命地蔵が祀られています。
観音様はどこにいらっしゃるのかと目を転ずるに左側の階段を上がった別室の観音堂におられる様子。
そこは1959年製,日本初の鉄筋コンクリートの頑丈な収蔵庫の中にただ一人立っておられました。まるで信仰の対象ではなく美術品の扱いの様です。何か寂しい気がします。どのようなことでこのような状態に置かれたのか
当初は大神神社の大御輪寺のご本尊として祀られ、四天王に守られ,前立観音の他、左右の多くの仏像が並び立ち、背後には薬師如来一万体が描かれた板絵等、荘厳の中に祀られていました。
右脇侍には地蔵菩薩(現法隆寺)、左脇侍には不動明王(現玄賓庵)が鎮座し華やかに祀られていたことでしょう。
明治時代の神仏分離令により多くの仏像は離れ離れになりました。その時この観音像は路傍に放置され、埃にまみれて雑草の中に横たわっていたものを聖林寺の住職が持ち帰ったという話もあるほどの荒れようでした。このような状態のため11体あるはずの頭上の仏像が9体しかないのではないでしょうか。その後明治新政府による宝物調査が始まり、そのメンバーであったアメリカ人のフェノロサや岡村天心によりその価値が認められ国宝の第1回に選ばれた仏像24体に選ばれ、日の目を見るようになりました。美術史家で哲学者のフェノロサはこの観音菩薩をギリシャ彫刻の「ミロのビーナス」などの西洋美術の傑作と並び評しています。また和辻哲郎の「古寺巡礼」にも取り上げられて一層有名になりました。
この観音菩薩を見た印象は美しいの一言です。お顔も通常の仏像に見られるような慈愛に満ちた優しい笑顔ではなく、目は少し吊り上がり、口元もかみしめたような固い表情で、きりっとして美しく威厳さえある。腰高でスタイルもよく豊饒なお色気もあり、指先の繊細なしぐさ、衣装のひだの美しさ、しなやかさと華やかさ。やさしさよりもその美しさ、高貴さに胸がうち震えました。
美しさに対するあこがれ、感動させられることが観音様への信仰心を深めさせたたのではないでしょうか
この御堂は耐震補強工事の為拝観できるのは2021年5月9日までです。
その後は、2021年6月22日~9月12日まで東京国立博物館、2022年2月5日~3月27日まで奈良国立博物館にご出座とのことです。
落慶法要は2022年4月下旬とのことです。
なお、聖林寺では観音堂改修のためではご寄進を求めておられます。またその資金とするため写真集「天平の美仏」2700円で販売中です。
ご支援よろしくお願いします。
お問い合わせ先      聖林寺
       633-0042 奈良県桜井市下692
       TEL 0744-43-0005
       FAX 0744-43-9505













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椿の季節

2021-03-17 23:29:12 | 日常

令和3年3月16日
この時期岩谷の観音さんに登るときつばきの花をよく見つけます。
それも木に咲いているのではなく地面に鮮やかな赤い花房が落ちているので気が付き上を見ると花が咲いているさまを見つけ、深いグリーンの葉に真っ赤な花の色の対比にうっとりとさせられる。
花弁ごと落花するので首がとられたように思われ武士にとっては縁起の良い花とは思われ見るほうからすれば花弁ごとですから地面から咲いているように美しく見られます。気が付けば公園のあたり一帯数多くの椿が植えられている。ここ府中町の町木となっています。冬の花の少ない時期に咲く花として親しまれ日本を代表する花です。学名もCamellia japonica(カメリア ジャポニカ)と日本の国名の付いた珍しい植物で日本を代表する国花といえる存在ではないでしょうか。。カメリアというのは普及に努めたチェコの学者の名前です。
椿の花ことばは赤色は「謙虚な美徳」、白色は「至上の愛らしさ」、ピンク色は「慎み深い」を意味しているとのこと。椿は2200品種あるといわれます。私がこのことを知ったのは東京のホテル「椿山荘」の庭園にいつた時です。たくさんの品種の椿が咲いていました。縁は異なもので椿山荘と竹林寺のご縁です。かって竹林寺に行った時三重塔の跡との記述がありそのお寺にあった塔が東京の椿山荘に売られたということを知ったからです。台風で傷んだまま放置されていたものを売却されたようで登録有形文化財として再建されこの庭園の目玉的存在となっているようです。
あちこちで椿を見るに改良しやすいのでしょうかいろいろな違いがあり面白い植物だと思いました。

