まほろば日記

fujioの日常の出来事、記録等を思いつくままに書いた日記です

奥又白で始まり、奥又白で終わる。

2022-10-05 20:53:24 | 日常

(雲一つない快晴の奥又白池、24年分の絶景をプレゼントしてくれました。最初で最後の光景です)
令和4年9月30日~10月1日
今回の山行ほどいろいろな出来事を経験した山行はなかった。無事に完了できたことを仲間に感謝するとともに数々の幸運に恵まれ、観音様のご配慮を感じた最高の充実した山行でした。

最初に奥又白に行ったのは24年前、平成10年の8月でした。
西穂高岳から奥穂高岳の縦走を計画したが天候の問題で独標で断念し、上高地に下山。
「このまま帰りたくない」という仲間の声に登ったところが奥又白池でした。
その時はガスであまり展望が効かず池の水面を見ただけでした。
当時、上高地は数日前から群発地震に見まわれ、この奥又白池にキャンプした人は落石の音が響き怖くて寝れなかったといわれました。
草原には落石の痕跡が登山道のように何本もついていたのを記憶しています。
その後、槍穂高岳周辺のすべての登山道を走破しました。
5・6のコルから北尾根を登り前穂高岳に登りました。
明神岳は5峰すべてを縦走したがA沢は下降できなかった。
岳沢のクラッシックルート トリコニー〈三本の岩峰)にも登った。
それでも奥又白池と前穂高岳稜線との間が空白地帯でつながらない。
その空白地帯を埋めるため奥又白池と5・6コル間のバリエーションルートを歩き、私も今年78歳になりましたので登山人生の一つの区切りとするため思い出深い奥又白池に行くことを計画しました。
メンバーはいつもの6人。男性3名、女性3名、いずれも70歳前後の高齢者。会を退会した人も2名おられますが友情は変わらず続いています。
一人60歳の若手がおられます。私の一番の愛弟子です。昔のよしみで老いぼれた先輩を気遣い荷物持ちをかって出てくれます。その彼はいまや元気な福山山岳会の活動の中心的存在であり20代から40代の若手を鍛えてくれ、彼らからも慕われています。
3世代続く会員の構成を見れば我会の将来は安泰であり、創立103年を迎えてもなおこのような年齢層の幅広い山岳会はまれであり、年長者としてこれほどうれしいことはありません。

昨年度は直前に地震に見舞れ中止としました。
あの生々しい崩落の映像を見ればご家族の方々に大変なご心配をおかけするので止めました。
今年は私の母が入院中で危うい状態でした。
当初計画した9月23日から25日の登山中に葬儀等が発生するときは参加できない。
9月19日に亡くなったので20日通夜、21日本葬、22日役所等の手続を済ませました。
世間的には親族は1年間は服喪期間として謹慎すべきといわれますが来年ではみんなの体力が低下しおそらく実行できないでしょう。
これは長らく温めてきた計画であり、母が私への最後のプレゼントとして行かせてくれたのでしょう。
「いま出来ることの最善を尽くす」のが私の信条で勝手に解釈。
それで1週間遅らせて9月30日から10月2日の日程で実施することにしました。
初めの計画では徳沢園と涸沢小屋に予約していましたが延期の時点ですべてキャンセルしています。
涸沢の紅葉シーズンまじかですからあららめて電話してもどこの宿も満杯。
女性陣3名が電話をかけ続け、またインターネットで予約状況を確認、ようやく、30日、徳沢ロッジ男子2名分、徳沢園の仮設テント、女性3名分、テント持参1名。ようやく1泊分の宿泊が確保できました。
もう1泊分は徳沢か、横尾山荘を期待する一方、ない場合は日帰りも覚悟して計画しました。
当日、平湯温泉に着くまで電話しましたが満室は変わりませんでした。
延べ600回くらい電話したとのこと。すっかり声も覚えられましたがこれだけやったのだから悔いはありません。本当にご苦労様でした。ありがとうございました。

第1日目
午前5時福山出発、11時45分平湯温泉到着、2日目は日帰りと決定したので不要な装備は車に残置。常連の安山さんのタクシーで上高地へ12:55着、徳沢に14:45着。
徳沢には100張程度テントが張れますが既に半分くらいは張られていました。
混んでいるので夜は張綱に要注意です。
女性陣の常設テントはノースフェイスのジオドーム。地球儀のような豪華なものです。
「ぷらキャン」と呼ばれ手ぶらで来ても大丈夫。ホテルのような豪華な食事。シェラフも高級な「ナンガ」製、湯たんぽ付きで温かく過ごせたとのこと。
今回は3人で使用しましたが2人なら簡易ベットになるとのこと。
ただし料金は徳沢園の宿より高く、一人15000円とのこと。
良い経験になったと皆さん大満足の様子でした。
男性の宿は徳沢ロッジ。森のなかの重厚な感じの宿でした。
団体客も多くおられました。我々の部屋は2段ベットでした。涸沢から降りてきた人の話では今年の紅葉は例年の1から2割で最低とのこと。中日新聞では毎年涸沢の紅葉写真が掲載されるが今年は不調で掲載なしとのこと。9月になっても高温で、枯れたためだといっておられました。
ビールを飲んで7時過ぎには就寝。
第2日目
3時起床、4時出発。くらやみをヘッドランプをつけ歩く。新村橋は今月から5年かけて付け替えられます。記念すべき日となりました。パノラマルート、奥又白の分岐前までは道幅もあり快適でした。道が石ころだらけの道になり分岐点を過ぎてしまい引き返す。暗かったので見過ごしました。同じ失敗をしないようその分岐点に赤色と黄色の丸印標識を描きました。
よく目立ちます。
取付き地点は「松高ルンぜ」横の尾根道です。その取付きの岩壁に緑入りの遭難碑のプレートがあります。ここから奥又白池まで水平距離、約850mに対し、標高差約580m。如何に急峻な道かわかります。岩場の連続、両手両足を使って4つんばい。おまけに枝が生い茂っています。
大きなザックでは引っ掛かり大変でしょう。時間があればきれいに切り開いたいところです。
笹が道を覆いスリップして滑り易いところもありました。道幅がわかりにくい所もあります。
沢を詰めて登るところもありました。横に登山道があるのでマーキングしました。
広いガラ場で右に行くか左かよくわからないところにもマーキングしました。
昔は池の下方に「宝の木」と呼ばれた目印となる樹木がありそれを目指して登りましたが今はなく、トラバースを登ると目の前に奥又白池の湖面が飛び込んできてびっくり仰天しました。

