まほろば日記

fujioの日常の出来事、記録等を思いつくままに書いた日記です

岩谷観音様 御礼登山

2022-09-29 16:58:18 | 日常

令和4年9月29日
先般奥穂高岳登山で幸運をもたらしていただいた御礼にと福山から仲間3人が来てくれ,観音様へのお礼登山をしました。
私の登山道整備状況を説明し観音様にお花を手向け、観音経の冒頭の一節を読んでご縁を結んでいただきました。
明日は前穂高岳の奥又白池山行を予定し、多忙なため呉娑々宇山の山頂手前のバクチ岩で昼食をとり下山しました。6時間、10キロの行程でした。
最近観音様の周辺が見やすい案内板が設置されたり、登山道も掃き清められ大変綺麗になりました。それを実施されている方にはじめてお目にかかりました。
遊川真二さんとおっしゃるからです。良い仲間を得てうれしくなりました。

(このような大岩が崩れるなんて信じられません。万一落下していれば他の大岩を玉突きしていわなだれになったのではないでしょうか。安定した大岩のように見えても、このような危険性がある。良い経験となりました。)
それと南側の傾いた大岩は1週間前に発生したとのこと。
このような大岩が動くなんてとてもしいじられません。
良い経験をしました。
多くの方々が観音様の恵みを享受していただけるよう祈念しました。
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母死す.103歳の大往生でした。

2022-09-25 09:09:23 | 日常

(この写真は昨年撮影されました。右手の指が2が102歳を表しています。1年前は元気でしたのにね。)
.令和4年9月19日
今日母がなくなりました。
9月6日の誕生日が山でしょうと先生から言われていました。その時は眼じからもあり、しっかりしていましたのでまだ大丈夫だろうと思っていました。
町内の病院から連絡があり姉がすぐに駆け付け何とか臨終には立ち会い、見送ることができたのは不幸中の幸いでした。
時は14時17分でした。
予定していた町内の葬儀場が確保できないため,住んでいた黒瀬の姉の家の連れて帰り自宅で葬儀をすることにしました。
今思うと、母はこの地が大好きでしたからここで葬儀を行えてよかったのではと思います。
母は美しく化粧を施され、100年ものの伝統の家紋、5・3の桐の留め袖を身にまとい実に堂々とした貫禄十分な姿で横たわっています。
実に穏やかな表情で肌艶もよく、とても103歳の老人には見えません。声をかければすぐに起きてくるのではないかと思われました。

(多くの花に囲まれ賑やかでした。皆さま、有難うございます
夜、母の傍で、姉と二人で母への思い出を語り合い、二人で初めて観音経を読経、ご冥福を祈りました。観音様も極楽浄土に導いてくださることでしょう。
式は本日17時から通夜。明日21日12時から葬儀、13時出棺、13時30分黒瀬斎場にて火葬することにしました。
当初は高齢でありごく近親者のみの家族葬にする予定でしたが、直前までよくお相手していただいた友人に黙って逝くのは母の本意ではないと思い参列してもらうことにしました。
川崎市に住む孫娘もすぐに駆け付けてくれ、30人余りの母の人柄を表すような心温まる葬儀を執り行うことができました。
母は原爆で郵政局に勤務していた夫を失い、以来、女手一つで私たち子供2人を育て、学校にも行かせてくれましたました。
よく働きました。ある時は近所の材木屋で女ながら丸太を担ぐ姿を見たことがありました。

