岩手県気仙郡住田町の中心部にある世田米。ここに曹洞宗の寺がある。瑞川山満蔵寺。
立派な山門があり、元治元年(1864)の再建。棟梁は、気仙大工の松田氏。
山門両脇には、阿吽の仁王像。↓「あ~」
↓「う~ん」
この寺は、もとは清水沢の榎木坂にあり、元禄7年(1694)に現在地に移転し、文化11年(1814)には本堂や庫裏などを焼失。
明応8年(1499)薄衣(現一関市川崎町)に、大原、世田米、鱒沢の連合軍500騎が攻め入る。その時の世田米城主は、世田米伊豆守とあり、大原千葉伯キ守の弟。北に南朝、西に葛西、江刺、南に浜田千葉(陸前高田)、東に閉伊氏と豪族に囲まれ、阿曽沼及び世田米一族は領民を守るため常にいずれかの領主と同盟関係を結ばなければならかった。
戦国時代末期、阿曽沼、世田米にとっては存亡をかけた時期。世田米城主は阿曽沼甲斐守信康、葛西家臣となっている。
天正16年浜田の乱があり、浜田安房守広綱は葛西本家に反抗し、敗戦。そのおり、世田米城主は、浜田氏には加勢せず。それについて、世田米は千葉安房の一族なれど、遠野阿曽沼との関係はより深いものがあり、遠野阿曽沼広郷の長子、広長の正妻は世田米城主(信康)の娘であったことがその理由だと述べられている。(これは、世田米阿曽沼氏も遠野阿曽沼氏も葛西家臣で、同族への配慮があったものと推察)
また、阿曽沼信康の長子、中務重範は上原館の城主で、その位牌は杉月山新城院にあったものを廃寺により、この瑞川山満蔵寺にて安置している。この寺は、阿曽沼中務重範の開基とされている。
気仙大工の作品として、大船渡市の長安寺山門とともに語られる満蔵寺山門であるが、ここが、阿曽沼氏に縁のあるお寺だったことを知ったのは、最近のこと。
ところで、阿曽沼甲斐守信康とは、遠野阿曽沼氏とそもそもどのような関係にあった人物なのだろう?阿曽沼氏の一族宮氏は気仙口から鮭に乗って遠野へ来たという伝承が残っていることも気にかかる。
立派な山門があり、元治元年(1864)の再建。棟梁は、気仙大工の松田氏。
山門両脇には、阿吽の仁王像。↓「あ~」
↓「う~ん」
この寺は、もとは清水沢の榎木坂にあり、元禄7年(1694)に現在地に移転し、文化11年(1814)には本堂や庫裏などを焼失。
明応8年(1499)薄衣(現一関市川崎町)に、大原、世田米、鱒沢の連合軍500騎が攻め入る。その時の世田米城主は、世田米伊豆守とあり、大原千葉伯キ守の弟。北に南朝、西に葛西、江刺、南に浜田千葉(陸前高田)、東に閉伊氏と豪族に囲まれ、阿曽沼及び世田米一族は領民を守るため常にいずれかの領主と同盟関係を結ばなければならかった。
戦国時代末期、阿曽沼、世田米にとっては存亡をかけた時期。世田米城主は阿曽沼甲斐守信康、葛西家臣となっている。
天正16年浜田の乱があり、浜田安房守広綱は葛西本家に反抗し、敗戦。そのおり、世田米城主は、浜田氏には加勢せず。それについて、世田米は千葉安房の一族なれど、遠野阿曽沼との関係はより深いものがあり、遠野阿曽沼広郷の長子、広長の正妻は世田米城主(信康)の娘であったことがその理由だと述べられている。(これは、世田米阿曽沼氏も遠野阿曽沼氏も葛西家臣で、同族への配慮があったものと推察)
また、阿曽沼信康の長子、中務重範は上原館の城主で、その位牌は杉月山新城院にあったものを廃寺により、この瑞川山満蔵寺にて安置している。この寺は、阿曽沼中務重範の開基とされている。
気仙大工の作品として、大船渡市の長安寺山門とともに語られる満蔵寺山門であるが、ここが、阿曽沼氏に縁のあるお寺だったことを知ったのは、最近のこと。
ところで、阿曽沼甲斐守信康とは、遠野阿曽沼氏とそもそもどのような関係にあった人物なのだろう?阿曽沼氏の一族宮氏は気仙口から鮭に乗って遠野へ来たという伝承が残っていることも気にかかる。
生活第一、そのとおりですね。年々、私達の業界は、厳しさを増す一方で、先が見えず。努力だけでは、難しい情勢となっていますが、個人的には、今の仕事を誠実にこなしていこうと思っています。頑張りましょう!
行ってみたいとこだらけで、頭がぐちゃぐちゃになりますわ(笑)
それと、遠野及び葛西氏に関わる歴史は遠野を知る上で重要であると思っています。
「思うのみでは実りなし」なのですが、体が一つしかなく、生活のために仕事第一ですから(汗)
笛吹様、虎猫様に頼るばかりでございますm(__)m
この世田米阿曾沼氏も「阿曾沼」or「浅沼」とされているところからして疑問ありで、本当はどっちなんだ?・・・から始まって、伊達藩系統の阿曾沼氏関連文書では、どのような一族として扱っているのだろうか?とか・・・。阿曾沼氏関連は県南から、南部氏関連は津軽からといった具合で、広く情報収集が必要だと思っている昨今。来年は、・・・などと今から考えているところです。笑
葛西晴信から遠野孫次郎(広郷)が世田米に来るように手紙が発せられたのは周知のとおりで、遠野阿曾沼氏は葛西氏の従属といったことか、極めて配下に近い同盟者だと私は理解しておりますが、この点もひっかかることが・・・・
しかし、遠野と関りある一族であった可能性は大かと思ってます。
この前の忘年会で少し論じ合ったような?いつか生でさらに論じましょうぞ・・・笑