荒々しい岩峰の前に対照的な静かな美しい池。感動しました。
今朝は我々のみ。小さなテントが1張りあるのみ。
雲一つない快晴の青空。眼前にそびえたつ東壁、北尾根の岩峰、5・6のコル。登る予定の6峰。頭に思い描いていたルートが眼前にある。
広い笹原をトラバース気味に下り、奥又白谷のガラ場、尾根の末端で乗り越え、5峰から下ったガラ場を少し登って右の尾根に取付き、厳しい尾根の岩場を登り、安定した尾根道で小休止、少し下って岩壁の下をトラバース。5・6のコル下の急なガラ場を登る2人の登山者の姿が見える。右側を四つんばいになりながら登ると5・6コルの平らな広場に出る。
そのルートが、白い道が眼前に見える。
眼を左に転ずれば扇状にに広がったA沢の末端が見えるそれを上にたどれば岩峰のかなたに稜線らしきものが見える。
今回下山時に出会った多くのグループは今日は池の傍にテント泊し、あすはA沢を登るといっておられました。
通常はここには11張程度しかテントは張れないようですが今日の人数からすると20張以上になりそうです。大賑わいです。
眼を南方に転ずると遥か彼方に富士山の姿も見える。どこにいても富士山を探す。昨日初冠雪とのことですが白くは見えなかった。

今日ここに来られたのも母のお陰である。
感謝して叫ぶ声が東壁にこだました。
母もこの絶景を共に見て喜んでくれていることでしょう。
「おかぁさん。ありがとう。」

もうひとつの仕事が残っている。分岐点とせめて5・6のコルは無理でも奥又白谷の尾根取付き点まではマーキングしたかったが、引き返すタイムリミットはぎりぎりで11時。下山路の困難さを考えれば少しでも早く引き返さねばならない。分岐点はすぐにわかりました。ここしか踏み跡はない。標高は2455m。石に赤色、黄色のマーキング。藪に入って約200m付近の岩にマーキングを残し下山した。あとは後輩たちが引き継いでくれることでしょう。

一仕事なし終えた満足感に浸りながら慎重に険しい尾根道を下る。
新村橋では十数匹のお猿さんに見送られ、今年が最後となる鉄筋の橋げたを渡る。
長い間有難うございました。
徳沢園ではテントを撤収後ソフトクリームを食した。
前穂高岳を眺むれば頂上付近は雲に覆われていた。あの絶景はもう見れないでしょう。
幸運を感謝。
16時30分河童橋着。
すべては無事に終わった。
感激をありがとうございました。
全員、穂高の山々に向かい一礼、上高地を後にしました。
(実際、充実した山行を行った時には自然にお礼する姿が起こります)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩谷観音様 御礼登山

2022-09-29 16:58:18 | 日常

令和4年9月29日
先般奥穂高岳登山で幸運をもたらしていただいた御礼にと福山から仲間3人が来てくれ,観音様へのお礼登山をしました。
私の登山道整備状況を説明し観音様にお花を手向け、観音経の冒頭の一節を読んでご縁を結んでいただきました。
明日は前穂高岳の奥又白池山行を予定し、多忙なため呉娑々宇山の山頂手前のバクチ岩で昼食をとり下山しました。6時間、10キロの行程でした。
最近観音様の周辺が見やすい案内板が設置されたり、登山道も掃き清められ大変綺麗になりました。それを実施されている方にはじめてお目にかかりました。
遊川真二さんとおっしゃるからです。良い仲間を得てうれしくなりました。

(このような大岩が崩れるなんて信じられません。万一落下していれば他の大岩を玉突きしていわなだれになったのではないでしょうか。安定した大岩のように見えても、このような危険性がある。良い経験となりました。)
それと南側の傾いた大岩は1週間前に発生したとのこと。
このような大岩が動くなんてとてもしいじられません。
良い経験をしました。
多くの方々が観音様の恵みを享受していただけるよう祈念しました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母死す.103歳の大往生でした。

2022-09-25 09:09:23 | 日常

(この写真は昨年撮影されました。右手の指が2が102歳を表しています。1年前は元気でしたのにね。)
.令和4年9月19日
今日母がなくなりました。
9月6日の誕生日が山でしょうと先生から言われていました。その時は眼じからもあり、しっかりしていましたのでまだ大丈夫だろうと思っていました。
町内の病院から連絡があり姉がすぐに駆け付け何とか臨終には立ち会い、見送ることができたのは不幸中の幸いでした。
時は14時17分でした。
予定していた町内の葬儀場が確保できないため,住んでいた黒瀬の姉の家の連れて帰り自宅で葬儀をすることにしました。
今思うと、母はこの地が大好きでしたからここで葬儀を行えてよかったのではと思います。
母は美しく化粧を施され、100年ものの伝統の家紋、5・3の桐の留め袖を身にまとい実に堂々とした貫禄十分な姿で横たわっています。
実に穏やかな表情で肌艶もよく、とても103歳の老人には見えません。声をかければすぐに起きてくるのではないかと思われました。

(多くの花に囲まれ賑やかでした。皆さま、有難うございます
夜、母の傍で、姉と二人で母への思い出を語り合い、二人で初めて観音経を読経、ご冥福を祈りました。観音様も極楽浄土に導いてくださることでしょう。
式は本日17時から通夜。明日21日12時から葬儀、13時出棺、13時30分黒瀬斎場にて火葬することにしました。
当初は高齢でありごく近親者のみの家族葬にする予定でしたが、直前までよくお相手していただいた友人に黙って逝くのは母の本意ではないと思い参列してもらうことにしました。
川崎市に住む孫娘もすぐに駆け付けてくれ、30人余りの母の人柄を表すような心温まる葬儀を執り行うことができました。
母は原爆で郵政局に勤務していた夫を失い、以来、女手一つで私たち子供2人を育て、学校にも行かせてくれましたました。
よく働きました。ある時は近所の材木屋で女ながら丸太を担ぐ姿を見たことがありました。