(孫娘が母に手紙を書いてくれました。お母さん、何が書いてあったの、今度教えてくださいね。やさしい娘ですね。ありがとう。)
孫娘が母に手紙を書いて棺に入れてくれました。何を書いたのと問えば「内容は秘密」。といわれればしりたくなりますね。
母が舟入川口町の会社に勤務していたころは私は毎朝白島電停まで見送りに行き、途中の駄菓子屋でお菓子を買ってもらい、帰る頃にはまた電停まで迎えに行き帰りを待っていました。
母が大好きな子供でした。
夫の実家は瓦製造、屋根屋で兄弟一緒に生活していましたが10歳のころ、母は家を出て独立、別所帯を持ちました。
転校先の先生が親戚の人であり、これが転機で私も勉強するようになりました。
やがて母は勤務先の仲良しの同僚3人と一緒に家を建て、現在の市内南区の堀越町に移転しました。
若い時は子供たちを育てるため、晩年といっても20年余りは広島市の老人家庭奉仕員として老人介護、福祉の増進のためよく働きました。
やさしい人柄ですから「ふくちゃん、ふくちゃん」と皆に慕われていました。
10数年前、一緒に引越してきた仲間もみんななくなり、一人になったので黒瀬の姉の家に引越、お世話になることになりました。
姉はお茶やお花の教授をしていましたので多くの友人たちが訪れます。
母のその話の仲間に入れてもらい楽しく過ごしていたようです。
姉も高齢で老々介護で大変な苦労をかけましたが母の世話をすることを生き甲斐に献身的に世話をしてくれました。
傍目もうらやむような介護振りでした。
母も意外と頑固なところがあり、けんかをすることもありましたが、そこは親子ですからすぐに仲直り、母系家族が円満で、老後の人間のあるべき道だと感じました。
最後の1年間は、コロナ禍の為入院していましたが病院の先生、看護婦さんには本当に家族のような親身な介護をしていただきました。床ずれがないのがその証でした。
103歳まで在宅で過ごせたのも多くの仲間の皆さんが、歌を歌ったり、オセロゲームをしたり母を盛り立てていただいたおかげでしょう。人間関係を保っことの大切さを痛感しました。
これ以上幸せな老人はいません。これからもいないでしょう。
将に大往生、103歳を満喫しました。見事な生き様を示してくれました。

有難うございました。
極楽では多くのお仲間が出迎えてくれることでしょう。話の花が咲くことでしょう。皆様によろしきお伝えください。来世にも楽しみはあります。
お母さん、ながい間、本当にありがとうございました。
いくら感謝してもしつくしません。
本当にありがとうございました。
またね・・・


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今年も彼岸花が咲いた。

2022-09-15 14:48:34 | 日常

(夜気付いた時にはこのような様子でした。なにが生えているのかびっくりしました。)

(朝見るとこのように咲いていました。1日にこれだけ伸びるなんてすごい生命力ですね)
令和4年9月13日
夜, 車をバックさせて駐車場に入れていると左後方にニュキニョキとしたはなの茎がみえる。
「あれ・・彼岸花か、昨日までは何もなかったのに」数日前に草を抜ききれいにしていましたから。
連日の暑さにすっかり気を取られ何も考えていなかったので‥もうこのような季節になったのかとはたと気を引き付けられました。
自然は確実に季節を進めています。

人間は日々変化しづつけています。体は日々衰えてゆきます。それ故に泰然自若としたゆるぎない自然の姿にあこがれをもつのでしょうね。
そのように思うとこの可憐なヒガンバナに本当によく咲いてくれました。ありがとうと手を合わせたくなりました。
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103歳の誕生日。

2022-09-11 15:51:21 | 日常

(負けるものか。この表情ならまだ大丈夫、生きて行ける。そのように信じています。おかぁさん頑張ってください。)
令和4年9月6日
今日、母は病院のベットで103歳の誕生日を迎えました。
コロナ禍で面会が制限される中,何か月ぶりでしょうか、少しだけ面会させていただきました。
形だけケーキと花束を持参しハッピーバースデーを口ずさみお祝いしました。
母も一緒に口ずさんでくれました。会えてよかったです。
容体もよくなく今日の誕生日までが山でしょうと言われていました。
何とか先月末の奥穂高岳山行にはゆくことができました。が これか先は何があってもおかしくないといわれています。
後日聞けば、姉は病院からの連絡を待つため携帯電話を傍に置き、すぐ行けるように準備して過ごしていると聞きました。だからろくに食事もとっていないようです。
私は「母はしぶとい。見た目は穏やかだが根性があります。内臓も心臓も強い。だから簡単には逝かない。」と姉に言っていました。
9月10日、姉のことが心配になり、すぐ調理できるお肉や冷凍食品を持っていきましたら友達も同じ考えのようでで多くの食べ物が届けられ冷蔵庫が一杯になっていました。
友達とは有り難いものですね。
私は姉の大好物のイチジクをもっていきました。破顔一笑、大変喜んでくれました。
友達も同様でイチジクを持参してくれたようです。
姉は「これは私が頂いたのだから誰にもあげませんげません。」と独り占めして両手で取り囲み、喜んでいる姿は日頃の姉からは想像できないような本当に子供のような無邪気なさまで皆笑いました。
先生から余命僅かといわれても母親が生きようと頑張っているのに子供が死ぬ時を待っているようでは申し訳ないといっていました。
逝くときは神のみぞ知る。
母はしぶとい。簡単には逝かない。母の頑張りを信じて日々精一杯生きるのみです。
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奥穂高岳・前穂高岳・岳沢 縦走す。

