江戸糸あやつり人形

江戸時代から伝わる日本独自の糸あやつり人形。その魅力を広めるためブログを通して活動などを報告します。

飛鳥 その2 石舞台

2022-05-25 00:02:31 | 日記
次に行ってみたかったのは、石舞台。
古墳の中に入れるので、入ってみた感じが知りたかった。



上っていくと、そこには写真でお馴染みの石舞台が。
近づいてみると、岩の隙間から中がのぞける。



ちょっと不思議な感じ。
中に入ってみる。
私と同じように中をのぞく人がいる。
のぞかれる感じって、ちょっと気持ち悪い。



岩の隙間から差し込んだ陽が、床に面白く映っている。
写真に撮ってみたが、実につまらない。



外に出て回りを見ると、
実は方形の基壇の上にできているのに気付いた。
なんとなく円形の上にあるものと思っていた。
そこに椅子に座った人がいたので、
もしかしたら何か知っている人かと思い声を掛けたら、
案内のボランティアの方だった。
実に親切に教えてくれた。

発掘する前は、周りに小さな古墳が7つあったのだそうだ。
全体像を知るためその小さな古墳は壊し、
出てきたのが方形の基壇だったのだそうだ。
ここは蘇我馬子の墓。
ここから見える谷あいのちょっと開けたところが、
大和朝廷のあったところだそうだ。

ここから九州は隼人を平定し、朝鮮半島まで出兵し
東は関東から福島辺りまで支配したのか。
”あづま”は”あ”の”つま”、つまりあっちの端
ならば反対があるはずで、考えたら”さ”の”つま”があった。
つまり薩摩。
そんなことを何かの本で読んだ。

また別の本によると、
ここから東に行くと三重県の亀山にぶつかるのだが、
そこに”関”という所がある。
まさしく関が設けられ、東からの守りになっていた、
この関の東が関東、西が関西となったのではないかと、あった。
地図のない時代に、空間、距離感をどのようにしてつかんだのだろうか。
ふしぎだ。
でも北海道のど真ん中で育った私には
なんとなくではあるが、
やっと大和朝廷のあった土地勘を持つことができた。

その後アーカイブスのテレビ番組で、
石舞台がどうやって作られたのかを実証するのを見た。
面白かった。
これも縁であろうか。
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