(孫娘が母に手紙を書いてくれました。お母さん、何が書いてあったの、今度教えてくださいね。やさしい娘ですね。ありがとう。)
孫娘が母に手紙を書いて棺に入れてくれました。何を書いたのと問えば「内容は秘密」。といわれればしりたくなりますね。
母が舟入川口町の会社に勤務していたころは私は毎朝白島電停まで見送りに行き、途中の駄菓子屋でお菓子を買ってもらい、帰る頃にはまた電停まで迎えに行き帰りを待っていました。
母が大好きな子供でした。
夫の実家は瓦製造、屋根屋で兄弟一緒に生活していましたが10歳のころ、母は家を出て独立、別所帯を持ちました。
転校先の先生が親戚の人であり、これが転機で私も勉強するようになりました。
やがて母は勤務先の仲良しの同僚3人と一緒に家を建て、現在の市内南区の堀越町に移転しました。
若い時は子供たちを育てるため、晩年といっても20年余りは広島市の老人家庭奉仕員として老人介護、福祉の増進のためよく働きました。
やさしい人柄ですから「ふくちゃん、ふくちゃん」と皆に慕われていました。
10数年前、一緒に引越してきた仲間もみんななくなり、一人になったので黒瀬の姉の家に引越、お世話になることになりました。
姉はお茶やお花の教授をしていましたので多くの友人たちが訪れます。
母のその話の仲間に入れてもらい楽しく過ごしていたようです。
姉も高齢で老々介護で大変な苦労をかけましたが母の世話をすることを生き甲斐に献身的に世話をしてくれました。
傍目もうらやむような介護振りでした。
母も意外と頑固なところがあり、けんかをすることもありましたが、そこは親子ですからすぐに仲直り、母系家族が円満で、老後の人間のあるべき道だと感じました。
最後の1年間は、コロナ禍の為入院していましたが病院の先生、看護婦さんには本当に家族のような親身な介護をしていただきました。床ずれがないのがその証でした。
103歳まで在宅で過ごせたのも多くの仲間の皆さんが、歌を歌ったり、オセロゲームをしたり母を盛り立てていただいたおかげでしょう。人間関係を保っことの大切さを痛感しました。
これ以上幸せな老人はいません。これからもいないでしょう。
将に大往生、103歳を満喫しました。見事な生き様を示してくれました。

有難うございました。
極楽では多くのお仲間が出迎えてくれることでしょう。話の花が咲くことでしょう。皆様によろしきお伝えください。来世にも楽しみはあります。
お母さん、ながい間、本当にありがとうございました。
いくら感謝してもしつくしません。
本当にありがとうございました。
またね・・・


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年も彼岸花が咲いた。

2022-09-15 14:48:34 | 日常

(夜気付いた時にはこのような様子でした。なにが生えているのかびっくりしました。)

(朝見るとこのように咲いていました。1日にこれだけ伸びるなんてすごい生命力ですね)
令和4年9月13日
夜, 車をバックさせて駐車場に入れていると左後方にニュキニョキとしたはなの茎がみえる。
「あれ・・彼岸花か、昨日までは何もなかったのに」数日前に草を抜ききれいにしていましたから。
連日の暑さにすっかり気を取られ何も考えていなかったので‥もうこのような季節になったのかとはたと気を引き付けられました。
自然は確実に季節を進めています。

人間は日々変化しづつけています。体は日々衰えてゆきます。それ故に泰然自若としたゆるぎない自然の姿にあこがれをもつのでしょうね。
そのように思うとこの可憐なヒガンバナに本当によく咲いてくれました。ありがとうと手を合わせたくなりました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

103歳の誕生日。

2022-09-11 15:51:21 | 日常

(負けるものか。この表情ならまだ大丈夫、生きて行ける。そのように信じています。おかぁさん頑張ってください。)
令和4年9月6日
今日、母は病院のベットで103歳の誕生日を迎えました。
コロナ禍で面会が制限される中,何か月ぶりでしょうか、少しだけ面会させていただきました。
形だけケーキと花束を持参しハッピーバースデーを口ずさみお祝いしました。
母も一緒に口ずさんでくれました。会えてよかったです。
容体もよくなく今日の誕生日までが山でしょうと言われていました。
何とか先月末の奥穂高岳山行にはゆくことができました。が これか先は何があってもおかしくないといわれています。
後日聞けば、姉は病院からの連絡を待つため携帯電話を傍に置き、すぐ行けるように準備して過ごしていると聞きました。だからろくに食事もとっていないようです。
私は「母はしぶとい。見た目は穏やかだが根性があります。内臓も心臓も強い。だから簡単には逝かない。」と姉に言っていました。
9月10日、姉のことが心配になり、すぐ調理できるお肉や冷凍食品を持っていきましたら友達も同じ考えのようでで多くの食べ物が届けられ冷蔵庫が一杯になっていました。
友達とは有り難いものですね。
私は姉の大好物のイチジクをもっていきました。破顔一笑、大変喜んでくれました。
友達も同様でイチジクを持参してくれたようです。
姉は「これは私が頂いたのだから誰にもあげませんげません。」と独り占めして両手で取り囲み、喜んでいる姿は日頃の姉からは想像できないような本当に子供のような無邪気なさまで皆笑いました。
先生から余命僅かといわれても母親が生きようと頑張っているのに子供が死ぬ時を待っているようでは申し訳ないといっていました。
逝くときは神のみぞ知る。
母はしぶとい。簡単には逝かない。母の頑張りを信じて日々精一杯生きるのみです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥穂高岳・前穂高岳・岳沢 縦走す。

2022-09-02 20:58:52 | 日常

(ザイデングラードの末端にて、バックは前穂高岳の北尾根です)
令和4年8月27日~30日
日頃から会の例会山行を共にしている里山組の会員から是非とも奥穂高岳に連れて行ってほしいとの要望がありました。
数人の個人山行として、奥穂高岳に登れる実力があるかどうか確認できれば連れて行くと回答。
この度の山行は実施までコロナ禍等数々の障害があり、実施することは困難で多分いけないだろうと思ったが結局行くことになり成功したのは「絶対に奥穂高岳に登りたい」という参加者の強い意思・情熱に他ならないと感じました。
今回の参加者に必要なものは一日、30キロ、10時間以上歩ける体力と厳しい稜線や岩稜地帯を安全に上り下りする技術力である。その他の必要な現地の情報は私が所持している。
体力課題は神島一周訓練(約27㌔)を2回、沼隈半島を30㌔あまり走破。岩稜歩きも天応・烏帽子岩山・アイゼン尾根で2回訓練した。直前のこの夏には白山、妙高山等の団体ツアーに参加して鍛えたとのこと。
今までにこれほど熱心に訓練した参加者はなかった。成功を確信した。
初めは奥穂高岳の往復と考えられたが実力もアップしたので、前穂高岳、吊尾根、厳しい重太郎新道を下り岳沢に至るワンランクアップしたルートの方がより思い出に残り感激も大きい思い変更した。
しかしながら、参加予定者は初めは4人でしたが,事故や病気のため2人が脱落。ついに2人のみの参加となりました。つくづく高齢者は「行ける時に行かないと明日は何が起きるかわからない。」ということを実感しました。

心無罣礙(シンムケイゲ)に徹する。不安な行動はしない。
般若心経に登場する言葉。執着に束縛されない自由自在な心と言われるが私は不安のないこと。のびのびとした自由な心境と受け止めている。
遭難、事故は人間の不安なこころや焦りから生じると考えています。心に不安がなけれな行動も理にかなった正しく、安全なものとなる。
当初は自家用車を使用して行く予定であったが運転に不安があるとの申し出があり、費用はかさむが列車利用に変更した。
足の指先が痛い。豆が出来そうだ。となれば直ちに治療する。不安な心は事故に通じるので迅速に対応,解消する。
高齢者にスピードは望めないので安全確実な行動が大切です。

