今朝の岩手日報に載りましたが、昨日は、お知らせしたとおりに大東町大原まで出撃。
目的地は、曹洞宗 亀峰山 長泉寺
ちょうど10年前に遠野に縁ある大原氏の足跡を訪ねて以来ということですが、
その時の様子はこちらから。
あらためて当時の様子を振り返ると、今も同じようなことを考えている自分にがっかりです。
少しは進歩したんだろうか?と自問自答(汗)
御覧のポスターは、おそらくお寺さんが段取りしたものだと思いますが、町内にも貼ってあるのを
長野獅子踊り関係者が目にしたそうで、なんだかうれしくなりました。笑
11時、お寺の入り口と思われる処から、踊り始め
前回も記しましたが、長野獅子踊りは、遠野市小友町の曹洞宗 清水山 西来院開創の折り、
大原長泉寺から来ていた興庵篤隆和尚の友、東山五書から慶長2年(1597)に教えられたものだと
長野獅子踊之由来にあることから、今回、その恩に報いるための踊りになります。
山門前へ
かっぱ渕で有名な遠野市土淵町にある常堅寺は、文明18年(1486)に、この長泉寺(その時代はの名前は永保寺)
五世太聞秀宗和尚によって開山(大東町教育員会編「大東町の寺院」 一休さんの室町時代です。
ちなみに延徳2年(1490)機外慶俊和尚開山という説もありますが、
慶俊は1468年に亡くなっているので文明18年だと思われます。
誉め唄
この常堅寺の末寺として小友町の長野の西来院は出来たのですが、開山した年が、いつだったのか
正確にわかる資料はないようです。
長泉寺→常堅寺→西来院ということだけは間違いないようですが・・・。
資料で古い物は遠野古事記のようで、阿曽沼氏の時代には平清水平右衛門が寺領を寄付していたが、
寛文年中(1661~1673)の住持は花輪彦左衛門重政(後、重信と称す)と云い、(実は南部利直の子)
理由不肖ながら、西来院の住職となり、一生を終える。とあります。
花輪彦左衛門は南部利直の次の次を継いだ重信公から、50石寄付の打診を受けますが、断り、
八戸から遠野へ移封となった八戸南部氏の時代も、平清水平右衛門と同じ5斗1升1合を頂き、幕末となります。
本堂前に進み、ひと踊り後、
保存会長が代表して、手を合わせる。
上閉伊郡小友村郷土教育資料によると、豊臣秀吉の北条攻め(1590)以降、旧葛西領(江刺も含む)から
小友に移り住んだと言い伝えのある家が相当数いる地域のようです。
今回、道々思いましたが、江刺・水沢・一関から人目を忍んで遠野へ行く場合、小友へ山越えし、
尚且つ、金山に紛れ込むという方法が無難だったのかもしれません。
保存会長の挨拶に続き、お寺さんを誉めます。
岩手日報の記事によると、今回のしし踊り参加者は、5~86歳までの23人。
ししの数が少なかったのは残念でしたが、檀家の皆さんにも気持ちは伝わったのではないでしょうか。
普段着の姿は、ごくごく普通の人達でも、衣装を身に付けると、しし踊り伝承者に変身!
そんな姿に惚れてしまう笛吹です。笑
長老を中心に太夫の方々
檀家さん以外にも、昨年12月、遠野市伝承園で行われた追悼の踊りに来たツイッター関係者も大勢いました。
最後は柱がかり
今年最初の出番だったと思いますが、なんとか踊りきったようです。
奉納が終わると、御花を差し上げた皆さんを前にして、投げ草
そして、記念撮影
今回、なぜ、私に声をかけてくれたのか、理解できた瞬間です。笑
帰り際、種ふくべさんとお話をしていた御嬢さん
いつの日にか、太鼓系鹿踊と同じように遠野幕踊り系しし踊りにも、女性のししが登場するのだろう
と、益々、確信した奉納踊りでした。
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