平成27年4月28日
今日仕事で近江八幡市に行った帰り念願であった古代の都、大津京跡を訪ねました。
その場所は琵琶湖西湖畔の大津市錦織町付近、近江神宮の南方で、京阪電鉄の近江神宮駅の西側にあたります。今は多くの住宅が立ち並んで宮殿らしき物は何もありません。長い間大津京はどこにあったか諸説入り乱れ不明でしたが昭和49年、発掘調査により内裏南門や回廊と思われる柱穴が見つかり錦織が宮の在った場所と特定されました。
大津京は西暦667年天智天皇が百済の要請に応じて朝鮮に出兵し新羅・唐の連合軍と戦ったが白村江の戦いで大敗した。その勢いに応じて唐や新羅が攻めてくるのではと恐れ突然都を飛鳥から守備しやすい近江の大津に遷都した。しかしわずか5年で天智天皇はなくなり後継者の大友皇子と天皇の弟である大海人皇子が後継者争いを演じた古代史上最大の戦「壬申の乱」が勃発、近江方は敗れ、天下をとった大海人皇子(のちの天武天皇)は再び飛鳥に遷都された。大津京はその間、わずか5年で廃墟となり滅んだ都、懐かしい都のイメージが定着された。大津京は激動の歴史の象徴でドラマチックであるが私が一番惹かれるのは大津京を詠んだ次の歌である。
「さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山桜かな」
作者は平家方の武将、平 忠度、通称 薩摩守 忠度である。
この歌は平家物語の「忠度都落のこと」の名場面に登場する。
私はこの文章を何十回と読み込み、ほとんど諳んじることが出来るくらい読み込み、気に入ったところだからです。
古代人の故郷、大津京といえば多くの詩人が歌に詠んでいますが、私には忠度のこの歌が第一番に連想されます。
物語は平家一門が戦いに敗れ都から落ちのびるその時、平忠度(ただのり)はただ一人ひきかえして、和歌の師匠である藤原俊成の館に立ち返り、「千載集が編纂されるときには私の歌も載せてほしい。と歌集をことずけて都落ちする場面が語られ、最後は次のように記されています。
「そののち世静まって千載集をせんぜられけるに,忠度のありし有様、いひ置きし言の葉、今更思い出でてあわれなりけり。くだんの巻物の中に、さりぬべき歌幾らもありけれども、その身勅勘の人なれば、名字をば顕されず、故郷の花と云う題にて詠まれたりける歌一首ぞ、読人と知らずと入れられたる、
さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな
その身朝敵となりぬる上は、子細に及ばずと云いながら、恨めしかりし事どもなり」
お互いに名乗り合って戦う時代とはいえ平家物語に記載され、このことは広く知られているのこれほど有名な「読人しらず」という人は他にはいないでしょう。
おおらかなよき時代でした。
蛇足ながら「さつまのかみ」とは現在では無賃乗車の隠語となっています。
何故でしょう。「さつまの守」の名前は「忠度(ただのり)」だからです。
お分かりですか・・・
今日仕事で近江八幡市に行った帰り念願であった古代の都、大津京跡を訪ねました。
その場所は琵琶湖西湖畔の大津市錦織町付近、近江神宮の南方で、京阪電鉄の近江神宮駅の西側にあたります。今は多くの住宅が立ち並んで宮殿らしき物は何もありません。長い間大津京はどこにあったか諸説入り乱れ不明でしたが昭和49年、発掘調査により内裏南門や回廊と思われる柱穴が見つかり錦織が宮の在った場所と特定されました。
大津京は西暦667年天智天皇が百済の要請に応じて朝鮮に出兵し新羅・唐の連合軍と戦ったが白村江の戦いで大敗した。その勢いに応じて唐や新羅が攻めてくるのではと恐れ突然都を飛鳥から守備しやすい近江の大津に遷都した。しかしわずか5年で天智天皇はなくなり後継者の大友皇子と天皇の弟である大海人皇子が後継者争いを演じた古代史上最大の戦「壬申の乱」が勃発、近江方は敗れ、天下をとった大海人皇子(のちの天武天皇)は再び飛鳥に遷都された。大津京はその間、わずか5年で廃墟となり滅んだ都、懐かしい都のイメージが定着された。大津京は激動の歴史の象徴でドラマチックであるが私が一番惹かれるのは大津京を詠んだ次の歌である。
「さざ波や志賀の都はあれにしを むかしながらの山桜かな」
作者は平家方の武将、平 忠度、通称 薩摩守 忠度である。
この歌は平家物語の「忠度都落のこと」の名場面に登場する。
私はこの文章を何十回と読み込み、ほとんど諳んじることが出来るくらい読み込み、気に入ったところだからです。
古代人の故郷、大津京といえば多くの詩人が歌に詠んでいますが、私には忠度のこの歌が第一番に連想されます。
物語は平家一門が戦いに敗れ都から落ちのびるその時、平忠度(ただのり)はただ一人ひきかえして、和歌の師匠である藤原俊成の館に立ち返り、「千載集が編纂されるときには私の歌も載せてほしい。と歌集をことずけて都落ちする場面が語られ、最後は次のように記されています。
「そののち世静まって千載集をせんぜられけるに,忠度のありし有様、いひ置きし言の葉、今更思い出でてあわれなりけり。くだんの巻物の中に、さりぬべき歌幾らもありけれども、その身勅勘の人なれば、名字をば顕されず、故郷の花と云う題にて詠まれたりける歌一首ぞ、読人と知らずと入れられたる、
さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな
その身朝敵となりぬる上は、子細に及ばずと云いながら、恨めしかりし事どもなり」
お互いに名乗り合って戦う時代とはいえ平家物語に記載され、このことは広く知られているのこれほど有名な「読人しらず」という人は他にはいないでしょう。
おおらかなよき時代でした。
蛇足ながら「さつまのかみ」とは現在では無賃乗車の隠語となっています。
何故でしょう。「さつまの守」の名前は「忠度(ただのり)」だからです。
お分かりですか・・・