集中力を養う。
道路の縁石の上を歩く訓練をする。地面上なら恐怖心がなく簡単に歩けるがこれが3m上にある縁石の上を歩くとなれば足が震えて容易に歩けない。
一歩、一歩、縁石に置く足に意識を集中し他のことは考えない。意識を集中して3m上に存在することは考えなければ容易に歩ける。
現在の一歩、一挙手、一投足に意識を集中すれば、危険な場所も安全、確実に通過することができる。
目の前に,現在あるこのひと手に意識を集中して、手の置く位置、足の置く位置、手順を考え、困難を克服する。
これができるようになれば転倒やスリップはなくなる。
アイゼン尾根で訓練の時、2回目の時には誰一人スリップする者がいなかったのでこの技が身に付いたことを確信した。

コロナ感染について。
初めは26日徳沢園、27日穂高岳山荘に宿泊予約でした。
しかし、穂高岳山荘の従業員がコロナ感染の為 8月21日から27日まで閉鎖となりました。
その為、計画実現のため1日ずらし28日穂高岳山荘宿泊に変更したが前日の27日に泊まる宿が明神、徳沢,横尾とも満杯で宿泊出来ない。
上高地から穂高岳山荘まで休憩時間を入れて約12から15時間、標高差約1500m。現在の我々の実力では無理かも・・中止も頭をよぎった。
横尾山荘も満杯で断られたが定員数が一番多く「キャンセルされることもあり、毎日宿泊状況を確認していてください。」との言葉に期待して毎日チェック。22日に△しるしに変わった時点で直ちに申込し、やっと宿が確保できました。これで念願の奥穂高岳に行けると安堵しました。


天候について
直前の天気予報では期間中4日間,全べて雨天の最悪の天気予報。景色、展望は望めず、ただ奥穂高岳に登ったという記録だけが残るのみと思いました。それでも行くとの方針で雨対策に万全を期す。
実際の天候は初日の27日午後、予報通り、上高地から横尾間、少しだけ小雨が降りました。次の28日,横尾から涸沢間、これも少し降りました。それ以外はすべて晴れ、それも快晴でした。すばらしい展望・絶景に皆さん大満足でした。
宿の確保といい、この天候といい、観音様のご恩恵以外にあり得ません。心より感謝しました。

第1日目 広島から横尾山荘
広島駅始発のぞみ90号6:26発乗車、福山駅で仲間と合流、名古屋駅で特急信濃5号に乗替え11:05松本駅着、電車、バスを乗り継ぎ13:20上高地着。出発時間は違うが車両利用と変わらない時間でした。

(新村橋が来月から5年余りかけて架け替えられます。)
登山届を出し、小雨降る中雨具を着用。横尾山荘に上高地到着の連絡を入れ13:50分出発。心地よい樹林帯の中を快適に歩く。槍ヶ岳の行く団体さんと前後して歩く。徳沢園のテントも20張程度と少ない。新村橋が来月から5年かけて架け替えられます
その迂回路ができていました、

(クマよけ鈴。登山道の傍に2か所設置してありました。これだけ大勢の人が通っても現れるのですかね。鳴らして通行しましたました。

16:50横尾山荘着。広場のトイレ棟が1棟新設され2棟に増えていました。横尾山荘は今まで行った山小屋の中でも一番立派でした。室内もきれいです。部屋は2段式ベットで8人収容(2人分は空いていました)、お風呂も広くて快適でした。乾燥室も乾燥機が設置され熱風が噴き出ていましたので直ぐに乾燥できそうです。

(横尾山荘、立派な山小屋です。山小屋のモデルです。かくありたいものです。)
(2段式ベットですが比較的広く快適でした。)
夕食の時大声でおしゃべりするグループがおられましたので黙食をお願いしました。万一感染すれば大変なことになります。これが感染の一番の原因ですからお互い厳守したいものです。
翌日のお昼の弁当(1500円)を注文したところパンや飲み物等が山ほどありました。2日分でもよいですね。

第2日目 横尾山荘から穂高岳山荘
出掛け少し雨が降っていましたので雨具を着用。
槍ヶ岳組は今朝4時30分に出られた。今どのあたりでしょうか。
2つの団体さんは上高地に向かって出発されました。
我我も気合を入れいざ出発。
30分余り平坦な登山道を行くとのぼりが始まる。
9年前に登った屏風岩は雲に覆われ裾が少しだけ見える。
本谷橋で休憩。いよいよ急登が始まる。幸い雨がやんでくれたので一歩ずつ慎重に登る。
出発から4時間、ようやく涸沢ヒュッテに到着。風もあり雨と汗で濡れたれたシャツで体が冷えるので着替えすっきりする。稜線は雲に覆われ見えない。はるかにつづく谷の深さに怖い気がする。
食事をとり涸沢小屋経由でまずはザイデングラードを目指す。

(涸沢のキャンプ場。淋しいですね。)
登山道が明瞭でなく岩だらけの不安定な道をペンキの丸印を頼りに登る。やっとのことでザイデングラードのとりつきに到着一安心不安定な岩だらけの道より岩稜を登るほうが楽である。
ストックを仕舞い後は両手で岩をつかみ上るのみ。前穂高岳の北尾根の美しい岩稜がひときわ鮮やかに見える。最後に会員4人で登ったのは何年前か。渋滞で苦労したね。

(ザイデングラード・恐竜の背といわれます。ごつごつとした岩稜地帯です。ここまで来れば稜線は近い。頑張りましょう。)
14時50分。やっとのことで山荘に到着。早速抹茶を点てる。荷物になるしどうしようかと悩みましたが参加者にこの味を楽しんでいただければ持ってきた。喜んでいただき苦労も吹っ飛びました。
いつもながら、この一服最高です。

(小屋に到着。お疲れ様です。先ず一献どうぞ。疲れが癒されます。)
穂高岳山荘は今日が再開初日。部屋は「白馬岳」
 
(平の方は木製の間仕切り、上が開けているだけ楽です。)

(かっての2段のところは上下段ともこのようなフイルムで仕切られていました。)
以前は大部屋でしたが今は20区画くらいに間仕切りで仕切られています。ちょっと狭い感じ。インナーシーツは化繊のフイルムシートを使用しました。
とにかく天気が良くて360度の展望が楽しめました。これ以上の喜びはありません。
時間もたっぷりありゆっくりできました。
あすの出立もすぐにできるようパッキングして準備しました。
あすの行動予定、前穂高岳に登れば上高地発のバス最終時間ギリギリになります。
鎖場や梯子段の通過で渋滞も考えられ、下りの様子が未知数であるため前穂高岳の往復に要する時間、1時間30分を短縮するため登らないことにしました。
安全は余裕のある行動から生まれる。急坂で焦った行動は危険ですから。

