桜が咲き始め、見ごろだったはずの昨日、おとといと雨模様だった遠野ですが、
今日は雨もあがったようなので、お昼前に所用と合わせてその様子を見に行ってきました。
下組町西はずれの卯子酉神社の桜
猿ケ石川・早瀬川沿いの桜も今週末まではもちそうです。
さて、本日の話題は、
関ヶ原合戦の前年、慶長4年(1599)に三戸から盛岡に南部氏は移り、盛岡城初代城主になるのが南部利直公。
寛永9年(1632)に重直が跡を継ぎます。(ちなみに利直の先代が信直)
遠野郷八幡宮が松崎町宮代から現在地に遷座した寛文元年(1661)、大変な出来事が起こります。
重直公は目隠しをして、侍帳に記されている藩士の氏名を無作為に墨で消し、42名を解き放しとします。
その中には遠野に関係しそうな人達も含まれていました。
堀切兵庫、大町宇右衛門、石橋新兵衛、上野久兵衛、飯豊又市、五日市左近、 他
猿ケ石川の桜
遠野古事記に、同心勤めの御用が繁多になり、追加の50人を二組に分け、御譜代御同心を小頭にして、
盛岡家中浪人、興津八郎右衛門(子供八郎右衛門の代に氏を堀切と改める)、
人首平右衛門(孫平右衛門の代に大町と改める)を御当家に召出した時に支配頭を仰せ付けられ、
新しい屋敷を割出し、これを上同心と称す。とあります。(これが上組町の始まり)
42名解き放しの中に堀切兵庫という人がいます。
盛岡藩参考諸家系図(以下諸家系図)には、一戸摂津守義實支流 堀切某 信直公に仕える。
息子堀切兵庫 利直公の時に家督、岩手郡堀切村に200石給う。重直公の承応2年罪有りて禄収られ、
八戸弥六郎に預けられる。後、赦免により尚八戸氏に居り、後に八戸氏願にてその家臣になる。
兵庫辞して隠居し、その子勘三郎を八戸氏に仕わしむ。 弥六郎より50石を領す。
とありますが、承応2年は寛文の誤りで、罪有りてというのは目隠し事件の事で、無実です。
宮守町鱒沢 猿ケ石川南岸
次に興津八郎右衛門ですが、遠野古事記の二城代制の項に江刺浪人200石の大町宇右衛門が出てきます。
同じ古事記には平右衛門と宇右衛門の二つの記述がありますが、近世こもんじょ館の盛岡藩士の名簿では
宇右衛門とあるので、興津(大町)宇右衛門が正しいようです。天正の動乱で浪人となり、隣りの江刺から
遠野へ移り、後、三戸・盛岡に移動し、また遠野へということになるようです。
花の命は短いと云いますが、5月の連休までは難しいかな?
