平安夢柔話

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斎宮の10分の1模型 ~斎王に逢う旅7

2010-02-12 14:14:00 | 旅の記録
 斎王の森をあとにした私たちは、次の目的地、斎宮の10分の1模型のある公園へと向かいました。

 斎宮の10分の1模型は、国の指定史跡となっている東西約2キロ、南北約700メートルの区域を、10分の1に縮め、平安時代初期の斎宮を再現した模型です。

 では、斎宮の10分の1模型を撮影した写真をご覧下さいませ。


  


 これまでの調査の結果、史跡の東部に、東西七区画、南北4区画の碁盤目状に区切られた方画地割りに、建物が整然と建っていたことが確認されたそうです。

 では、10分の1模型で再現された道を通り、斎宮寮の模型に近づいてみましょう。

 斎宮寮は、斎王の住む内院、斎宮寮頭(長官)が執務する中院、その他の寮の建物がある外院の3区画に別れていました。


  


  


 写真の模型は、内院を復元したもののようです。
 こうして身近で見ると、タイムスリップしているような気分になります。

 ところで、この斎宮の10分の1模型は上でも書きましたように、平安時代初期、つまり8世紀末の斎宮を再現したものです。その頃が、斎宮制度が一番栄えていた時代なのだそうです。

 当時の斎王は、桓武天皇の皇女、朝原内親王(779~817)でした。
 そして興味深いことに、彼女の母、酒人内親王(754~829)も、祖母の井上内親王(717~775)も斎王だったのです。祖母・母・娘と三代で斎王を勤めたのはこの3人だけです。これら三代の斎王たちはいったい、どのような人生を送ったのでしょうか?ごく簡単ですが、彼女たちの人生をたどってみたいと思います。

 井上内親王は、当時の皇太子首皇子(のちの聖武天皇)と、県犬養広刀自との間に誕生しました。養老五年(721)に伊勢斎王に卜定され、神亀四年(727)に伊勢に下向。天平十六年(744)に、同母弟の安積親王の薨去により斎王を退下、帰京します。

 その後、二品に叙され、天智天皇の孫に当たる白壁王と結婚します。彼女は白壁王との間に他戸親王と酒人内親王をもうけます。このまま何もなければ、井上内親王は平穏な人生を送ることが出来たかもしれませんが、思わぬ運命が彼女を待ち受けていました。

 宝亀元年(770)、井上内親王の異母妹に当たる承徳天皇が後継者をもうけずに崩御すると、何と夫の白壁王が天皇として即位することになり(光仁天皇)、彼女は皇后に立てられ、他戸親王は皇太子に立てられます。
 おそらく光仁天皇は、聖武天皇の血を引く他戸親王が即位するまでの中継ぎと見られていたのでしょう。

 ところが二年後の宝亀三年(772)、井上内親王は天皇を呪詛した罪によって皇后位を剥奪され、他戸親王も皇太子を降ろされてしまいます。新たに皇太子に立てられたのは、光仁天皇が高野新笠との間にもうけた山部親王(のちの桓武天皇)でした。
 更に翌年、今度は天皇の姉妹、難波内親王を呪詛したことにより、井上内親王と他戸親王は幽閉されてしまいます。
 二人は宝亀六年(775)に同日に亡くなります。多分、毒殺か自殺でしょう。二人は山部親王を皇太子にしようとした藤原百川の陰謀によって無実の罪を着せられ、葬り去られたという説が有力です。

 そんな中、井上内親王の娘、酒人内親王は、宝亀三年(772)に母と同じく伊勢斎王に卜定され、二年後に伊勢に下向します。幽閉されてしまった母と弟の身を案じながらの伊勢下向だったことでしょう。

 酒人内親王は、母と弟の喪によって斎王を退下したようです。その後、山部親王(のちの桓武天皇)と結婚し、朝原内親王を生みました。

 酒人内親王は、『東大寺要録』に「姿も心も美しく上品である」と記されており、桓武天皇にも寵愛されていたようです。
 しかし、同じ『東大寺要録』に、「みだらなおこない)いや増して自制することあたわず」とも記されているそうです。しかも、桓武天皇はそれをとがめることがなかったとか。
 つまり酒人内親王は、後宮に天皇以外の男性を引き入れたこともあったのかもしれません。しかし、天皇がそれをとがめず、酒人内親王を自由に振る舞わせたということは、自分が皇太子になるのと引き替えに、酒人内親王の母と弟である井上内親王と他戸親王を無実の罪に追いやってしまった事への償いだったのかもしれませんね。

 さて、朝原内親王の方に話を移したいと思います。

 朝原内親王が伊勢斎王に卜定されたのは、延暦元年(782)、内親王4歳の時でした。3年後の延暦四年(785)、伊勢に下向します。

 朝原内親王が斎王を退下したのは延暦十五年(796)のこと、彼女は18歳になっていました。退下の理由についてはよくわからないそうです。父の桓武天皇は、帰京した朝原内親王の邸に行幸したり、土地250町を賜わったり、三品に叙したりして大切に扱います。更に皇太子安殿親王(のちの平城天皇)の妃として入内させます。

 しかし、朝原内親王は子供をもうけることもなく、弘仁三年(812)に自ら妃の座を退いてしまいます。
 当時の平城天皇はすでに退位して上皇となっており、その2年前に起こった薬子の変によって出家していましたが、朝原内親王のように自ら妃の座を降りることは異例なことです。平城上皇は藤原薬子を寵愛していたこともあり、従って朝原内親王は決して幸福な妃ではなかったと思われます。
 薬子は結局、薬子の変に敗れて自害してしまいましたが、上皇が出家をしてしまった今、朝原内親王は妃でいる理由もなくなったのでしょうし、上皇の妃として縛られるより、自由な身分を選んだということでしょうか。どちらにしても、彼女がしっかりした自我を持った女性であったことが推察されます。

 朝原内親王は、弘仁八年(817)に39歳で母に先立って世を去りました。
 娘に先立たれた酒人内親王は、娘の遺言と称し、大般若経や荘園を東大寺に施入しています。
 酒人内親王は更に十数年を生き抜き、天長六年(829)にその波乱に富んだ生涯を閉じました。

 復元された内院の模型を見ながら、私はふと、運命に翻弄されながらも精一杯生き抜いた三代の斎王たちに想いをはせました。彼女たちは斎宮寮の内院でどのような日々を送っていたのでしょうか。せめて、伊勢で過ごしていた彼女たちの日常が心安らかなものであったことを祈りたいと思いました。

 こうしてもと来た細い道をたどって外に出て、斎宮の10分の1模型をあとにしました。ふと、平安京の10分の1模型というのもあったら楽しいだろうなあ…とも思ってしまいました。


☆参考文献・サイト
 『歴史のなかの皇女たち』 服藤早苗・編著 小学館
斎宮歴史博物館のホームページ

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