2022-09-02 20:58:52 | 日常

(ザイデングラードの末端にて、バックは前穂高岳の北尾根です)
令和4年8月27日~30日
日頃から会の例会山行を共にしている里山組の会員から是非とも奥穂高岳に連れて行ってほしいとの要望がありました。
数人の個人山行として、奥穂高岳に登れる実力があるかどうか確認できれば連れて行くと回答。
この度の山行は実施までコロナ禍等数々の障害があり、実施することは困難で多分いけないだろうと思ったが結局行くことになり成功したのは「絶対に奥穂高岳に登りたい」という参加者の強い意思・情熱に他ならないと感じました。
今回の参加者に必要なものは一日、30キロ、10時間以上歩ける体力と厳しい稜線や岩稜地帯を安全に上り下りする技術力である。その他の必要な現地の情報は私が所持している。
体力課題は神島一周訓練(約27㌔)を2回、沼隈半島を30㌔あまり走破。岩稜歩きも天応・烏帽子岩山・アイゼン尾根で2回訓練した。直前のこの夏には白山、妙高山等の団体ツアーに参加して鍛えたとのこと。
今までにこれほど熱心に訓練した参加者はなかった。成功を確信した。
初めは奥穂高岳の往復と考えられたが実力もアップしたので、前穂高岳、吊尾根、厳しい重太郎新道を下り岳沢に至るワンランクアップしたルートの方がより思い出に残り感激も大きい思い変更した。
しかしながら、参加予定者は初めは4人でしたが,事故や病気のため2人が脱落。ついに2人のみの参加となりました。つくづく高齢者は「行ける時に行かないと明日は何が起きるかわからない。」ということを実感しました。

心無罣礙(シンムケイゲ)に徹する。不安な行動はしない。
般若心経に登場する言葉。執着に束縛されない自由自在な心と言われるが私は不安のないこと。のびのびとした自由な心境と受け止めている。
遭難、事故は人間の不安なこころや焦りから生じると考えています。心に不安がなけれな行動も理にかなった正しく、安全なものとなる。
当初は自家用車を使用して行く予定であったが運転に不安があるとの申し出があり、費用はかさむが列車利用に変更した。
足の指先が痛い。豆が出来そうだ。となれば直ちに治療する。不安な心は事故に通じるので迅速に対応,解消する。
高齢者にスピードは望めないので安全確実な行動が大切です。

集中力を養う。
道路の縁石の上を歩く訓練をする。地面上なら恐怖心がなく簡単に歩けるがこれが3m上にある縁石の上を歩くとなれば足が震えて容易に歩けない。
一歩、一歩、縁石に置く足に意識を集中し他のことは考えない。意識を集中して3m上に存在することは考えなければ容易に歩ける。
現在の一歩、一挙手、一投足に意識を集中すれば、危険な場所も安全、確実に通過することができる。
目の前に,現在あるこのひと手に意識を集中して、手の置く位置、足の置く位置、手順を考え、困難を克服する。
これができるようになれば転倒やスリップはなくなる。
アイゼン尾根で訓練の時、2回目の時には誰一人スリップする者がいなかったのでこの技が身に付いたことを確信した。

コロナ感染について。
初めは26日徳沢園、27日穂高岳山荘に宿泊予約でした。
しかし、穂高岳山荘の従業員がコロナ感染の為 8月21日から27日まで閉鎖となりました。
その為、計画実現のため1日ずらし28日穂高岳山荘宿泊に変更したが前日の27日に泊まる宿が明神、徳沢,横尾とも満杯で宿泊出来ない。
上高地から穂高岳山荘まで休憩時間を入れて約12から15時間、標高差約1500m。現在の我々の実力では無理かも・・中止も頭をよぎった。
横尾山荘も満杯で断られたが定員数が一番多く「キャンセルされることもあり、毎日宿泊状況を確認していてください。」との言葉に期待して毎日チェック。22日に△しるしに変わった時点で直ちに申込し、やっと宿が確保できました。これで念願の奥穂高岳に行けると安堵しました。