長岳寺の椿、花が大きくて白色と赤色が一緒に植えられていました。

聖林寺の豪華な椿、千年の歴史あるお寺にふさわしき幹がひと抱えもありました。
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広島をめぐる山と谷「加藤武三作品集」

2021-03-10 22:19:34 | 日常

令和3年3月10日
今日帰宅するとポストに分厚い封筒が届けられていました。中身は「加藤武三作品集」が入っていました。加藤武三さんが描かれた全作品80点余りの画文集です。
ちょうど1年前「加藤武三回顧展」が開催され、その時絵画を購入した人に寄贈されたものです。私は「錦秋」と題が付いた2号くらいの小さな作品を購入しましたが全作品が見れるとは本当に素晴らしいことです。早速に楽しみました。
氏は1973年(昭和48年)、61歳でなくなられています。なくなって48年を経てご子息の姉妹の方が発刊されています。父の業績を残したいという熱い思いが伝わってきます。
加藤武三といっても今は知る人はいないでしょう。私の20年余り前に活躍された方ですから私たちが氏を知る最後の世代といえるのではないでしょうか。
私が登山を始めた昭和38年ごろはガイドブックといえば氏が書かれた「赤い表紙の「広島をめぐる山と谷」しかありませんでした。この本を手に広島の山や谷を歩き回りました。いわば私の青春のバイブルでした。

恐羅漢山等芸北の山々に入るには戸河内から何時間もかけて内黒峠を越えなければなりません。この峠に立って芸北の山々を眺め、初めて玄関口に着き、いよいよ登山が始まるといった気分でした。この峠に加藤武三氏の追悼碑が建っています。今は車で簡単に越えられますが当時は大変でした。雪崩のため遭難した人もありました。広島に帰るため一晩中ラッセルして峠を越えたという話も聞きました。私も十方山で豪雪にため2日間も下山が遅れ、心配を掛けたことがありました。汗と涙の青春時代の思い出です。やさしい絵と思いも詰まった文章で青春時代の思い出に浸りましょう。
この作品集は150部限定という貴重なものです。購入を希望される方は下記までお問い合わせください。金額は3300円(送料込み)とのこと。
〒731-5136 広島市佐伯区楽々園4-1-12-902 加藤真理 電話080-1933-2822
前回の「加藤武三回顧展」のブログは2020年3月15日に記しています。
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同行二人 (神様の存在を知る時)

2021-03-07 08:07:41 | 日常

令和3年3月7日
四国八十八か所を巡るお遍路さんの笠には「同行二人」との文字が書かれています。
弘法大師と二人で一緒に歩いているので寂しくない。この思いが最後まで歩く原動力となっているのでしょう。
言葉では理解できますが神様の存在を確信し,体感することがなければなかなか困難なのではないでしょうか。
私にはあります。
過去には冬の上高地でスノーキャンプをしたとき碧空に白雪に輝く穂高の峰々を仰ぎ見たとき、こんなに素晴らしいものを作れるのは神様以外にないと感激しアメイジンググレイスを口ずさみ神を讃えたことを思い出します。上高地はその荘厳さ故「神河内」(神様のおられるお庭)と記すのがふさわしいと思いました。
そして今、岩谷観音のいろいろなことに係り、本当に観音様に守られている。そのパワーを頂き、神のご加護を受けていると感じています。
行動を通じてよい結果がもたらされ、恵がもたらされているからです。
アメイジンググレイスの歌詞の一節「信じることを始めたその時の 神の恵みのなんと尊いことか」 あらためて実感しています。
今までも登山道整備を続けていると登山者の方から「ご苦労様です。」、「ありがとう。」等の優しいお言葉を掛けて頂きました。
私にはその言葉が観音様のお言葉のように聞こえ、それが嬉しくて、活動を続ける力となっていました。
この度の落石事故でお手伝いいただいた方からいろいろな要望がありました。
「頂上の岩場からの展望が樹木が茂ったため悪くなった。かっては下から観音様が見えていた。」
  岩場周辺の藪を取り払い、展望を妨げる樹木も50本、8割程度は伐採し明るく見えるようになりました。あと少しです。