(山荘のテラスからご来光を写す。)
第3日目 穂高山荘から奥穂高岳・岳沢・上高地そして松本駅前のホテル(アルピコプラザホテル)
今日も良い天気だ、テラスからご来光を拝す。今日も無事な1日でありますように・・・

(穂高岳山荘のすぐ横の2連梯子を上り厳しいガラ場をよじ登る、真下に山荘が見えます。怖いね。落ちたら大変。)
山荘で朝食をとり6時出発。直ぐに垂直の断崖に架けられた2連梯子を登る。鉄が冷え切って冷たい。慎重に鎖を握り、ペンキの目印の付けられた岩場を登る.風が冷たい目出帽が欲しいくらいだ。

(穂高岳山頂・方位盤の前で撮影。バックにジャンダルムが写っています。)
瓦礫だらけの道を登ること1時間眼前に二つの丸いピークが現れた。奥穂高岳山頂だ。
ここから見えるすべての山々はかって登った懐かしい峰々だ。前穂高岳。常念岳、霞沢岳、明神岳は3年前に縦走した。笠ヶ岳、錫杖岳、はるか彼方に白山等思い出は尽きない。槍ヶ岳を写真の取ろうと思えば雲がかかる。
ジャンダルムがそびえ立ちふさがっている。絶景を写真にとり前穂高岳を目指す。吊尾根の言葉の通り3190⒨の奥穂高岳と3090⒨の前穂高岳を結ぶ⁰直線距離1,4キロ余りの緩くロープをかけたような稜線です。
8分余りで南鐐の頭。この先の岩場が我会員の藤石典万氏が2014年8月、滑落遭難したと思われる場所だ。線香を焚き、般若心経を唱え追悼す。

(吊尾根を行く。遭難現場付近は岩場、鎖場、ガラ場があり安全なルートを選んでゆきます。)
この付近は登山道が入り乱れかなりの距離緊張が強いられる場所だ。岩場、ガラ場、鎖場もあります。ルートの選択に注意を要する所です。
いくつもの尾根を乗り越え緊張を強いられる。一番東端の尾根が重太郎新道だ。
紀美子さんとは穂高岳山荘の創始者であり、この登山道を開拓した今田重太郎さんの娘さんのお名前です。ここで娘さんを遊ばせながら登山道の工事に従事したとのこと。本当にありがとうございます。
ここから岳沢を見ればトリコニー(三本槍)が見れる。この急斜面を登ったのは7年前だ。本当にこの急峻な尾根を稜線まで上がったとは自分ながら驚かされる。私も昔は元気でした。
ここまで予定通りきたけれども前穂高岳を往復すればあと1時間30分要す。早く下山した方余裕があって安全、休憩後下山する。

(梯子を下る。1歩1歩確実に下ります。)
岳沢小屋まで標高差約750m、鎖場、岩場、長大なはしごが連続する厳しい急坂です。1歩、1歩確実に確認し下る。ようやく岩場が過ぎ草場になり岳沢小屋が見えてもなかなか距離が短縮できません。どーと疲れが出ます。

(岳沢からトリコニー〈三本槍)を見る。初登攀が日本近代登山の父といわれるウエストンと山岳案内人、上条嘉門次というクラッシックルートです。。7年前私も登りました。まだ元気でしたね。)
12時40分岳沢小屋に到着。あとは危険なところはない下るだけだ。風穴を見物。15時40分上高地バスセンターに到着。予定より2時間早く前倒しできました。お陰で楽に歩けました。無事に帰つてきました。お疲れ様です。本当によく頑張りました。
18時過ぎには松本駅前のホテルに帰りました。駅前の居酒屋でビールで祝杯を挙げ、馬刺しやお刺身等ご馳走をたらふく食べました。

第4日目 松本市周辺観光広島に帰る。
通常は登山が終わればすぐに帰宅するのが常で山の楽しみしか残らない。
槍・穂高岳登山の楽しみは,山岳と上高地(あえて神河内といいたい)と麓の安曇野が一体となり、穂高岳の清浄な気が上高地の絶景を作り、梓川の清流が豊饒な安曇野の田園を潤しリンゴ畑やワサビだを育てています。
この豊かな大自然は多くの芸術家、写真家、作家、文化人をも育んでいます。
このことを理解していただくため安曇野の田園を巡りました。
3から4時間しかないので駅前でレンタカーを借り観光しました。

(今店頭で販売中のリンゴは昨年のもの、今年のリンゴはこのリンゴが最初です。まだ数量が少なく店頭に出荷予定のリンゴを回していただきました。新鮮でおいしい。
一番のおすすめは安曇野のリンゴ園。私がお取り寄せしている中村農園に行きました。安曇野のリンゴは無袋のリンゴです。
初めて安曇野に来た時,老農夫がまんべんなく色づけるため一個づづリンゴを回して色づくようにしていたお話を聞き感激し安曇野のフアンになりました。この精神が安曇野のリンゴです。
この時期の夏リンゴ、千秋とシナノレッドを掛け合わせた新種の「シナノリップ」を試食させていただき、重たいけれどお土産に持ち帰りました。

(ロダンに師事。芸術家の人生は劇的な人生のようです。だから短命なのでしょうか。)
次はツタの葉に覆われレンガ造りの教会風の建物が印象的な「碌山美術館」を見学。
高村光太郎と共に日本を代表する彫刻家、萩原守衛(碌山)の作品と資料が公開されています。
32歳の若さで亡くなりましたがその直前に作られた「女」という女性の裸像は日本近代彫刻の最高傑作といわれ、素人の私でもその見事さに感動しました。

(安曇野とくれば清流ですね。穂高岳の雪が解けて流れ下ったものと思えば何かしら愛おしくなります。)
近くの穂高神社に立ち寄り、日本一のワサビ園で有名な」大王ワサビ農園」に行く。広大なわさび畑と清流にある水車小屋のうつくしく安曇野らしい風景を堪能しました。
以前きたときはゴムボートでラフティングを楽しみましたが今日は中止となっていました。
他にも山岳写真家の田渕行雄記念館。,文明開化時代の洋風の校舎で国宝にもなっている旧開智学校、天守が国宝の名城、松本城を予定していましたが帰りの汽車の時間も迫っており途中で切り上げました。
他にも多くの見どころがありますからまたいつかゆっくりとお越しください。
参加者の実力を120%発揮し、楽しく記念となる山行でした。

