今回のブログは、私にとっての、新たな王子道の道標を発見したという話で、その経緯を綴りたい。
前回のブログで旧小台通りと明治通りが交差するところに右道標が建てられていると書いた。道標の裏面には建立された年月が刻まれていて、昭和48年12月吉日とあった。表面の文言は江戸時代にも今と同じ様に書かれていたのだろうか。この道標明治通りを基準に書かれていないかと、ふと不安になった。
道標には「右 西新井薬師道 左王子稲荷道」と書かれている。明治通りを王子方面に進むと目に入る道標で、私は右に曲がる旧小台通りが西新井大師道で、明治通りを真っすぐ王子方面に進むのが王子稲荷道と簡単に考えていた。右折方向は正しいが、左折方向はとんでもない誤解ではないかとの不安になった。江戸時代に明治通りはまだ造られていない!そこで古地図を見た。
右図は古地図に現在の明治通りと王子街道を書き加えたものだ。西新井薬師道FBは、Bで少し曲がるが、Bからは真っすぐ音無川まで延びてる。その道は音無川の流れていたEに突き当たる。
そこで8月5日(水)にBE間を歩こうと考えた。するとEまで行かないうちに一本の道に突き当たり、その向こうは線路だった。その角の地点Dで、草に隠れるように立っている右道標を発見した。そこには「左王子道 右六阿弥陀堂 西新井弘法大師道 船わたし場十一丁」と書かれていた。側面にはこの石の道標が文政11年(1824年)に造られたとも書かれている。この石碑、今から約200年前に建立されたと推測して間違いない。しかしEの手前にDがあった。何故か?私は、田端付近でJRの線路(特に東北回送線)が拡張される際に、王子道もEにあった道標も相当東側のDに移されたのではないかと推測している。
下谷方面に住む人々が王子稲荷に参拝するには音無川に沿って進むのがベストだっただろう。もし西新井薬師にお参りしたければこの地点(E地点)を右折すればよい。反対に小台方面に住む人たちが王子稲荷へ行きたければ西新井弘法大師道(現在は旧小台通り)をここまでやってきて音無川に突き当たり、そこを右折すればそこからは王子道。
六阿弥陀道は西新井弘法大師道と同じだった!そのことを初めて知って、六阿弥陀道の全体像が見えてきた。
後日ネットで調べると、この道標は未知のものでは無く、既知のものだった。それでも、それと知らずにこの道標に巡り合えて大満足だった。(下の写真はD地点に傍にあった)
今までに“王子〇〇道”と書かれた石碑や案内板に何度か出合った。一番最初に見たのは荒川区にある羽二重団子本店前の道標で“王子街道”と書かれていた。次に見たのは旧小台通りと明治通りが交差する地点(荒川区)の石碑で“王子稲荷道”(右写真)と書かれていた。最近見た、板橋区・姥ヶ橋にある出合地蔵の案内板には“王子道”とあった。いずれも王子稲荷への参詣に利用された道で、呼び名は地域・場所によって多少の差が見られる。
稲付川暗渠散策時に見た姥ヶ橋の出合地蔵の案内板には「・・・姥ヶ橋のたもとは、川口への交通路としても利用された十条・板橋道と中山道から分かれて王子稲荷へ向かう王子道とが交差する・・・」と書かれていた。これを読んで、中山道はどこで王子道と交差していたか実際に確かめたくなり、更にはまだ歩いていない一部を歩こうとやや遠出の王子道散歩に出かけた。
8月10日(祝・山の日)早朝5時に自宅を出て次のように回った。
千石駅→(地下鉄三田線)→板橋本町駅→中山道→清水町47番地⇒東洋大総合スポーツセンター⇒姥ヶ橋⇒JR十条踏切→王子新道→南北線王子駅 (⇒が王子道)
中山道は環七下から歩き始めた。「東京・江戸重ね地図」を参考にして、中山道と王子道の交差点は現在の清水町47番地と推測していた。予想通りだったが、残念ながらその地点に道標は無かった。中山道を右折した細道は旧道らしく、商店街の雰囲気が残っていた。(写真:王子道)
真っすぐ進むと大きな建物とグランドにぶつかった。そこは「東洋大総合スポーツセンター」で、スポーツセンター建設に際し、王子道はグランドの一部となり、消滅したと思われる。センターの縁に沿って進むと再び王子道が現れるが、そこはもう姥ヶ橋だった。
姥ヶ橋付近ではこの散策の端緒となった“出合地蔵”にお参りし写真撮影。そこから先は都道455号線となっている車道を進んだ。
進行方向右側のお店には「祝帝京高校野球部優勝」の張り紙が出されていた。この付近にある帝京高校の野球部は前日の東東京大会で優勝していた。暫く進んで十条駅踏切到着。(写真:十条にある篠原演芸場公演のポスター)
実は2016/01/19のブログに「音無川と王子街道(その5)」と題して、王子から十条駅踏切までについて書いていた。その踏切には現在も“踏切小屋”があり、そこに係員が在中していることで有名なのだが、そこには“王子街道”と書かれた標識はなく、今回初めて気が付いたのだが“十条道踏切”と書かれた標識が掲げられていた。(写真:踏切小屋)
