令和3年12月18日
昨日, 私の手元に舟入高校の同窓会会報「あかしや」が届きました。
特集「市女100周年」となっています。
その中において学徒動員の歴史も記載されていました。
私の母校である広島市立舟入高等学校は以前は、広島市立第一高等女学校で通称は「市女」と呼ばれる女学校でした。
その女学校が創立されたのが1921年(大正10年)4月1日、今年で100年となります。
舟入高等学校はその跡に、新制高校再編成により1949年(昭和24年)5月に発足しました。
私はその第14期生にあたります。
「市女」で特筆すべきは8月6日、原爆投下の時、爆心地から550⒨の材木町で建物疎開作業をしていた生徒、引率職員10名を含め676名という学校関係の中で最悪の犠牲者を出したという事実です。
初めはなぜ犠牲者の数が多いのか考えもしませんでしたが今年7月19日~23日に中国新聞に連載された「ヒロシマの空白。被爆76年、市女学徒動員の記録」の中でその理由が理解できました。
当時の教師たちは軍部の要請に対し生徒の学徒動員に積極的(?)に協力した。ご時世がら国策に従うのは当然のことであった。国民はみんなお国のために働くことに疑問を持たなかった時代ですから。
学校にしても創立されて20数年の新興学校ですから国の要請に対しては言いなりで強い態度に出れなかったのでしょう。
因みに、現在でも広島大学や筑波大学は国の方針に対し従順であるが、東大や京大等伝統校はは懐疑的で素直に従わないようです。
原爆投下の時にも、軍人でありながら空襲の危険を察知して事前に家族を田舎の親戚に疎開させ難を免れた方もありました。
比治山高等女学校(現比治山女子中・高)の国信玉三校長は前日の空襲警報や天候から空襲の危険性を察知し、鶴見橋付近の建物疎開作業に従事する予定の生徒300人の作業中止と教室での待機を命じ、多くの命が救われた。
広島高等師範学校(現広島大付属中・高)の教員たちは軍の動員方針に反発し、農村動員の名目で東広島市に生徒を疎開させ無事でした。
県立広島一中学校でも353名の犠牲者を出しましたが一部生徒の現場出動を取りやめにして自宅待機を命じて命が救われた。当時としては命令に反する大変な決断ですが危険な現場に出動させて死なせるよりは良いことだと判断したと述べておられました。
生徒の命を守ることを尊重し、軍部の意向に反した判断の結果です。
結果論であるが命を救われた生徒からは感謝の言葉も聞かれますが 時流にかかわらず、「誰のためにすべきことなのか」生徒の命の大切さを第一に考えれば当然な結論です。
建物疎開作業に従事した1,2年生は朝7時に朝礼したと書いてあります。
3,4年生たちは市内4か所の軍需工場に派遣されました。
その中、機関砲の弾を作る日本製鋼所西蟹屋分工場では、朝勤、昼勤,夜勤、暁勤の1日24時間、4交代勤務、休みは電力節約のための電休日1日のみという過酷な労働でした。なれない作業で負傷する人や死亡者も5名報告されています。
過酷な労働により病気になり休んでいたため原爆を免れて命を長らえた人も罪悪感にさいなまれたという人も多い。
数年前に舟入高校の倉庫から当時の作業日報や活動記録が発見され過酷な労働状況が明らかになりました。
当然破棄すべきものでしたが命令に反し心ある教師が隠し持っていたのでしょう。
8月6日 工場に派遣されていた上級生たちの月に1回の電休日にも疎開作業が遅れているので取りやめにして働かせるべきだとの意見がありましたが、上級生たちを担当した故沓敬良之先生が「学徒たちは疲れている。休ませてやってくれ」と阻止したとの証言もありました。
万一作業に従事していれば全員死亡されていたことでしょう。
少しは心ある先生もおられたと救われた思いです。
世間的には、日本の外交官、杉原千畝氏が政府の訓令に反し大量のビザを発給し多くのユダヤ人や避難民を救ったことが有名です。人の命に勝るものはないという永遠の真理です。
1945年10月30日 破損した講堂で殉職諸先生や生徒の慰霊式が執り行われました。
当時の宮川造六校長が「司式の辞」を述べられたと記載されていました。
どのようなことを犠牲者に対し述べられたのか興味のあることです。
追記
私の父も爆心地近くの郵便局に勤務、殉職して遺骨もありません。毎年比治山町の多聞院で慰霊祭が行われております。市女の慰霊祭は9時30分からなので終了後、参列させていただいています。
後世畏るべし
この言葉の本来の意味は自分は才能があると思っていても後輩には自分を越える有能な人材が表れてくる。ということです。
自分の判断が後世の人の批判に耐えうるものなのかと捉えれば広い心で客観的な視点に立って判断できるように思います。
時勢に惑わされず、正しい真理にのっとって判断する。そうすれば後世に人の批判に耐えうる正しい判断ができると思います。