最後に一言
この山行の目的は自立した山行を行ってほしい。
日本の通常の登山ルートは安全施設が完備してあり危険なところはありません。
今回のように、しっかり歩き、体を鍛え、細心の注意を払えばどこでも通行できます。
登山の楽しみは計画して、実行することにあります。
旅行会社のプランに乗ることは楽しみを半分奪われているようなものです。
自分で考え不安があればその解決方法を勉強する。
登山の楽しみがより深くなります。
自立して山を思い切り楽しみましょう。
福原さんにあの時奥穂高岳に連れて行ってもらったおかげで自立して山を楽しめるようになったといわれればこれにすぎる喜びはありません。
お役に立てて良かった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「岩谷観音参拝道」整備完了す。

2022-08-24 21:46:09 | 日常

(最後の工事個所,木の根っこの露出した登山道に段木を2本設置、段差解消と木の根を保護しました。手前に土嚢を置き、段差をなくし、歩き易くしました。)

(その上部に排水溝を設け、雨水が登山道を流れるのを防止しました。)

(工事前の状況、木の根根が露出していました。)
令和4年8月21日
長年にわたり整備してきました「岩谷観音参拝道」今日最後の500⒨地点に残された木の根っこの登山道に段木2本を設置し一応の登山道整備工事は完了しました。
楽に登れるように段差を20㎝以内に抑えました。それ以上のところは角材の段木を設置したり、土嚢を置いて段差を解消するとともにクッションの役目も果たし膝の負担をなくすように工夫して工事しました。
今月27日から30日には奥穂高岳・前穂高岳・岳沢を縦走します。その前のこの登山道整備を完了してすっきりとした気持で登山したかったのでこの週末は頑張って工事しました。
最近は途中の登山道の工事が中心で久しぶりに頂上まで登り、段木が効果を発揮し登山道が維持されていることも確認しました。
設置状況を確認すると角材の段木が347本、土嚢が216袋、丸太設置が61本、「塵も積もればなんとやら」、1日3本程度しか工事できませんでしたが毎回続けていればこの数字、本当によくやりました。
ほかにも頂上部分のはしごやベンチも3か所、観音様の前に安心して参拝できるようステージを設置。岩場には安全ロープを設置。 「昔は展望がよかった。」という登山者の要望に応えるため頂上付近の景観を遮る立木を伐採し広島市街地の展望をよくしました。
登山道を維持するには雨水が登山道を流れないようにすることが大事です。水分峡の登山口から観音様の立つ頂上までの登山道の全長1350mに長さに対し13か所の排水溝を設置しました。これが登山道の維持に効果を発揮しました。観音様にも喜んでいただき多くの恵みを頂きました。また歩き易いと登山者にも好評。広島で一番歩き易い登山道であると自負しています。これなら、広島市内の夜景を楽しむナイトハイキングも安全に行えるのではないでしょうか。今後とも登山道の維持管理に努め登山者のお役に立ちたいと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

圧巻、マキノ高原のメタセコイア街路樹。

2022-08-14 12:15:18 | 日常

(道幅8mの県道の両側にズラート2,4キロ、約5m間隔に500本植えられています、更に立派な樹木となるべく成長し続けています)
令和4年8月13日
仕事で遠出したときの楽しみは帰りに山に登ったり、温泉に入浴したり、美しい風景を見ることです。
今日は岐阜県の各務原市に行ったついでに帰りに琵琶湖の北方高島市にあるメタセコイアの並木道を見物に行きました。
ここは日本の美しい風景としてカレンダーなどにも取り上げられています。
春の新緑、夏の深い緑、冬は落葉、箒のように白く凍った輝く樹枝、特に紅葉などで茶色に染まった景色は本当にこんな風景があったのかと驚かされます。
秋には上高地で見たカラマツの紅葉のように黄金の輝きを見せるのでしょうね。是非見たいね・・・
場所は滋賀県高島市マキノ町牧野。ナビでは「マキノピックランド」で検索すれば行けます。琵琶湖の北西部、鯖街道の小浜から山越えして琵琶湖にきたあたり、マキノ高原の入り口にあります。
発端は1981年、学童農園『マキノ土に学ぶ里」の整備事業の一環としてマキノ町果樹生産組合がマキノ高原の入り口、県道小荒路牧野沢線沿いにメタセコイアを植えたのが始まりです。
いまでは延長され、その長さも約2400m、約500本の壮大な並木道になりました。
この風景に人々が魅了され多くの人が訪れています。広い無料駐車場、トイレ、売店やレストランも整備されています
延々と続く緑のトンネルを走る爽快感、感動モノです。これだけの規模の並木道は日本一ではないでしょうか。
植えられて40年余り、現在、幹回り約3⒨、樹高は約15⒨くらい。将来的には35⒨位の巨木には成長するといいますからこれからますます立派な大木に成長してゆくことでしょう。
メタセコイアは中国原産。スギ科メタセコイア属の落葉高木、和名はアケボノスギ。最大樹高が115mにもおよぶといわれるセコイアにその姿が似ていることからメタ(変形した)セコイアと名付けられました。
1994年、読売新聞社「新、日本の街路樹百景」に選ばれ注目を集めました。

(横から眺めた風景です。この樹木、まだ若いですが倍以上に成長したらいったいどのような景色となるのでしょうか。楽しみです。また来てみたいですね。)
このように素晴らしいものを残された先達たちは先見の明があったのですね。スキー場はともかく周囲にはブドウ園などの観光農園や温泉、キャンプ場等集客施設がたくさんあります。
マキノ高原スキー場という名前もありましたがゲレンデのような草原のキャンプ場には多くのテントが張られていました。私も温泉施設「さらさ」に入浴して帰りました。
当日はお盆休暇中もあり多くの観光客が来ておられました。
この街路樹、2,4キロ、500本、この規模の立派さ故このように多くの人が見物に来てくれるのです。
吉野山の桜も有名ですがこれも多くの人に植えていただき今があります。
わたしも熊ヶ峰の登山道整備を行い、椿を植えています、まだ20本余りですが100本を第一目標に。いつの日か多くの人に楽しんでいただけるようになれば幸いと思います。

(地図中央上部,高島市,マキノの表示のあたりです。琵琶湖の北部になります。)
行の往路は高速道路で7時間、帰りは下道で15時間、愛しい風景・ものに会うには辛抱が必要です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島郵便局原爆殉職者慰霊祭と異常な出来事

