時間ができたので益田市のグラントワの中にある美術館に行ってみた。
「ダイアン・アーバスとファッション」
ダイアンはファッションの仕事をしていて、写真家の旦那と画期的なファッションの写真
を世の中に送り出していたそうだ。
けれどある時から自分自身で写真を撮るようになり、被写体に”装い”を解いた人を選ぶ
ようになる。それはフリークだったり同性愛者だったり、ヌーディストだったり。
そして最後に自らの命を絶つ
そう解説に書いてあって俄然興味を持った。
人は何かしら”装う”ことで裸の自分を隠している、そういうものを否定したらしい。
でももしかしたら”装い”を解く事を求めていった結果、自らの命を絶つことになった
のではないか。
ふとそんな”仮説”が頭をよぎって、写真を見てみたいと思った。
ところが展示されている彼女の写真は7点のみで、その中からは私が期待している答えは
見出せなかった。
美術館の外は美術関係の図書館になっている。
そこに何か資料があるかと思ったら、1冊だけあった。
アメリカで発行された図録なのだろうか。
かなりの枚数が載っていたが、彼女の求めた”装いを解いた姿”は、私の目には留まら
なかった。
女装している男性はもちろん装っているし、フリークもおしゃれしている、
ヌーディストは
私は日劇ミュージックホールで踊っていた人を何人か知っているが、彼女たちはヌードを
「衣装だ」と言っていた。
ヌーディストも一糸纏わぬ姿でもやはり装っているのではないか、
私にはそう思えて仕様がない。
「裸のサル」という本があった。
人間は体毛が抜け落ちる事でサルと違うものになったという事だったと思う。
身体を覆うのが先か、体毛が抜け落ちるのが先かは知らないが、
人間は身体を覆う事を覚えたとき、色々なものを隠す事を覚えた。
心までも隠す事を覚えた。
だから人間から”嘘”は無くならないのではないか。
彼女は心の装いまで説こうとして、命を絶つことになったのではないか
そんなことを想像してしまった。
「ダイアン・アーバスとファッション」
ダイアンはファッションの仕事をしていて、写真家の旦那と画期的なファッションの写真
を世の中に送り出していたそうだ。
けれどある時から自分自身で写真を撮るようになり、被写体に”装い”を解いた人を選ぶ
ようになる。それはフリークだったり同性愛者だったり、ヌーディストだったり。
そして最後に自らの命を絶つ
そう解説に書いてあって俄然興味を持った。
人は何かしら”装う”ことで裸の自分を隠している、そういうものを否定したらしい。
でももしかしたら”装い”を解く事を求めていった結果、自らの命を絶つことになった
のではないか。
ふとそんな”仮説”が頭をよぎって、写真を見てみたいと思った。
ところが展示されている彼女の写真は7点のみで、その中からは私が期待している答えは
見出せなかった。
美術館の外は美術関係の図書館になっている。
そこに何か資料があるかと思ったら、1冊だけあった。
アメリカで発行された図録なのだろうか。
かなりの枚数が載っていたが、彼女の求めた”装いを解いた姿”は、私の目には留まら
なかった。
女装している男性はもちろん装っているし、フリークもおしゃれしている、
ヌーディストは
私は日劇ミュージックホールで踊っていた人を何人か知っているが、彼女たちはヌードを
「衣装だ」と言っていた。
ヌーディストも一糸纏わぬ姿でもやはり装っているのではないか、
私にはそう思えて仕様がない。
「裸のサル」という本があった。
人間は体毛が抜け落ちる事でサルと違うものになったという事だったと思う。
身体を覆うのが先か、体毛が抜け落ちるのが先かは知らないが、
人間は身体を覆う事を覚えたとき、色々なものを隠す事を覚えた。
心までも隠す事を覚えた。
だから人間から”嘘”は無くならないのではないか。
彼女は心の装いまで説こうとして、命を絶つことになったのではないか
そんなことを想像してしまった。
私の心は、薄いガラスのようなもの。いつ壊れてしまうか分からない。私は、病気を患うことで、自分がどれだけ重たい鎧をまといながら生きてきたのかを知った。その重たい鎧は、病気により、いっきに脱がされた。
それでも、自分のプライドを守るため、すべてを脱ぐことは出来なかった。プライドって何だ、本当の自分って何だ、ずっと考え続けた。何もかも脱ぎ捨てた方が楽なんじゃないかと思った。だが、何も身にまとっていない自分は、弱く、情けなかった。生きていく自身を失った。泣いてばかりいた。何も役に立てない、息をしているだけの人間は、死んだ方がいいんだと思った。
人間は、生きてきた中で築きあげてきた、自分を守るなにかしらを身にまとって生きているのではないだろうか。プライド、それが人間がまとっている装いなのかもしれない。人間は、賢いのかもしれないが、本当は弱い生きものだ。だから一人では生きていけない。
自分のプライドという衣装がどんどんボロボロになっていくように思う時、人間は死というものを考えるのかもしれない。
人が奇麗な服を着て装うように、人間の心にも装いは必要である。そうしないと、心がもろに傷ついてしまいそうである。
清い水を覗くと、水底にあるきれいな石が見える。淀んだ水を覗くと、そこには覗いている自分の顔が写って見える。本当に心のきれいな人に出逢うと、心が洗われるようである。嘘、偽りで生きている人に出逢うと、そこに今の自分が写って見えてくる。
清らかな心で生きていきたい。そして、その心にきれいな衣装を着せてあげたい。
病気というのは人生を変える。患うものではないが、そこから何かを得なければ、苦しんだ意味がない。
そんなことを考えながら、毎日自分の心と向き合う日々であります。
ちょっと堅苦しい内容になってしまいました。
「邂逅」私の好きな言葉です。いろんな方とのめぐりあいによって私は生かされているように思います。いろんな人に出逢えて感謝です。
でもそれだけではないと思います。
プライドにこだわると、大変でしょうね。
へたをすると正道からずれてしまいます。
私は入院した経験はありませんが、それなりに爆弾らしきものを幾つか抱えています。
そこで得た結論は、”なり”で行こうということです。
悪かったら悪かった”なり”、良かったらよかった”なり”
風が吹いて来たらちょっと抵抗してみる。
でも強くは抵抗しない。
折れてしまいますから。
歩けるなら、風の弱いところを捜す。
当らないところなんて無いですから。