中山道行の3日目の11月6日、熊倉さんの実家のある東武伊勢崎線「花崎」から宇都宮線桶川駅に向かった。
3人とも元気に、桶川駅を8時17分にスタート。
桶川宿には、埼玉県で唯一の本陣建築が残り、旧旅籠が幕末時代の建築の状態で最近まで営業を続けていたなど、蕨宿と同じように遺跡の保存状態がよく、見どころが多かった。
まず訪れた「旧旅籠武村旅館」は現在は国登録有形文化財に登録され、営業は終了している。建物の中には入れなかったが、立て看板からその内部や概況を知った。桶川宿には本陣、脇本陣の他に街道を往来する一般庶民向けの旅籠が多数あり、天保年間(1840年頃)には36軒を数えたそうな。この武村旅館は1852(寛永5)年の建築。1861年の皇女和宮下向に際しての「和宮下向桶川宿割書上」には、当時の所有者紙屋半次郎の名前が見える。明治時代になると、武村家が板橋宿よりこの地に移ってきて武村旅館の営業を開始した、等が書かれていた。(写真:宿割書上)
少し先の桶川宿本陣はこの日は公開日ではなく、残念ながら内部見学が出来なかったが、外からみてもその大きさが知れた。和宮下嫁の際や明治天皇巡幸の際の宿泊地で、入口には冠木と高麗門が建っていた。
(写真:無念げに庭を見つめる菅原さん)
矢部家住宅も立派な建物だった。通りに面して建つのが土蔵造りの店蔵。主に穀物問屋を営んでいたが、紅花の商も行っていたそうな。『新編武蔵風土記』には「この辺近来紅花を植えて臙脂を製せり」とある如く、出羽国に次ぐ、武州紅花の集散地として栄えた。紅花商人が建てた天保飢饉時のお助け蔵が残っている。今回の旅では訪れなかったが、脇道には「べに花ふるさと館」が開館している。桶川は紅花で栄えた商都だった。
沿道には広々とした庭を持つお屋敷や見事な白壁の豪邸など、商都の名残が多数見られたが、その一方で「売物件」との表示も見られた。栄華を今に留めるのみである。
更に進むと、かつての鴻巣宿。現北本駅付近にはかつての鴻巣宿があったが、宿が今の鴻巣に移ってしまってからは本宿と呼ばれた歴史を持つ。何故か「北本宿」の碑が残される不思議。多門寺・天神社を過ぎると東間(あずま)浅間神社。その標識を見て驚いた。地元で「センゲンサマ」と呼ばれている富士塚は江戸時代に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰による築造である、と書かれていたからだ。
参道と石段および社殿は直線状に配置され、これを延長した先は実際の富士山を正確に指向する、と書かれていたが、現物は見なかった。この社殿は素通りしてしまった。今回の旅の反省点は兎も角距離を稼ごうと先を焦った点にある。4年8回の旅路での京都着を考えていて、ゆったり見物の旅でなかったことだ。
旅の3日目の12月13日(火)、予報通り朝から雨で、琵琶湖は靄に煙っていた。そこで、室内で過ごす時間を多めに取ることにして、京都国立博物館→一澤信三郎帆布店→イノダコーヒー本店→「おでん たぬき」と廻った。
今年は若冲生誕300年目に当たる。それを記念して各地で特別展が開催された。都美術館で行われた「若冲展」での長蛇の列はいまだ記憶に新しい。私たちはその美術展のみならず、昨年にはサントリー美術館で開催された「若冲と蕪村」展も観ていたが、今回の旅行期間中に京都国立博物館でも「若冲展」を観られたのはラツキーだった。東京で発行のパスポートはこちら京都でも使用できるはずと、パスポート持参で出発したが、パスポートは入館の際に見せるだけOKで、6個のスタンプ欄に印は捺されなかった。帰宅後に70歳以上は無料であることも知った。
「平成知新館」2階では“特集展示”が二つ開催されていた。一つは、来年の干支にちなんで「とりづくし」展。若冲の、カラフルな鶏画も多数展示されていた。もう一つが「伊藤若冲」展。展示作品は“本邦初公開”も多く、かつ墨画だった。若冲といえば色彩豊かな作品と思い込んでいた私にはそれが意外であり、新鮮でもあった。