2022-08-07 23:12:00 | 日常


(会場で中国新聞の取材を受ける。)
令和4年8月6日
私の父が殉職した広島郵便局の慰霊祭も今年で77回になります。
かっては母も参列していましたが黒瀬に住みだしてからは長女と孫の3人で参加しています。
出席されたご遺族の方は15名、288名の方がお亡くなりになりましたが高齢化のためか年々参加者が減少しています。家族を含め40名あまりでしょうか。一般の被爆者団体でしたら高齢化による人員減少で維持できなるのですが主催者が郵便局職員の慰霊ということで継続が維持されています。郵便局の方が多いのも当然の成り行きです。
この日はいつもは灼熱の熱い日なのですが今年は珍しく曇りで風もありいささか涼しい感じです。
一番最初に行きました。中国新聞のインタビューをうけました。
式典は8時15分、市内に鳴り響くサイレンや鐘の音と共に黙祷して始まります。
読経と主催者の挨拶だけですからすぐに20分余りで終了します。
最後に祭壇に飾られてお花を頂いて帰り、墓所や家の仏壇にお供えします。昔は大勢の参列者で争奪戦でしたが今はいたって少人数ですから余裕をもって持ち帰りました。
新型コロナ感染者数も広島県では4456人の最多を更新、ウクライナ侵略、台湾周辺でも緊張が高まり核戦争の危機も感じられ不安な心境です。
いまこそ平和時代の到来が求められます。

後で平和公園の近くにある母校、舟入の前身である広島市高等女学校の慰霊碑にも参拝に行きました。
市内の学生の中では最多の676名(教師10名含む)の犠牲者を出しました。その最多の犠牲者を出した原因が生徒を学徒隊に組織し本隊長が宮川造六校長就任、小、中隊長が教諭と組織化、生徒たちを総動員して一番軍部に協力的であったからなのです。その付けが生徒の犠牲となりました。新興の女学校故軍部に協力せざるをを得なかったのでしょう。生徒たちを守ることが何故できなかったのか悔やまれます。
事実、1569名もの生徒を建物疎開や軍需工場に派遣しています。
一方では、最近の新聞報道によれば、軍部に非協力的で農村の食糧増産に協力するためとして生徒を農村に疎開させて生徒の安全を守った国立伝統校や当日、天候からし本日の作業は空襲の危険があるとして生徒を学校待機として出動させず命を守つた地元の有力私立校長もおられました。どちらも生徒の命を守るため軍の意向に従わなかった。命に勝るものはない。戦争協力か生徒の命か、価値判断の別れるところです。複雑な心境で慰霊しました。安らかにお眠りください.

(川岸に飢えられたキョウチクトウ元気がありません。ほとんど咲いていません。どうしたことでしょうか。)
もうひとつ、8月の広島の花と言えばキョウチクトウ。70年間は草木も生えないといわれた荒廃した広島にいち早く咲き市民の希望を灯したのが真っ赤なキョウチクトウの花でした。
河土手にたくさん生えていましたが今年はチラホラであまり咲いていません。それに反し今年は百日紅の花の鮮やかさが気になりました。これも異常気象のゆえでしょうか。
これに関連していえば、午後から山形県産のスイカの搬入作業がありました。10トン車満杯、700箱余り、2時間30分も要しました。
これに続き、8月9日、12日に同様の作業が予定が予定されていましたがキャンセルとなりました。水害の為出荷不能のためのようです。スイカが収穫できないのです。
リンゴ園が水没した映像もありました、リンゴも売れないのです。東北地方は夏なのに梅雨が終わらず数倍もの雨量で洪水が発生。お気の毒しか言いようがありません。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

針ノ木大雪渓を登る。

2022-07-31 10:04:11 | 日常

(針ノ木雪渓を望む。雪の多い時はこの辺りから始まるのでしょうが、今年は雪が少なく、画面中央の上のあたりが末端でした)
令和4年7月24日から27日
今回は白馬、劒岳とともに日本三大雪渓の一つに数えられる針ノ木大雪渓に行きました。
コースは大町市・扇沢を起点に針ノ木大雪渓・・針ノ木峠・・針ノ木岳(2821m)・・針ノ木小屋・・蓮華岳(2799m)・・船窪小屋・・七倉山荘に下る3泊4日の行程です。
今まで若い時には夜行で着て朝出発していたから1日短縮出来ました。年を経れば現地到着に1日要しますからこのような日程になりました。

(天気予報では雨の予報でしたが幸運にも外れて、最終日の七倉尾根の下りに少し降っただけした。何故ですかね。)
天気予報では初日晴れ、2日目は降水確率80%、以降2日は降水確率100%。天気図から判断しても仕方ないと考えていました。
しかし、実際に雨になったのは最終日だけでした。
現地では携帯電話が通じずその好天の原因は不明でしたが観音様の思し召しと感じています。
その為か、3日間で3回雷鳥を見ることができました。
雪渓とお花畑、白色のコマクサ、展望のすばらしさ、コーヒータイム、ゆとりある山行の楽しさを満喫した山行でした。

第1日目
午前5時 福山発、車両の回送を依頼し14:20扇沢発、15:50、大沢小屋泊

(扇沢の登山口の案内板です。)
針ノ木小屋と同じ経営者の2階建ての小さな小屋 2階に3室のみ、他に宿泊者は1名のみ。このような小規模な小屋では儲けにはならないでしょうが高齢者にとってはありがたい小屋です。

第2日目
午前5:30 大沢小屋発 雪渓取付き6:45・7:55雪渓終了・・9:30針ノ木峠(2536m)着・・針ノ木岳(2821m)・・針ノ木小屋泊

(待望の雪渓い歩きが始まりました。雪質も適当な硬さで快調に歩けました。本来なら上部の急斜面を登ることになったのでしょうが今回はその手前で終了したようです。この先、時間がたてば雪渓も消えて夏道の迂回路を歩けなければならないようです。幸運でした)
お花畑を見物しながら登る。地図では雪渓取付き地点1752⒨となっていたが実際雪渓が現れたのは1856m地点、終了点は2240mでした。距離は約1100⒨位です。
我々は6本と10本のアイゼンでしたから快適に登れましたが6月の記録では凍結してスリップ、転落者が続出、引き返したとの記載もありましたからこの上方の急斜面まで雪渓があったのでしょう。
パトロールの方が夏道の準備のためかピンクテープを設置しておられました。
この上の2270⒨地点に最終水場がありました。

(雪渓の最上部付近で雪渓をトラバースするところがありました。安全を期してか深く掘り下げられていました。雪質は氷結しており、この急斜面でこの硬さ,ピッケルがなければスリップしたらとまりません。雪渓の危険さの一端がわかります)

(針ノ木小屋。よくこの狭い鞍部に建てられたものです。南北方向とも最高の展望できる位置にあります。人手不足のためなかなか開業するかどうか決まりませんでした。)
急斜面にジクザクにつけられた登山道を登ると針ノ木峠、そこに小屋が建てられています。
まだ9時30分です。小屋に針ノ木岳往復2時間と記してありました。身軽で行くため小さなザックを持参すべきでした。

(お花畑と雷鳥。多くの花々と3日間毎日雷鳥に出会えました。画面中央の岩の上におります。将に保護色なのです。)

(針ノ木岳を望む。近くから見ると丸い山に見えますが遠方から見ると文字通り針のごとく尖って見えます。見る角度によるものです。)
登山道の足場がよくありませんがともかくお花を見物、雷鳥のお出迎えもありすばらしい展望を楽しみました。