「高尾山から岩谷観音のピークに至る登山道がわかりにくいので標識を作ってほしい。」
  高尾山のピークから直線に降りれば崖の上に出て下には降りれません。岩場を横に下り迂回しなければなりません。
  その分岐点の岩にペンキで矢印を描くことは気が引けますが、下山方向の安全な方位を知らせるためにはやむを得ないこと思い実行しました。

「登山道に飛び出た岩があり、注意しないと頭部を怪我する恐れがある。」
  危険な個所を知らせるためボルトを打ち込み、目立つようピンクの標識を付けました。

早速に、登山者の方から「本当によくなった。ありがとう」とのお礼のお言葉を頂きました。
頻繁に登っている方には日々改良されているのがわかるのですね。
嬉しいことです。遣り甲斐があります。
また、この登山道にはゴミ一つ落ちていません。観音様を慕う皆さんの温かい心ゆえでしょう。

頂上付近の樹木を伐採したため観音様を彫り込んだ巨岩が麓の町内各地からも見えるようになりました。
観音像そのものは小さくて見ることはできませんが巨石が見えることで観音様の存在を感じます。
観音様はいつも私たちの生活振りを見守っていてくださる。
朝夕、山を見上げてご真言を唱える。「オン アロリキャ ソワカ」
何か機運が変わってきた。
厳しい経済状況の中でもなんとか踏ん張っておられる。このことを感謝せざるを得ない。
良いことが続くとこれも観音様のご加護のお陰ではという心境になります。
感じることから実際に恵みを体験するとその信頼は深いものとなる。
妻を亡くして以来一人でしっかりと生きなければと肩に力が入り緊張した生活で、ある種のストレスが溜まっていたものが観音様と二人して生きて行ける。
生活を導いていただける頼もしい存在を知るとなんだか肩の力も取れて楽な気持になりました。
不思議ですね。
アメイジンググレースの歌詞に書かれている通りの心境です。
この心は万人共通な気持です。
  「今まで見えなかった神の恵みを 今は見ることができる。
    信じることを始めたその時の 神の恵みのなんと尊いことか。」
参考 上高地ウインターキャンプ27(2015年3月12日~15日)のブログをご覧ください。
   2004年3月に第一回目の上高地ウインターキャンプを始めていますが2005年からブログを始めたので、残念ながらそのときのブログの記載は残っていません。
コメント (2)
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岩屋観音落石問題、吉と出るか,凶と出るか

2021-03-06 22:13:20 | 日常

(麓の温品町に下りた岩谷寺の石柱)
令和3年3月5日
3月3日、東区役所の担当者の方から回答がありました。
「問題の落石のあった個所について現地調査も行い、関係個所とも協議したがその場所は岩谷寺の所有地であり広島市としては対応できない。」とのことでした。
となると事故にならないようにする管理責任は岩谷寺にある。隣の高尾山は広島市の管理下にあるようです。観音様のある山域には石段や石垣もあり昔は寺院が立っていたのでしょうから所有者は岩谷寺といわれるのも当然でしょう。岩谷寺は今は山の上にはありません。麓の温品町に移っていますが繁盛しているようには見えません。とてもその資金があるようには見えません。
山上にはお寺は無くとも多くの人が訪れ、愛されています。広島市の所有地であればいろいろ規制がありますが、自分の所有地であれば自由に工事できます。登ってくる人からも休憩所が欲しいという声を聴きます。石段も段々壊れてきて危険な状態になりつつあります。みんなな協力を得てそれらを纏めて何とかしたいものです。
最近ではよくクラウドファンディングで資金を集めて目的を達成したとの話を聞きます。
そうなればこの話は吉となります。
広島市のお金が出なくなった。それなら民間でお金を集めてやるしかない。
この落石問題のの事情はご存じないでしょうから、山上の観音様に納められた賽銭をお寺にお持ちした時、会えなかつたので事情を説明したお手紙をつけておきました。
決意次第で成功すれば吉となり繁栄への道も開けるが果たして・・・
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