天候について
直前の天気予報では期間中4日間,全べて雨天の最悪の天気予報。景色、展望は望めず、ただ奥穂高岳に登ったという記録だけが残るのみと思いました。それでも行くとの方針で雨対策に万全を期す。
実際の天候は初日の27日午後、予報通り、上高地から横尾間、少しだけ小雨が降りました。次の28日,横尾から涸沢間、これも少し降りました。それ以外はすべて晴れ、それも快晴でした。すばらしい展望・絶景に皆さん大満足でした。
宿の確保といい、この天候といい、観音様のご恩恵以外にあり得ません。心より感謝しました。

第1日目 広島から横尾山荘
広島駅始発のぞみ90号6:26発乗車、福山駅で仲間と合流、名古屋駅で特急信濃5号に乗替え11:05松本駅着、電車、バスを乗り継ぎ13:20上高地着。出発時間は違うが車両利用と変わらない時間でした。

(新村橋が来月から5年余りかけて架け替えられます。)
登山届を出し、小雨降る中雨具を着用。横尾山荘に上高地到着の連絡を入れ13:50分出発。心地よい樹林帯の中を快適に歩く。槍ヶ岳の行く団体さんと前後して歩く。徳沢園のテントも20張程度と少ない。新村橋が来月から5年かけて架け替えられます
その迂回路ができていました、

(クマよけ鈴。登山道の傍に2か所設置してありました。これだけ大勢の人が通っても現れるのですかね。鳴らして通行しましたました。

16:50横尾山荘着。広場のトイレ棟が1棟新設され2棟に増えていました。横尾山荘は今まで行った山小屋の中でも一番立派でした。室内もきれいです。部屋は2段式ベットで8人収容(2人分は空いていました)、お風呂も広くて快適でした。乾燥室も乾燥機が設置され熱風が噴き出ていましたので直ぐに乾燥できそうです。

(横尾山荘、立派な山小屋です。山小屋のモデルです。かくありたいものです。)
(2段式ベットですが比較的広く快適でした。)
夕食の時大声でおしゃべりするグループがおられましたので黙食をお願いしました。万一感染すれば大変なことになります。これが感染の一番の原因ですからお互い厳守したいものです。
翌日のお昼の弁当(1500円)を注文したところパンや飲み物等が山ほどありました。2日分でもよいですね。

第2日目 横尾山荘から穂高岳山荘
出掛け少し雨が降っていましたので雨具を着用。
槍ヶ岳組は今朝4時30分に出られた。今どのあたりでしょうか。
2つの団体さんは上高地に向かって出発されました。
我我も気合を入れいざ出発。
30分余り平坦な登山道を行くとのぼりが始まる。
9年前に登った屏風岩は雲に覆われ裾が少しだけ見える。
本谷橋で休憩。いよいよ急登が始まる。幸い雨がやんでくれたので一歩ずつ慎重に登る。
出発から4時間、ようやく涸沢ヒュッテに到着。風もあり雨と汗で濡れたれたシャツで体が冷えるので着替えすっきりする。稜線は雲に覆われ見えない。はるかにつづく谷の深さに怖い気がする。
食事をとり涸沢小屋経由でまずはザイデングラードを目指す。

(涸沢のキャンプ場。淋しいですね。)
登山道が明瞭でなく岩だらけの不安定な道をペンキの丸印を頼りに登る。やっとのことでザイデングラードのとりつきに到着一安心不安定な岩だらけの道より岩稜を登るほうが楽である。
ストックを仕舞い後は両手で岩をつかみ上るのみ。前穂高岳の北尾根の美しい岩稜がひときわ鮮やかに見える。最後に会員4人で登ったのは何年前か。渋滞で苦労したね。