(針ノ木小屋から南方を望む。左が北葛岳、右の三角形が船窪岳、その中央の丸い山が唐沢岳、遠方遥か右から槍ヶ岳,穂高岳、前穂高岳、大天井岳が望めます。)
小屋に帰り、このような思い出の山々を眺めながら香り高いコーヒーを飲むのはまさに至福の時です。
かって1584年、戦国武将の富山城主,佐々成政氏が浜松の徳川家康に面会するため、厳冬期にサラサラ越えの折、この針ノ木峠を越えたとのいわれがありますがこの目の前の深い渓谷を越えたはとてもも信じ固いことで何という意志の強さか感無量です。
今は人手不足で登山道整備まではとても手が回らないと聞いていましたがご年配の方が整備用具を背負い準備をされていました。公的な財政的な支援もすくなく大変苦労していることをお聞きしました。
ここまでの登山道整備でも石の組替え等の整備ヶ所はありましたが材木を使用しての本格的な整備は行われていません。資材がないのです。資材がなければ安全な整備はできません。私も地元で登山道整備をしておりお手伝いしたい心境でした。ご苦労が理解できるので、感謝の意を込め、お礼に1万円を小屋に寄付しました。

(針ノ木小屋の夕食。ビールを飲んだので最後になり、いそいで食べたので味わう暇もなくどこにはいったのかよくわかりません。)
小屋に入る時からマスク着用を強く言われました。夕食時は無言で、ビールを飲んでもおしゃべり禁止、早々に済ませ退室することを言われました。お客に対し何をそこまで言わなくてもと思いました。
後で涸沢ヒュッテ、燕山荘、唐松岳頂上山荘等多くの小屋でコロナ感染が発生したことを知りました。定員を半減し、感染防止策を施しても 発生すれば一巻の終わり。経営の危機です、厳しくしなければなりませんね。
納得です。

第3日目
針ノ木小屋6:30・・蓮華岳(2799m)・・北葛岳(2551m)・・七倉岳(2508m)・・14:40 船窪小屋泊
夜半 夜空を見上げると素晴らしい満天の星空でした。

(蓮華岳頂上付近の広大な砂礫の原。この砂礫にコマクサが生えています。すごい生命力ですね。)
急坂を上り広い砂礫の原一帯にはコマクサがいっぱい生えていました。かってみた燕岳では砂礫の細かい砂地でしたが、こちらでは人の拳よりも大きな岩礫の原から生えているのです。ここまで大きくなるには数年は要したであろうに先ずそのたくましさに感動しました。

(斜面をピンクに染めるコマクサ群生。このような光景は初めてです)
所によっては斜面がピンクになるほど無数に生えています。貴重なコマクサがこれほど生息していようとは本当に感動しました。日本一ではないでしょうか。
更に下りはコマクサが生えている砂礫の中に登山道が付けられています。当然道端の砂礫は段差があり崩れます。それにつれてコマクサも道端に流されます。砂礫で流されないように周囲を岩で包み込みましただどうにもなりません。そのところになんと大株の白色のコマクサが生えていました。

(この無限、無尽蔵のコマクサ群の中から、ただ1本の白色のコマクサを探し当てるなんて・・・信じられません。奇跡ですね。思いは通じる。)
この広大な砂礫原の中、沢山のコマクサの中、このようなところで一株の白色のコマクサに出会えるなんて何たる僥倖でしょうか。よくぞ現れてくれたものだ。これこそ観音様のお恵みに他ならないと感じました。
貴重なコマクサを守るためには登山道を移動するか、砂礫の移動、流失を防止するため段木を設置する必要があります。

(最後の岩場を北葛岳の登り口からのぞむ。上からでは下るルートがよく見えない。初めは真ん中のがれ場を下り、断崖の上に至り、行きづまり、左側の斜面に鎖場がありました。下からではよく径路がわかります。)
核心部の「蓮華の大下り」は「北葛乗越」まで524m下ります。後半の岩場の下りが要注意です。径路はかっての登山道整備に使用された古い段木に従えばよい。最後の岩場の下降では上からでは下山ルートがわかりにくい。まっすぐ下り、崖の上で浮き止まり。右側に鎖場がありました。
次の北葛岳を乗り越えてホットしたのも一瞬。目の前に急峻で高くそびえる七倉岳が現れました。威圧するような迫力があります。高度感があり、左斜面は深くけずられ切り落ちています。その稜線上に登山道があります、崩れたり踏み外して、万一落ちれば命はないでしょう。
やっとのことで乗り越えたときには本当に安堵しました。小屋はもうすぐです。

(船窪小屋。丘を下ると霧の中から突如として目の前に現れました。万国旗が懐かしい。鐘をならせば遠くでもわかります。無事到着です。)
緑の霧の中から突然に表れたのが船窪小屋。早速温かい茶を頂きました。
針ノ木雪渓であったパトロールの方に「蓮華の大下り」が核心部ですかと尋ねたとき「全部が核心部です」と言われた意味が理解できました。厳しいコースでした。

(船窪小屋のいろり。店主の人柄同様あったかいです)

(船窪小屋の夕食、ごはんもお汁もお代わりできます。)
囲炉裏のある温かい小屋です。心のこもった料理はいつも通りです。
2人用を一人で使用できるのでゆったりできました。
ただ水がなく、今まではチベットから来たアルバイトの方が遠方の谷からの水汲みや登山道の整備をしておられたのですが今年も来日ゼロ。天水を煮沸して使用しているとのことでお水は貴重品です。
その為、飲用や体をふいたり歯磨き用にも水を購入しなければなりません。
2㍑ 800円でした。

第4日目
船窪小屋 5:50発 11:30 七倉山荘着
夜中、時折、雷鳴が光る。
明け方から雨になりました。雨支度をして外に出る。ご夫妻と記念写真を撮り再会を約して出立。
いつもの通り鐘を鳴らして見送っていただきました。
小雨の中、ながい尾根道を下る。標高差約1400⒨。多くの梯子や滑り易い岩や木の根に注意して下る。階段の横木が半丸ですから特に下りは滑りやすい。岩場や木の根が張り込みまともに歩けるところがない感じです。一足ごとに滑らないよう注意して足を置いてもそれでも3回あまりスリップした。
今まで登ったことがありましたがこんなに下りで苦労するとは思いませんでした。悪路でした。

(長い、ながい下り道。この標識に勇気づけられました)
道中につけられた行程距離標識に勇気づけられました。
七倉山荘の温泉気持よかった。いいお湯でした。ゆっくりと裸で寝ころび森林浴で身を癒やしたい心境でした。最高でした。
高齢者登山、今回はゆったりとした行程で登山を楽しめました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする