「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

家系図

2010-07-03 14:32:40 | 歴史

此処のところ、遠い親戚筋より依頼され、家系図の校正を行なう。

 

私のEXCELでは、縦書きにしようとするとどうしても列が足りず、横書きとする

 

私の位置は、最下段から上、三行目となり、直系先祖として辿りつけるのは、江戸時代後期の1800年頃までで、私で6代目。それ以前については、菩提寺が火災にあっていることから、過去帳が紛失して調査不能となっている。

 

その先祖の一人が、遠野物語拾遺に登場する人物であると、この作業を通じて知る。

 

【遠野物語拾遺106話】

 土淵村栃内和野の菊池栄作という狩人が、早池峰に近い、附馬牛村の大出山中で刈り暮らし、木の間から洩れる薄明かりをたよりに自分の小屋へ帰って来る途中で、突然一人の男に出逢った。その男は目をきらきらと丸くしてこちらを見守りつつ過ぎるので怪しく思って、どちらへと言葉をかけてみた。するとその男は牧場小屋へ行きますと言って、密林を掻き分けて行ったという。佐々木君はこの狩人と友人で、これもその直話であったが、冬期の牧場小屋には番人がいるはずはないと言うことである。その男の態は薄暗くてよくわからなかったが、麻のムジリを着て、藤蔓で編んだ鞄を下げていたそうである。丈はときくと、そうだなあ5,6尺もあっただろうか、年配はおらくらいだったという答えであった。大正2年の冬頃のことで、当時この狩人は25,6の青年であった。

名前の漢字と年齢が2歳違うが、間違いないようである

 

そして、もうひとつ、はっきりしたこと

親戚の年配者の方々が話している内容から、遠い親戚だと聞いていたのがこちらの別当さん

 

五日市の倭文神社

かつてのお文殊さま

清和源氏流藤原氏の一族との言い伝えがあり、羽黒派山伏喜楽院が祭祀していた処

 

その喜楽院が遠野へ移り住む際に持ってきたのが、この不動明王

 

1800年代中期に私の先祖から、こちらへ婿養子に入った人物がおり、また、その方の孫娘が、逆に我が家の家系に養女となり命脈を繋ぐことになる

 

喜楽院の墓所は五日市にあったが、共同墓所に移すのに際し、常堅寺に古い墓石を納めた。

残念ながら近年の境内整備の際、それらがどこにいったのか不明となっており、喜楽院6代以降から江戸末期までの詳細がつかめない。

 

先祖が何者であるのか同じように調べている方が縁者にいたことに血縁を感じた次第

 

残るテーマは、名前のはっきりしている先祖「菊池源之助」なる人物が何者かであるが、

本家筋は、火災による光岸寺再建の折に尽力した事実と、遠野の殿様から絵の掛軸を拝領したとの言い伝えがあるだけでその他手がかり無し

掛軸は遠野市に寄贈されたことになっていると云われるが、目録等にその名前なし。現物はどこへ?



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2 コメント

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系図 (一如)
2010-07-04 12:22:37
先日の系図ですね
残せるところは残していきたいですね!
自分がどこから来たのか、知ると知らないとでは何かしら違いがあると思われ・・・

奇しくもオラホでも先祖探しが(笑
といっても系図を書いているわけではありません。
何しろ文治五年の件ですから
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家系図 (笛吹)
2010-07-04 21:04:22
  一如さんへ
 一人では、なかなかまとめられるものではありませんが、これまで、確認できていた先祖から、さらに二代さかのぼることができ、充実した日々となりました。
 残るは、いつの時点で現在地へ移ってきたかに絞られたような気がします。これも、気長に調べていきたいと思います。
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