作品は全部で28点展示されていたが、京都国立博物館所蔵のもの7点と禅居庵の1点以外は全て個人所有のもので、出典は明らかにされていない。それらの作品の中で、私が面白いと感じた作品を3点について綴ることとする。
(1)河豚図
フグが海から飛び跳ね、空を飛んでいるように見える、ユニーク過ぎる作品。賛には「豚魚横飛 忽離海深 汝毒非毒 笑人食餐呵々」と、分かりやすい詩が添えられていた。命の危険を顧みずフグを食する人間の愚かさを詠んだ栄詩だそうな。教訓的な賛だが、画の方が遥かに面白い。実は40歳代の頃、外房大原に何度もフグ釣りに行き、“しょうさいふぐ”だから毒は無いと言って内臓を取り出しては、刺身にして食したことを思い出していた。
(2)蝦蟇河豚相撲図
河豚図と並んで掲示されていた作品。ヒキガエルとフグが相撲を取っている、何ともユーモラスな画だ。若冲50歳代での創作との説明があった。私は、これから80歳まで30年も長生きした若冲の生命力を感じた。
(3)乗興舟(じょうきょうしゅう)
これは“本邦初公開”ではないそうだが、私は初めて観た。図録解説によれば「明和四年、若冲は相国寺の梅荘顕常(大典)とともに淀川を船で下り、大坂へ赴いた。このときの実感をもとに、伏見から天満橋にいたる岸辺の風景をあらわし、そこに大典が詩句を添えたのが本作である。・・・」とある。かつて、大阪と京都・伏見を結ぶ交通手段として旅客専用の三十石船が登場し,上り下り合わせて一日320便,およそ9000人が往来したと言われている。その伏見から大阪湾までの航路は現在は就航していないが、あれば是非乗船したいと思う。そういう思いを抱かせる画だ。
昼食を博物館内のレストランで取り、妻は再度若冲展を観に行った。私は1階で行われていた「泉湧寺」展へ。
その後「一澤信三郎帆布店」へ。遺言状をめぐっての訴訟は信三郎店側の勝利に終わり、東大路を挟んで「一澤帆布店」と「信三郎店」とに分かれていた2軒の店舗は、かって一澤帆布店のあった側の一店に収束し、店名は「一澤信三郎帆布店」となった。一澤帆布店の製品も「一澤帆布製」として販売されている。私は一澤帆布店製の簡易リュックの修理の為にここを訪れたのだが、修理には1~2ヶ月を見て下さいと言われ、修理を依頼すると同時に新製品を購入した。
そこからイノダコーヒー本店へ。ここのコーヒはマイルドで、好きな「アラビアの真珠」を味わい、馴染みとなった堀川通りの「おでん たぬき」に立ち寄って帰路に着いた。(写真:イノダコーヒー店で)
今日の一葉(見頃のムラサキシキブ:永青文庫で撮影)
旅の2日目の12日(月)は快晴だった。早朝に琵琶湖々岸を散歩した。
朝陽が昇り、光が湖面に反射し始めた。ランナーとすれ違い、追い抜かれもした。竿を垂らす釣り人もいるが、走っている人が多い。「ランニングステーション」なる立て看板を見つけた。この辺りはランナーのメッカかも知れないと思った。走るにも歩くにも楽しくなる景色が続いていた。
朝食後、宿の送迎バスでJR大津へ。そこから東海道本線(琵琶湖線)新快速で近江八幡へ。近江鉄道バスを市博物館前で下車し、八丁堀を歩いた。3年前は雨だったとは妻の言。スマホでその時のブログを読むと雪中を歩いたのだった。私にその記憶は全くなかった。僅か3年前のことなのに。
私は川べりを歩いた。時代劇で時折見かける風景が展開する。石組みが美しい。妻は川沿いの一段高い街筋を歩いた。その方がお店があって楽しいらしい。「遠久邑(おくむら)」では佃煮を3種類買った。小エビ・ウロリ・氷魚とも原料は琵琶湖産でお安い。私も試食したが、良いお味だ。
立て看板には八幡堀の歴史と、城下町を築いた羽柴秀次について書かれていた。秀次の晩年は『真田丸』を観ても、涙なしには語れないが、八幡堀を興こし、商業の街の礎を築いた悲運の人は、今でもこの町の人々から敬愛され、誇りに思われていることが伝わってくる。