(ザイデングラード・恐竜の背といわれます。ごつごつとした岩稜地帯です。ここまで来れば稜線は近い。頑張りましょう。)
14時50分。やっとのことで山荘に到着。早速抹茶を点てる。荷物になるしどうしようかと悩みましたが参加者にこの味を楽しんでいただければ持ってきた。喜んでいただき苦労も吹っ飛びました。
いつもながら、この一服最高です。

(小屋に到着。お疲れ様です。先ず一献どうぞ。疲れが癒されます。)
穂高岳山荘は今日が再開初日。部屋は「白馬岳」
 
(平の方は木製の間仕切り、上が開けているだけ楽です。)

(かっての2段のところは上下段ともこのようなフイルムで仕切られていました。)
以前は大部屋でしたが今は20区画くらいに間仕切りで仕切られています。ちょっと狭い感じ。インナーシーツは化繊のフイルムシートを使用しました。
とにかく天気が良くて360度の展望が楽しめました。これ以上の喜びはありません。
時間もたっぷりありゆっくりできました。
あすの出立もすぐにできるようパッキングして準備しました。
あすの行動予定、前穂高岳に登れば上高地発のバス最終時間ギリギリになります。
鎖場や梯子段の通過で渋滞も考えられ、下りの様子が未知数であるため前穂高岳の往復に要する時間、1時間30分を短縮するため登らないことにしました。
安全は余裕のある行動から生まれる。急坂で焦った行動は危険ですから。

(山荘のテラスからご来光を写す。)
第3日目 穂高山荘から奥穂高岳・岳沢・上高地そして松本駅前のホテル(アルピコプラザホテル)
今日も良い天気だ、テラスからご来光を拝す。今日も無事な1日でありますように・・・

(穂高岳山荘のすぐ横の2連梯子を上り厳しいガラ場をよじ登る、真下に山荘が見えます。怖いね。落ちたら大変。)
山荘で朝食をとり6時出発。直ぐに垂直の断崖に架けられた2連梯子を登る。鉄が冷え切って冷たい。慎重に鎖を握り、ペンキの目印の付けられた岩場を登る.風が冷たい目出帽が欲しいくらいだ。

(穂高岳山頂・方位盤の前で撮影。バックにジャンダルムが写っています。)
瓦礫だらけの道を登ること1時間眼前に二つの丸いピークが現れた。奥穂高岳山頂だ。
ここから見えるすべての山々はかって登った懐かしい峰々だ。前穂高岳。常念岳、霞沢岳、明神岳は3年前に縦走した。笠ヶ岳、錫杖岳、はるか彼方に白山等思い出は尽きない。槍ヶ岳を写真の取ろうと思えば雲がかかる。
ジャンダルムがそびえ立ちふさがっている。絶景を写真にとり前穂高岳を目指す。吊尾根の言葉の通り3190⒨の奥穂高岳と3090⒨の前穂高岳を結ぶ⁰直線距離1,4キロ余りの緩くロープをかけたような稜線です。
8分余りで南鐐の頭。この先の岩場が我会員の藤石典万氏が2014年8月、滑落遭難したと思われる場所だ。線香を焚き、般若心経を唱え追悼す。

(吊尾根を行く。遭難現場付近は岩場、鎖場、ガラ場があり安全なルートを選んでゆきます。)
この付近は登山道が入り乱れかなりの距離緊張が強いられる場所だ。岩場、ガラ場、鎖場もあります。ルートの選択に注意を要する所です。
いくつもの尾根を乗り越え緊張を強いられる。一番東端の尾根が重太郎新道だ。
紀美子さんとは穂高岳山荘の創始者であり、この登山道を開拓した今田重太郎さんの娘さんのお名前です。ここで娘さんを遊ばせながら登山道の工事に従事したとのこと。本当にありがとうございます。
ここから岳沢を見ればトリコニー(三本槍)が見れる。この急斜面を登ったのは7年前だ。本当にこの急峻な尾根を稜線まで上がったとは自分ながら驚かされる。私も昔は元気でした。
ここまで予定通りきたけれども前穂高岳を往復すればあと1時間30分要す。早く下山した方余裕があって安全、休憩後下山する。

(梯子を下る。1歩1歩確実に下ります。)
岳沢小屋まで標高差約750m、鎖場、岩場、長大なはしごが連続する厳しい急坂です。1歩、1歩確実に確認し下る。ようやく岩場が過ぎ草場になり岳沢小屋が見えてもなかなか距離が短縮できません。どーと疲れが出ます。