三人目は石橋新兵衛について
諸家系図では 石橋新三郎 利直公の時に召出され、鹿角郡谷内村に200石を給う。慶長6年春、
岩崎の陣の時、赤袰使番を勤める。後に鹿角御境役。重直公の時、同郡槇山で初めて金を産す。
その山御境付きにより金山奉行を兼帯す。
新三郎の娘婿は八戸弥六郎内石橋兵部二男の新兵衛定次で、重直公の時家督。
孫の石橋吉武も同時期部屋住にて御小姓を勤めていたが、寛文元年祖父定次死して家督を賜らず、
御小姓を御免、浪士となる。(別に家督の後故有りて禄収られるとの説あり)
子孫八戸弥六郎家臣となりて遠野に在り。
石橋兵部が先に遠野にいて、後に新兵衛の孫吉武が同じく弥六郎家臣になるように書かれていますが、
系図上よくわからない部分もあり、本当に先が兵部で、後に吉武だったのか疑問です。
いずれ、藩の名簿では石橋新兵衛ということで、遠野に移ったきっかけは目隠し事件になるようです。
明治2年の弥六郎家臣には2名の石橋氏があります。
宮守町鱒沢 猿ケ石川南岸
4人目は上野久兵衛
諸家系図では阿曽沼氏後の城代を勤めた上野右近の孫に与三郎(廣易)があります。その与三郎の二男が
上野久兵衛廣定で、その息子が九右衛門廣久となり重直公の万治元年父廣定が死んだ時、幼少により
禄を収られたが、家筋を思召し、世子行信公の御小姓となる。とあります。
万治元年は寛文元年の間違いですが、目隠し事件が万治元年だったという説もあり、禄収られと云うのは
やはり、目隠し事件を指しているようです。
松崎町 阿曽沼公歴代の碑前
5人目は飯豊又市
近世こもんじょ館の盛岡家臣名のふりがなでは「いで」。後の時代の家臣名には無いようです。
遠野古事記に飯豊又右衛門があり、利直公の時に仕官したことがわかりますが、八戸弥六郎家臣にも
飯豊姓は見られないことから、目隠し事件後、そのまま浪人となったのでしょう。
飯豊のよみが「いで」ですが、遠野では「えんで・いんで」と云うことから生じた「いで」だと思われます。
そこで気になるのが「井手」(いで)ですが、もしかしたら「飯豊」から変化したものではないでしょうか?
元々いた飯豊から三戸・盛岡へ移動し、戻ってきてからは井手という可能性はあります。笑
松崎町 村兵稲荷境内
6人目は五日市左近
遠野古事記に五日市又五郎が出てきます。諸家系図には、本姓浅沼 紋五木瓜内唐花
五日市政左衛門 利直公の時に召出され300石を給う。息子又兵衛宗定、重直公の時家督。
後御者頭を勤め足軽30人を預かる。後、故有りて禄収られ浪人。妻は松田与右衛門の娘とあります。
浅沼は阿曽沼一族鱒沢氏の名のりであり、松田与右衛門が附馬牛に30石領していた八戸弥六郎家臣の
同姓同名の人物だとすれば、土淵町の五日市にいた又五郎に関係するものと思われます。
雨中の鍋倉山
その他に栃内門兵衛
諸家系図では江刺某の二男栃内勾當閉伊郡栃内に住して氏とする。その息子小左衛門茂廣、利直公の慶長の頃
召出され閉伊郡栃内村に100石を給う。寛永4年八戸弥六郎遠野移封の時、現米25駄を賜う。
(娘は小友に一時住んでいた松田検校に嫁ぐ)さらに息子小左衛門廣任は重直公の時家督。
後命により郡山(紫波)に移住す。とあります。門兵衛ずばりの名前はありませんが、
御命により移住の意味が目隠し事件を指すと思われます。
他にも北村金左衛門がおり、諸家系図に八戸弥六郎内北村三郎左衛門という名前が見られますが、
後の弥六郎家臣帳に北村は無いように思いますが、いずれかの書き物で、北村を見たような気もするので
後日にでも追ってみたいと思います。
さらに末崎清右衛門、近世こもんじょ館では「すえさき」とあり、遠野では「まっさき」。
清右衛門はてっきり遠野の「まっさき」だとばかり思っていましたが、どうやら違うようです。
しかし、その後の時代に盛岡家臣に末崎が見えないようなので、そのまま浪人となったか、
やはり「まっさき」となったかは不明です。
しかし、42名中に遠野関係でこれだけの人数、三日月も丸くなるまで南部領と云われる中では高確率。
到底、目隠しをして決めたとは思い難しです。笑
連休前半、満喫中のことでしょうね!
桜もまだ咲く遠野ですが、地元民は、その桜を置き去りにして
どこへ行ったのか、全くもって静かな町中です。笑
人の名は・・・本姓某といい、地名を氏とすると書かれている人が多いのようです。
例えば菊池さんだと、どこの菊池さんかわからないので、
遠野だと、どこの菊池さんか聞くのと同じようなものでしょうか・・・笑
飯豊も五日市も栃内も人の名前から興った地名なのですかね~