まほろば日記

fujioの日常の出来事、記録等を思いつくままに書いた日記です

来年の年賀状

2021-12-31 20:28:42 | 日常

令和3年12月31日
来年度の年賀状です。12月25日までに出しましたから元旦には届くことでしょう。
今年は宛名を印刷中、プリンターが突如動かなくなり手書きになり大変でした。
今年の登山はコロナ禍で中止する方が多い中、地震で中止した奥又白山行以外は実施できました。
来年はどうなることでしょうか

今日は大晦日。朝起きると屋根に雪が少し積もっています。近郊の山々も白くなっています。明日の初日の出はみれれるかな。初登山ですから天候に関係なく登るつもりでおります
雪が積もっていたら雪が踏まれて滑り易くなり大変なので早めに行った雪かきをして滑らないようにしよう。状況によっては石段が凍結していたら危ないのでスリップ防止のためザイルを設置して参拝者の安全を図りましょう。
今年は登山道もよく整備され随分と歩き易くなりました。
昨日は頂上直下の坂道に階段を作りました。
滑り易いところでしたから今度は安全に下れます

登山口のところに杖スタンドを設置しました。竹の杖を10本余り作りました。

準備ヨシ。明日もよい日の出が見れましように。
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自宅介護の限界等について

2021-12-28 23:33:46 | 日常

(この絵画はレイモン・ペイネの「森の恋人たち」というタイトルの作品です。この絵画のようにいつまでも仲良く添い遂げられたら良いのにね。そうあってほしいね。この絵は幸せの希望の灯です。)
令和3年12月27日
近所での出来事。私と年齢の変わらないご夫婦がおられます。仲の良いご夫婦でしたが最近奥様が少し認知症気味と聞いていました。先日大きな声で騒がしかったらしくてご近所の方が奥様が虐待されているのではと思い警察に通報され警察官が来て事情を聴かれるという出来事がありました。
3人の子供たちも全員男たちで独立され家庭を持っておられます。そのためご主人が一人で世話をされておられました。認知症も病気だと思えば優しく接しようと思いますがゆうことを聞かないとなぜわからないのだと腹立たしくなり言葉を荒げることもあったのでしょう。それが近所の人には虐待していると受け止められたのでしょう。
私のところでも80歳の娘が、102歳の母の介護をしている超老々介護です。昼間は良いのですが夜間には母のベットの傍添い寝をすることも多々あるようです。寝る前にはおしめパンツ履かせ、その中で済ますように言いますが何回言ってもできません。おもらしして夜具を汚したり自分でトイレに行こうとして失敗、そこら中に漏らしたり転倒すれば起こすのに何時間もかかるのですっかり寝不足で疲れ切っております。毎日が洗濯と掃除の大仕事、それに寝不足で疲れがたまっています。姉の方が体調が悪いので先生も母より姉の方があぶないと心配しておられます。
その母も9月末に体調を崩し先生から近親者を読んだ方が良いといわれ、近親者が集いそのつもりでお別れ会をしましたが、入院すると何とか持ち直しました。
入院して3か月になりますがすっかり表情が変わりました。

(3か月前はこのような表情でした。化粧をしているし、少しは歩いていましたから顔色も良い。)

(最近の写真、入れ歯をしていないので顎が落ちています。病院の食事もおかゆのようなものばかりですから痩せるのですかね)
病院の老人患者そのもの、痩せて顔も細くなり、少しボケもはじまり、寝たきりですからすっかり足の筋肉も落ちて枯れ木のように細くなりました。もう退院しても歩けないでしょう。自宅介護も無理でしょう。
コロナの影響で面会も1週間に2回のみ、時間は30分、この年末は12月25日から1月7日までお休みとなり面会できません。今までは毎日友達が訪れてにぎやかに過ごしていた人が、今はずーとねたきりですからぼけるのもむりありません。3か月でこの変わりよう。これでよかったのだろうかと自問しますが病気ですから仕方ありません。早くコロナが収まり毎日面会できるようになることを祈るばかりです。
でもこの表情の違いを見れば、大変だけれど自宅介護がいいのは明白ですね。でもね負担が大変ですが・・・何か良い方策はないものでしょうか。
人間、鍛えなければすぐに衰えるという見本のように感じました。

(頭を使うとすっきりします。まだ8級です。1日1から2問ですがそのうち早くできますよ。)
自宅介護であれば、皆と同じように食べ、友達とゲームをしたりおしゃべりできたのに。夜の介護の仕方良い方法がなかったのか後悔する事ばかりです。
認知症の対策、いろいろ勉強しましょう。とりあえず頭脳を働かせるために1から9までの数字を入れる「ナンプレ」が何となく効果があるように思います。
毎日、訓練のため時間を取りましょう。目標時間には遠く及びませんが脳活性化のため続けます。
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神田沙也加さん転落死。

2021-12-21 22:38:03 | 日常

令和3年12月20日
一昨日、18日、神田沙也加さんは宿泊中のホテルの最上階から転倒し14階の屋上で倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認されました。死因は北海道警からは高所からの転落による外傷性ショックとの発表がありました。
本人が望んでいた「マイフェア・レディ」に出演するため札幌市に滞在中でした。警察では事故か、自殺か両面から捜査しているとのこと。
本当にショックでした。信じられません。いったい何があつたのでしょうか・・大スターの両親のバックアップもあり、ミュージカルの主役を得ていたのに悩みなど考えられません。全く突然の出来事で理由など分かりません。
理由の詮索はやめよう。ただご冥福を祈るのみです。
私とは年代が違うどのような活躍をされていたのかよくわかりませんが関心があったことは有名な俳優の神田正輝さんと歌手の松田聖子さんの長女であるということ。亡くなった私の妻は松田聖子さんの大フアンでした。彼女の歌はすべて知っていました。車に乗ったときにはいつも聞いていましたから私もつられて好きになり、フアンになりました。一緒にコンサートに行ったこともありました。妻がなくなる2か月前、広島でコンサートがありました。その当時はベットに寝たままで先行きも厳しい状況でしたが、ベットごと会場に連れて行き、大好きな聖子さんの歌声を聞けば元気になるのではと思いましたがそれもかなわなかったのが今でも心残りです。聖子さんの歌は同世代の女性の生活そのものをうたったものが多くの女性の共感を得ていました。彼女は自立した女性の理想の姿であり、結婚はしなくても子供は欲しいという風潮がありました。いわば相手の男性はいわば種馬のような存在でした。
神田正輝さんと結婚し翌年沙也加さんを授かり、10年後に離婚しています。大切に育て、歌手として、声優としてまた俳優として独り立ちされた今日の突然死。その衝撃は想像に絶するものがあります。しばらくは立ち上がれないのではないでしょうか。特に我妻の大好きな人の身の上におこったことであり私にとっても大ショックで言葉もありません。大変残念で大ショックです。
一体なぜ神様はこのようなことをされるのか。天を仰ぐばかりです。
人間の運命は生まれたときに既に定まっているといわれます。人間にはどうにもならないことはわかっています。運命に従うのみですが残念でなりません。

親として子供に先立たれることほど残酷な仕打ちはありません。
今年、姉の次男が病気のため亡くなりました。家族に見守られ、別れの言葉を交わし亡くなりました。
残念なことではあるが、死ぬ前にはひとこと言葉を交わすことができ、心安らに旅立つことができました。『ことどい」の意義を改めて認識しました。
(最近知ったのですが、意識もなく昏睡状態でこのままなくなるのかと思っていたので最後にお話しできたのは奇跡だと感じました。実際は終末医療の一環で先生がモルヒネの量を調整されて一瞬の間、意識が戻ったようです。ありがとうございました)
それに比べ、この度のような突然死の無念さはいつまでも心に深く残ります。
時が、思い出が癒してくれるのでしょうか
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

天国では明るく、世話好きな我妻、英子のことですから、きっと友達になり、楽しくやっていることでしょうね。


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誰のためにするのか・・

2021-12-18 11:00:35 | 日常

令和3年12月18日
昨日, 私の手元に舟入高校の同窓会会報「あかしや」が届きました。
特集「市女100周年」となっています。
その中において学徒動員の歴史も記載されていました。
私の母校である広島市立舟入高等学校は以前は、広島市立第一高等女学校で通称は「市女」と呼ばれる女学校でした。
その女学校が創立されたのが1921年(大正10年)4月1日、今年で100年となります。
舟入高等学校はその跡に、新制高校再編成により1949年(昭和24年)5月に発足しました。
私はその第14期生にあたります。
「市女」で特筆すべきは8月6日、原爆投下の時、爆心地から550⒨の材木町で建物疎開作業をしていた生徒、引率職員10名を含め676名という学校関係の中で最悪の犠牲者を出したという事実です。

