「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

柿内沢鹿踊のルーツを訪ねて

2016-12-18 23:03:54 | 郷土芸能

先週から陸前高田市・大船渡市へ行ったり来たり

大船渡市内での用事を済ませ、住田町経由で遠野に戻る途中、用件を思い出し、逆戻りで陸前高田市へ

と、同じようなことを何度か繰り返して、お疲れ気味の笛吹です。涙

何が原因なのでしょう?

ひとつは、同じ物件で書類の提出先が市と県の出先機関で、二市に分かれていること

そしてもうひとつは、頭の切れが無くなってきたこと 汗

 

そんな中、時間調整で回った陸前高田のかつての町中

海抜10m以上のかさ上げ工事がかなり進んでいました。

 

かさ上げが終わった場所では大規模な建物の工事がやっとスタート

 

 そんなこんなの某日、ちょうどお昼時間になるということで、予てより行きたいと思っていた場所へ

思いつきで出撃!笑

 

白糸の滝です

いえいえ、これを見にきた訳ではなく、滝が有るのさえ知りませんでした。笑

 

目的地は、陸前高田市矢作町馬越にあるこの建物です

 

案内板には御覧のような説明文

 

この建物の事を知ったのは、今年のお盆に住田町柿内沢鹿踊さんがここで踊っている写真を見たからです。

ごく普通の神社やお堂であれば、それほどの興味も示さなかったのでしょうが・・・。

 

屋根の下にある組物、流石は気仙大工

 

彫物も見事です

六角形のお堂というだけを頼りに、矢作町の方々から場所を教えて頂き、訪ねた甲斐がありました。笑

 

さて、話は柿内沢鹿踊へ

 

この鹿踊は、現一関市大東町大原の山口派と云われる行山流鹿踊ですが、

寛政年間(1789~1801)初期、住田町、栗原家の加三という人が矢作町馬越の

鹿踊り連から伝授され、これを柿内沢の人々に伝えたのが始まりと云われています。

住田町世田米から気仙川沿いを下り、陸前高田市竹駒町から橋を渡ると矢作町

その矢作町からR343を西へ進むと山口派鹿踊の生誕地、大東町大原へ通じます。

馬越はそのR343から奥州市江刺区、または遠野市小友町へ抜けられる道のさらに枝道沿いの集落

難しく書きましたが、大原と世田米の中ほどの北側山中となります。

 

馬越の鹿踊は、明治・大正期には廃れており、集落で踊ったという記憶を持つ人は今は、いないようです。

この馬越と山を越えた隣りの集落には現在も生出鹿踊があり、こちらは寛政12年(1800)に

同じ大原の山口から伝授されており、馬越より後に伝えられたことになります。

(生出には剣舞もありますが、これは明治初期に住田町の大山与五郎から教わったもの)

ちなみに、仙台市泉区福岡では、慶安2年(1649)に剣舞が、寛政4年(1792)に鹿踊が伝えられており、

剣舞・鹿踊は不即不離の関係にあり、一対として伝承されてきたといいますが、

陸前高田市や住田町へ鹿踊が入ってきた年代と、あまり差がありません。

 

ここでもう一度、馬越周辺の案内図

気になることが出てきました。

生出・馬越、世田米、江刺区梁川、遠野市小友町、全ての道は大東町大原へ通じ、

其々の共通点には金山があります。

またまた妄想の始まりです。笑

 

さて、ここで葬祭幹事長から業務連絡です!

恒例の同級生新年会は、1月2日(月)午後2時頃から、いつもの同級生夫婦の店で、とのことです。

また、新年会の打ち合わせ(云い方によってはミニ忘年会)は明後日21日(水)だとか・・・汗

 

 

 

 

 



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
金山と鹿踊 (阿部武司)
2016-12-19 20:39:49
確かに古い鹿踊は山の中とか藩境とか仙台藩の重要な所にありましたね。鹿踊は農民と言うよりは、下級武士が担っていた気配が伝承より見え隠れしますから、体力作りと生活費調達のためにやってたかも知れませんね。修験は神楽や御祈祷で稼ぐし、農民は冬は田植踊で稼ぎ夏は剣舞で稼ぎますから、足軽達は、鹿踊で稼いだのでしょう。民俗芸能は信仰心だけでなく地域で生きる手立てとしての共助の役割があったのでしょう。
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芸能 (笛吹)
2016-12-19 22:26:12
阿部武司さま
「妄想から暴走し過ぎるなよ」との戒めの言葉と理解させて頂きました。笑
時代が大きく変わる頃や天変地異が起こった頃に
多くの芸能が伝わっている現実を考えると
まさに生活の糧としての芸能という側面があることは、まぎれもない事実だと思います。
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