(岳沢からトリコニー〈三本槍)を見る。初登攀が日本近代登山の父といわれるウエストンと山岳案内人、上条嘉門次というクラッシックルートです。。7年前私も登りました。まだ元気でしたね。)
12時40分岳沢小屋に到着。あとは危険なところはない下るだけだ。風穴を見物。15時40分上高地バスセンターに到着。予定より2時間早く前倒しできました。お陰で楽に歩けました。無事に帰つてきました。お疲れ様です。本当によく頑張りました。
18時過ぎには松本駅前のホテルに帰りました。駅前の居酒屋でビールで祝杯を挙げ、馬刺しやお刺身等ご馳走をたらふく食べました。

第4日目 松本市周辺観光広島に帰る。
通常は登山が終わればすぐに帰宅するのが常で山の楽しみしか残らない。
槍・穂高岳登山の楽しみは,山岳と上高地(あえて神河内といいたい)と麓の安曇野が一体となり、穂高岳の清浄な気が上高地の絶景を作り、梓川の清流が豊饒な安曇野の田園を潤しリンゴ畑やワサビだを育てています。
この豊かな大自然は多くの芸術家、写真家、作家、文化人をも育んでいます。
このことを理解していただくため安曇野の田園を巡りました。
3から4時間しかないので駅前でレンタカーを借り観光しました。

(今店頭で販売中のリンゴは昨年のもの、今年のリンゴはこのリンゴが最初です。まだ数量が少なく店頭に出荷予定のリンゴを回していただきました。新鮮でおいしい。
一番のおすすめは安曇野のリンゴ園。私がお取り寄せしている中村農園に行きました。安曇野のリンゴは無袋のリンゴです。
初めて安曇野に来た時,老農夫がまんべんなく色づけるため一個づづリンゴを回して色づくようにしていたお話を聞き感激し安曇野のフアンになりました。この精神が安曇野のリンゴです。
この時期の夏リンゴ、千秋とシナノレッドを掛け合わせた新種の「シナノリップ」を試食させていただき、重たいけれどお土産に持ち帰りました。

(ロダンに師事。芸術家の人生は劇的な人生のようです。だから短命なのでしょうか。)
次はツタの葉に覆われレンガ造りの教会風の建物が印象的な「碌山美術館」を見学。
高村光太郎と共に日本を代表する彫刻家、萩原守衛(碌山)の作品と資料が公開されています。
32歳の若さで亡くなりましたがその直前に作られた「女」という女性の裸像は日本近代彫刻の最高傑作といわれ、素人の私でもその見事さに感動しました。

(安曇野とくれば清流ですね。穂高岳の雪が解けて流れ下ったものと思えば何かしら愛おしくなります。)
近くの穂高神社に立ち寄り、日本一のワサビ園で有名な」大王ワサビ農園」に行く。広大なわさび畑と清流にある水車小屋のうつくしく安曇野らしい風景を堪能しました。
以前きたときはゴムボートでラフティングを楽しみましたが今日は中止となっていました。
他にも山岳写真家の田渕行雄記念館。,文明開化時代の洋風の校舎で国宝にもなっている旧開智学校、天守が国宝の名城、松本城を予定していましたが帰りの汽車の時間も迫っており途中で切り上げました。
他にも多くの見どころがありますからまたいつかゆっくりとお越しください。
参加者の実力を120%発揮し、楽しく記念となる山行でした。

最後に一言
この山行の目的は自立した山行を行ってほしい。
日本の通常の登山ルートは安全施設が完備してあり危険なところはありません。
今回のように、しっかり歩き、体を鍛え、細心の注意を払えばどこでも通行できます。
登山の楽しみは計画して、実行することにあります。
旅行会社のプランに乗ることは楽しみを半分奪われているようなものです。
自分で考え不安があればその解決方法を勉強する。
登山の楽しみがより深くなります。
自立して山を思い切り楽しみましょう。
福原さんにあの時奥穂高岳に連れて行ってもらったおかげで自立して山を楽しめるようになったといわれればこれにすぎる喜びはありません。
お役に立てて良かった。

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