初めはなぜ犠牲者の数が多いのか考えもしませんでしたが今年7月19日~23日に中国新聞に連載された「ヒロシマの空白。被爆76年、市女学徒動員の記録」の中でその理由が理解できました。
当時の教師たちは軍部の要請に対し生徒の学徒動員に積極的(?)に協力した。ご時世がら国策に従うのは当然のことであった。国民はみんなお国のために働くことに疑問を持たなかった時代ですから。
学校にしても創立されて20数年の新興学校ですから国の要請に対しては言いなりで強い態度に出れなかったのでしょう。
因みに、現在でも広島大学や筑波大学は国の方針に対し従順であるが、東大や京大等伝統校はは懐疑的で素直に従わないようです。
原爆投下の時にも、軍人でありながら空襲の危険を察知して事前に家族を田舎の親戚に疎開させ難を免れた方もありました。
比治山高等女学校(現比治山女子中・高)の国信玉三校長は前日の空襲警報や天候から空襲の危険性を察知し、鶴見橋付近の建物疎開作業に従事する予定の生徒300人の作業中止と教室での待機を命じ、多くの命が救われた。
広島高等師範学校(現広島大付属中・高)の教員たちは軍の動員方針に反発し、農村動員の名目で東広島市に生徒を疎開させ無事でした。
県立広島一中学校でも353名の犠牲者を出しましたが一部生徒の現場出動を取りやめにして自宅待機を命じて命が救われた。当時としては命令に反する大変な決断ですが危険な現場に出動させて死なせるよりは良いことだと判断したと述べておられました。
生徒の命を守ることを尊重し、軍部の意向に反した判断の結果です。
結果論であるが命を救われた生徒からは感謝の言葉も聞かれますが 時流にかかわらず、「誰のためにすべきことなのか」生徒の命の大切さを第一に考えれば当然な結論です。
建物疎開作業に従事した1,2年生は朝7時に朝礼したと書いてあります。
3,4年生たちは市内4か所の軍需工場に派遣されました。
その中、機関砲の弾を作る日本製鋼所西蟹屋分工場では、朝勤、昼勤,夜勤、暁勤の1日24時間、4交代勤務、休みは電力節約のための電休日1日のみという過酷な労働でした。なれない作業で負傷する人や死亡者も5名報告されています。
過酷な労働により病気になり休んでいたため原爆を免れて命を長らえた人も罪悪感にさいなまれたという人も多い。
数年前に舟入高校の倉庫から当時の作業日報や活動記録が発見され過酷な労働状況が明らかになりました。
当然破棄すべきものでしたが命令に反し心ある教師が隠し持っていたのでしょう。
8月6日 工場に派遣されていた上級生たちの月に1回の電休日にも疎開作業が遅れているので取りやめにして働かせるべきだとの意見がありましたが、上級生たちを担当した故沓敬良之先生が「学徒たちは疲れている。休ませてやってくれ」と阻止したとの証言もありました。
万一作業に従事していれば全員死亡されていたことでしょう。
少しは心ある先生もおられたと救われた思いです。
世間的には、日本の外交官、杉原千畝氏が政府の訓令に反し大量のビザを発給し多くのユダヤ人や避難民を救ったことが有名です。人の命に勝るものはないという永遠の真理です。
1945年10月30日 破損した講堂で殉職諸先生や生徒の慰霊式が執り行われました。
当時の宮川造六校長が「司式の辞」を述べられたと記載されていました。
どのようなことを犠牲者に対し述べられたのか興味のあることです。
追記
私の父も爆心地近くの郵便局に勤務、殉職して遺骨もありません。毎年比治山町の多聞院で慰霊祭が行われております。市女の慰霊祭は9時30分からなので終了後、参列させていただいています。
後世畏るべし
この言葉の本来の意味は自分は才能があると思っていても後輩には自分を越える有能な人材が表れてくる。ということです。
自分の判断が後世の人の批判に耐えうるものなのかと捉えれば広い心で客観的な視点に立って判断できるように思います。
時勢に惑わされず、正しい真理にのっとって判断する。そうすれば後世に人の批判に耐えうる正しい判断ができると思います。
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