“人間”は“じんかん”とも読める。これを書名としたのが本書だ。
些か旧聞に属するが、6月27日(土)のこと、朝日新聞の読書欄を拡げながら妻は「この本面白いわよ」と言った。そこには大矢博子氏の評による『じんかん』が紹介されていた。実は妻は『小説現代4月号』に掲載された『じんかん』を読み終えていて、雑誌を私に手渡してくれたのだった。
読み始めると実に面白かったが、一挙掲載700枚の本書、直ぐには読み終えられそうもなく、返却予定日が翌日に迫り困った。到底読み終えられないと語ると、「単行本の方は予約殺到のはずだが、雑誌の方は予約少ないはず」と言ったので、区の図書館の予約状況を調べると、在庫が2冊ある雑誌のうち1冊は予約ゼロ。そこでその雑誌を借りて読み出し、再読も出来た。(現在、文京区の場合単行本『じんかん』は90人待ち)
戦国時代の武将・松永弾正久秀の物語である。久秀についての私の理解は、主家乗っ取り・将軍暗殺・東大寺焼き討ちの三悪を犯した大悪人、程度しかなかった。しかし、本書を読むと久秀が非常に魅力的な人物に思えて来るのだ。祐筆として三好長慶に仕えるまでの久秀の出自などは不明で、その部分は作家今村翔吾氏の大胆な創作だろが、九兵衛と名乗った少年時代から堺で活躍するあたりまでの物語が特に面白かった。
物語は、天正5(1577)年、久秀が織田信長へ2度目の謀反を起こしたという書状を、小姓狩野又九朗が信長に取り次ぐところから始まる。以降、物語は信長が久秀のことを小姓に語って聞かせるという構成・手法を取りながら進んでいく。
久秀は九兵衛という名で登場してくる。青年期までの彼に大きな影響を与えた人物が4人いた。多聞丸・本山寺和尚宗慶・新五郎(後の武野紹鴎)と三好元長だ。
九兵衛と弟の勘助は京に近い西岡で生まれたことになっている。幼くして父を殺され、母を亡くし故郷を出ていった兄弟。二人は多聞丸をリーダーとする小集団に救われ以後行動を共にする。多聞丸の夢は「いつか自分の国を作る」こと。多聞丸とその仲間が無残に殺され後、九兵衛は多聞丸の夢を実現しようと心に誓う。
九兵衛の聡明さを見抜いたのは本山寺和尚宗慶だった。色々尋ねる九兵衛に宗慶は多くのことを語って聞かせた。寺は阿波の情報基地であること。その御方三好元長の理想は“武士を残らず駆逐すること”等々。数日後三好元長にお目通りを願う九兵衛に和尚は「堺へ行け」と。
宗慶の紹介で九兵衛兄弟は堺に住む武野新五郎(後の武野紹鴎)を訪ね、そこで暮らし始める。何事にも興味を持ち、達筆な九兵衛の賢さに驚いた新五郎。九兵衛は新五郎を兄のように慕い、彼から茶を教えてもらったりする。新五郎が堺を去るときには“平蜘蛛”をもらうほど九兵衛は愛されていた。
九兵衛は堺を訪れた三好元長に目通りかない、直接その夢を聞かされた。「武士を駆逐し、民が政を執る世を作りたい」と語る元長に、九兵衛はこの人に会いたいと思ったのは間違いではなかったと確信し、元長の「来るか」に、「はい」と答え、共に夢を追うことになる。以後九兵衛(松永久秀)は三好元長に家臣として仕え、元長亡き後は長男三好長慶を補佐していくことになる。
永禄11(1568)年、織田信長は足利義昭を擁立して上洛。久秀は信長に降り、名物といわれる茶器「九十九髪茄子」を差し出し、大和の支配を認められる。
元亀3(1572)年、信長に対する1度目の反乱。織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏。
天正5(1577)年、2度目の反乱。反信長勢力と呼応して信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確にする。
落城寸前、織田信忠からの、平蜘蛛の茶釜を差し出せば降ることを認めるとの伝言はこれを拒否。天平5年10月10日、平蜘蛛の茶釜もろ共、梟雄松永久秀は信貴山城にて焼死。
自分に背いた者には容赦なく、徹底的に押しつぶした信長。その信長が何故久秀の反乱は許したのか。平蜘蛛さえ差し出せば2度目も許そうとしたこととなる。何故か?私はこの物語でそこが一番知りたかった。
信長は又九朗にこう語るのだ。
朝倉・浅井連合軍に挟み撃ちされた合戦で信長は敗走したが、久秀の機転により九死に一生を得た。織田軍が西近江を抜けて京へ帰る交渉も久秀がやってのけ窮地を脱した。一夜信長と久秀は夜を徹して語り合った。信長は久秀の過去と目指すものを知り、自己弁護しない、懐深い人物に好感を持った。二度とも、背いたのは己を捨てても主家三好家を守ろうとした為と信長は推測し、それ故許したのだ、と。
久秀の前半生を読み進めて来た私の胸にすとんと落ちるストーリだった。本書は残念がら直木賞受賞には至らなかった。
間もなく『麒麟がくる』が再開される。吉田鋼太郎演じる松永久秀を今までとは違った思いで見るだろうな、と思う。久秀の死を明智光秀はどこで、どんな思いで受け止めるのか興味津々である。