25日(土)の午前中、松崎町宮代の遺跡説明会へ出かけてみました。
郷土芸能以外にも興味があるの?
これは現地でお会いした知り合いから声をかけて頂いた際の挨拶代わり会話。
興味が無い訳ではなく、調査前にそのような場所に一人で行く勇気がないだけです。笑
遺跡のある場所へ行く途中にあった稲荷さんと三保荒神と記された石碑
石碑は昭和の物、三宝は見たことがありますが、三保は初めてです。
かつて住居のあった場所なのでは?と空想をしながら、本来の目的地へ。笑
実際は「笑」ではなく、息があがって「汗」でした。
到着!
想像以上に素晴らしい眺めです。
ここからだと、土淵、六角牛、八幡山、物見山方面が見渡せます。
説明会は盛況で、久しぶりに一如姉さんとお会いできました!
人が集まっている奥には、竪穴住居跡、その次に近年の炭焼窯跡、手前が経塚
出土品は、右から縄文式土器、矢じり、鉄滓、
松崎町の山添の畑では、私が子供の頃には既に縄文式土器が普通に拾えました。
相当古い時代から人が住んでいた地域なのでしょうね~
墨書の記された土師器
鉄滓、文字の入った出土品、ここから見える猿ケ石川の向こう岸には蓬田、高瀬遺跡があり、
そこもまた、鉄関連の遺跡と云われています。
高台付鉢
真ん中のが渥美窯壷、左が中国の青磁椀
渥美窯壷は、経筒を納めていた入れ物だった可能性大とのこと。
市外でも同じような壷のある経塚が発見されているようです。
残念ながら、この壷の見つかった経塚は盗掘されていたとか。
ここには珍しいことに経塚が三か所隣接、まだ調査されていない一か所から
何か出てくるかもしれない・・・とのこと。
出土品や発掘した地層などから縄文時代から平安時代の物のようで、長い空白の時を経て、
平安時代に意図的に経塚が築かれ、祭祀に関係する簡素な建物が建てられ、
後に火災等で消滅し、森になり、炭焼きをし、その後、また森になっていた。
と云うことのようです。
この遺跡のすぐそばにある北側の山には松崎観音堂
経筒が発見されている小友町の山谷観音堂
平安中期頃の物と云われる焼損立像が残る鱒沢、鞍迫観音堂
遠野七観音の内、
この三か所は遠野南部氏から直接、禄を貰っており、かつ、本尊は十一面観音。
其々、鉱物資源に関わる地域ということで、奥州藤原氏との関係がありそうな
雰囲気を感じての説明会となりました。
稲刈りも始まってきた遠野
実るほど首を垂れる稲穂かな
実ってはきているものの、収穫はお預けとなり、がっかり続きの笛吹です。(;^_^A
野暮用があったので、諦めておりましたし、撮り鉄も止めてまでも行きたかったです。
でも残念というところ。
場所からして宮代と松崎の境目あたりですか?木々が切られた高台?もしそこなら宮代舘として調べたことがありましたが
その場所よりは少し南東側となりそうですが、それとも違う場所?一如さんちの近く?
膝が言う事聞いてくれそうにない雰囲気がわかりました。遠野盆地が縄文時代には湿地帯だったのでしょうね。稲作は平安時代には始まっていたのでしょうね。朝廷は稲作の適地を求めて北上してきたようで安倍氏は北に向かうしか稲作適地を求められなかったかも。民話の里になる以前の遠野の実像が照射されると歴史上の遠野が見えてくるでしょうね。
気になりますね~
砂鉄で製鉄?
佐比内の奥から鉱石買ってきた?
気になりますね~
説明会にはとらねこさん近所の棟梁もいらっしゃってました。
場所は建設会社さんの西、土採取部分の南隣接地です。
まだ調査をしているので、行けると思います。
一機に行こうとしたので息が切れたのですが、
なりなりに勾配はありますが、道路から5分もかからない場所でした。
市内には藤原氏以前の安倍氏にまつわる話が多くのこっているので、遠野の夜明けはその辺りからなのかもしれません。北上川の東側文化圏ということで。
鉄滓、きになりますよね~
あの時代は買ったりしないでしょうから、周辺からか持ち込んだと思いますが、
自前で小さな道具は作っていた可能性はあります。
日当たり良好で、そばに川があり、さらに、稲作ができそうな平地あり、
後の時代に阿曽沼氏が舘を築いたのも、理解できるような気がします。
そのうち笛吹さんが遺跡調査に参加していたりして(笑)
説明係は別な人でしたが、お会いしました。
流石に調査は・・・・。
おっ!いいねっ!
急用が無ければ、まがってみようかな~!笑