古地図に照らし合わせても王子道は現在の十条踏切を通っていたと思うのだが、“王子街道”なる標識は、この踏切より一つ池袋寄りの踏切に掲げられている。読者を混乱させて申し訳ないのだが、姥ヶ橋から王子までの王子道は国道455号線と王子新道の2っの可能性があると書かざるを得ない。今後も調べます。
今回は、十条踏切から東京家政大を経由して王子新道に至り、石神井川沿いに王子駅に至り、南北線利用で7時45分に帰宅した。(下の写真は左が江戸時代の地図で右は現在の地図)
コロナ禍の下、微妙に変化した日常などローカルな話題を6つを綴ります。
①富士神社のラジオ体操
「緊急事態宣言」中、私はラジオ体操に参加しなかったが、富士神社のラジオ体操は20名ほどの参加者があったそうな。解除後再び参加し始めたが、最近参加者が増えている。8月に入ってからは50名ほどの盛況である。自宅に引き籠りがちな日々の運動には、気温が上がる日中より涼しい時間帯のラジオ体操が一番良いと考える方が増えているのでは推察する。顔なじみとなった人たちの間での、暫しの会話の輪があちらこちらで咲いている。
②護国寺と群林堂
護国寺に「棋聖伊藤宗印」の碑があることを知り、早朝散歩でここを目指そうとした。しかし、どうせなら寺のすぐ傍にある和菓子の「群林堂」で豆大福を買ってから護国寺に回ろうと考え、時間を朝食後に遅らせた。
8月4日9時50分頃群林堂へ。既に6人の待行列。この店にコロナは関係ないようだ。買い物を終えて護国寺へ。山門前の掲示板には「本堂内への参拝時間を午前10時から午後3時といたします」とあった。早朝散歩では目的を果たせなかったところだった。
③東大も入場制限
数日前の早朝、不忍池からの帰り、池之端門から東大本郷キャンパスに入り農学部を目指した。ところが途中柵が作られていて、いつものルートが辿れない。赤門も閉ざされているので正門に回ると、入構する人が何やら記入をしているではないか。これはヤバイかなと、守衛さんと目を合わせないようにして急いで校外に出て見ると、右看板が立て掛けられていた。東大は関係者以外は入構禁止なのだ(普段は建前だけ)。池之端門は車用入口なので立看板はなかったのだろう。
④ミート青木店
ラジオ体操後「ミート青木」の前を通ると夏季休業の右張り紙が目に入った。その理由は他店では見られないことが書かれていた。
<平成元年に結婚して以来30年、苦楽を共にしてきた妻を労いたいと思います。(本当は自分が休みたいのです。コロナの影響でこの数か月忙しく働きづめでした)>とあった。その言やよし。人気の、揚げ物の美味しい肉屋さんに休まれては困る人も多いだろうが、ゆっくりお休みくださいと思った。地域振興のためにも活躍する青木さんの紹介で私は「宮元睦会」に入れて貰っていた。
⑤マンションの花火鑑賞会
7月24日(金)の夕方のことだった。我がマンションのエントランスでとある女性に話しかけられた。「明日引っ越しして来るものですが宜しく。ところで明日の花火鑑賞会中止ですね」と。え!と私は思った。確かに例年ならば翌日が花火鑑賞会のはず。しかし、開催予定の隅田川花火大会はコロナで今年は中止。当然我がマンション屋上での鑑賞会も無い。ただその張り紙を出した訳でもないのに、どうして花火鑑賞会のことを知っているのだろう?そのことを口にすると、「マンション購入する際に見たチラシに、ここのマンションでは毎年隅田川の花火鑑賞会を開催していると書かれていました」と。マンションの広告チラシに花火鑑賞会が書かれるとは!その実行委員長には嬉しい一言でした。
⑥時計草
今年の夏、朝顔市はどこでも開催されていない。どこかで朝顔を一鉢でも買おうとネットでも調べたのだが無駄な努力に終わった。10日ほど前、ご近所のスーパーに鉢が出ていたが朝顔ではなかった。朝顔の代替にと時計草を購入した。1週間ほど水やりをしっかりやったところ8月2日に花が咲いた。中心の周りに12枚ではなく10枚の花ビラ。
新型コロナ感染の拡大の影響で、予定していた旅行や友人との一献も中止や延期となってしまったものが多々あった。一時的に延期していたものも最終的には中止。ただ「緊急事態宣言」解除以降、ご近所に在住以外の方何人かとは細心の注意を払いながら再会を果たしていた。
板橋区に住む指圧屋・水野さんとは稲付川暗渠を一緒に歩いた。同じく板橋区に住む妹夫婦のもとへはパソコンの相談に行った。10日ほど前の7月27日(月)には荒川土手で向丘高校の元同僚草野さんと再会出来た。
メールで草野さんがクロスバイクを購入し、荒川土手を走り始め、楽しんでいることを知った。遠く秋ヶ瀬まで足を延ばすこともあるとメールには書かれていた。コロナ禍の下、自転車こそが最適の移動方法と思い始めていた私は、自分自身も荒川でのサイクリングをしたくもあり、そのメールに触発されてミニベロを購入してしまった。
そうならば、草野さんと荒川河川敷で再会出来るなと思った私はその旨のメールを送信した。すると「鹿浜橋付近の都市農業公園のレストランで会いませんか」とのメールが来て、7月27日に再会を果たした。
例年の夏ならば彼を含む4人で宿泊を伴う夏山登山を楽しんでいる時期だ。彼も私も自分の感染が家族感染へ繋がることを恐れ、かつ又山小屋の多くが閉鎖されることもあって今夏登山は断念していた。山の代替(?)が川になってしまった訳だ。
ここのレストランは荒川沿いでは荒川を眺められる唯一のレストランだそうだが、レストラン内の昼食にはまだ不安があり建物前のテーブルに腰掛けアイスクリームを食しながら再会を喜びあった。彼は自宅からここまで10Km位、私は5Kmほど。取り留めのない会話を交わしたが、この感染暫くは収まらないだろうという点は共通認識。この日は雨の心配もあり30分ほどで別れたが、お互いの元気そうな顔を見てそれだけで満足だった。
公園付近は桜の名所とも聞いた。来年の春にはサイクリングかたがたここの花見が出来るだろうか。
エピセンターという言葉を7月9日(木)に児玉教授(東大先端科学技術研究センター がん・代謝プロジェクトリーダー)から初めて聞いた。1週間後の16日の参議院予算委員会の参考人発言でも同教授はエピセンターについて意見を述べていた。この言葉、今や多くのメディアで語られている。“エピセンター”は“クラスター”とは全く違う概念で、より恐ろしく、根源的な事象と私は思い始めている。(写真:参考人として意見を述べる児玉教授)
エピセンターとは、「感染者・とくに無症状の感染者が集まり、感染が持続的に集積する地域」と言われている。7月上旬には新宿は既にエピセンターとなっているとの認識のもと、児玉教授はモーニングショウーのインタビューや国会でそのことを語っていた。特に国会での発言を中心に教授の発言内容をまとめると
「私は今日、極めて深刻な事態を迎えつつある東京のエピセンター化という問題に関して、国会議員の皆様方に全力の対応をお願いしたくて参りました」と語り出した。
「ゲノム配列の分析からわかってきたことは、新型コロナは第1の武漢型から第二のイタリア・アメリカ型へ変化し、今や第三の東京・埼玉型に変化してきている。
現在は日本の中に、取り分け新宿にエピセンターが形成されている。国を挙げてこれを制圧しないとミラノやニューヨークの二の舞になることを懸念している。
韓国は20万人の宗教団体に対して膨大なPCR検査を実施した。シンガポールの外国人労働者には30万のPCR検査と抗体検査を行った。北京の食品市場では22万のPCR検査を実施し、エピセンターを制圧しようとしている。エピセンター対策が必須である。
無症状感染者を見ていくと抗体が作られていない所謂スプレッダーになる。無症状感染者が多数存在する状況では市中感染が拡大していく。」
それでは、今日本では何が一番必要ですかの議員からの問いには
「一番大事なことは感染集積地とそうでないところを分け、そこへでのPCR検査を集中的に行うこと。
1月18日に武漢に入った鐘南山先生は1月19日に北京に戻り、武漢のなかの感染集積地に1000床の病院2つの建設と、54000人の医療従事者の投入を提言・実行、これの制圧にあたった。
このように、感染集積地をしっかり指定し、集積地とうい面を制圧する。新型の一番の問題はクラスターではなくエピセンターを制圧すること。大量のPCR検査を地元の医師会に任せるのではなく東京大学などの大学や会社に任せることが一番大事。
その見積もり書を本日用意の資料に書いておきました。東大の測定はTECANという会社でやっているが、1日に5000人検査ができる。8検体プールだと4万人できる。2セット作ればもっとできる。国会にお願いしたいのは総力をあげ、しかも責任者を明確にして、そのトップダウンで、前向きの対策を直ちに始めることです。
今日の勢いでいったら来週は大変なことになります。来月は目を覆うようになります。その対策は交差免疫もある東アジアの日本ならが必ずできます。法律を変えなければならないならば一刻も早く国会を開会して欲しい」と結んだ。
私の胸を打った言葉は「専門家は国民のために戦う熱意がなければだめです」の一言。専門家を政治家と読み替えてもよい。しかしこの提言は現政権には容れられなかった。世田谷区では“誰でも いつでも 何度でも”を目標にPCR検査体制が作られようとしている。保坂区長は児玉教授からの提案・助言を基にしていると語っていた。文京区民は“だれでも”に入れるのだろうか?