堀では新婚さんに出会った。挙式前の数時間を散策しての記念撮影。私も二人を撮影し、幸せのお裾分けを貰った。その後「日牟禮ヴィレッジ」へ。焼たてバームクーヘンが有名なお店だが、販売は終了していた。止む無く、3年前と同じように、店内奥のカフェでお茶して暫し寛いだ。
再び街を歩いて近江牛のお店「千成亭」へ。近江牛入りのメンチカツとコロッケを食した。”近江牛は中山道を江戸へ”の看板を見て、この付近を中山道が通っていることを思い出した。
帰路は近江八幡駅から八日市線で隣駅の武佐(むさ)へと足を延ばした。武佐は中山道第66番目の宿場。京都まであと46Kmの地点。ここを訪れるのは多分4年ほど先のことだろうが、垣間見ておきたかった。中山道はここでも至る所に遺跡が残されていた。立て看板には、1729(享保14)年には、長崎から江戸に運ぶ像がここに1泊したと書かれていた。事前学習は小一時間で終了。(写真:近江鉄道八日市線は2両編成)
”ふらっと街散歩”の素材が多数点在する琵琶湖沿岸。師走の平日に観光客は少なく、静かな街歩きに満足。
(一龍齋豊芳画)
今日の一葉(14日9時が満月。その翌朝7時に撮影)
忘れえぬ旅があった。3年前の3月、「琵琶湖大津プリンスホテル」に宿泊し、琵琶湖周辺を巡った。初日こそ京都を回ったが、その後は琵琶湖南岸と東岸を散策した。三井寺を訪ね、近江八幡の堀を歩き、瀬田川を眺め、琵琶湖疎水取水口にたどり着き、「琵琶湖毎日マラソン」を観戦した。
いや、それよりも、「新幹線京都往復+大津プリンス3泊 23000円」という、オイシさが忘れられなかった。その時初めて宿泊したホテルでは「今日はスイートルーム級の部屋が空いております。宜しければどうぞ」と言われた。宜しくないはずがない。喜んで宿泊した22階の部屋からは琵琶湖はひと際美しく見えた。「JR東海50+」という旅企画だったが、その後その様なプランは全く現れず、たった一度だけの僥倖だった。
最近そのサイトを眺めていた妻から「新幹線京都往復+大津プリンス2泊 26000円」なるプランが掲載されていると聞かされ、私はその話に乗った。選んだ期間中に、偶然にも京都国立博物館では「若冲展」が開催されていた。京都での紅葉は期待しなかった。(写真:高層の大津プリンス)
11日(日)、6時東京発「のぞみ1号」は8時8分には京都駅着。朝食後「大津プリンス」の京都出張所に荷物を預け、北野天満宮に向かった。事前に良く練られた旅ではなかった。京都の紅葉は既に終わっているだろうが、あるいはと天満宮の御土居に、微かな期待を抱いてやって来た。本殿にお参りした後御土居に向かうと「本日最終」の様な看板が書かれていて、「まだ紅葉はあるの」と聞くと、「3割は残っています」との返事。4日で終わるはずが、閉苑は1週間延期されていた。(写真:北野天満宮山門)
御土居の外側を流れる紙屋川はこの日も緩やかに流れていた。その川沿の、間もなく終わろとする紅葉に満足し、接待所でお菓子とお茶を頂き、上七軒町の花街「歌舞練習所」レストランで昼食。ここは非常にお安い。その後平安神宮に向かったが、こちらに紅葉は全く無かった。
(紙屋川) (三又付近の紅葉)
地下鉄東西線「東山」から、相互乗り入れの京阪で「浜大津」へ。そこから京阪石山坂本線で「京阪膳所」へ。膳所は住みたくなるような街だ。前回と同じようにここで下車し、西武百貨店で夕食を仕入れホテルへ。道すがらに紅葉は残っていた。
今日の一葉(琵琶湖の日出)
「松聲閣」は、1階に「菊」「朝顔」の和室が2つと、「花菖蒲」「芍薬」の洋室2つの、合計4部屋があり、こちらを利用するには事前の申込(抽選)が必要。私たちが使用した「芍薬」は最大24名までの利用が可能で、机・椅子など真新しかった。2階の2つの和室からなる展望所は誰でも自由に利用できる。その2階から眺める庭園の眺めは素晴らしい。Wi-Fiも完備され、1階の休憩室「椿」では抹茶と和菓子が500円で用意されている。(写真:展望所からの眺め)
(2階の和室)
私たち一行13名は2階から庭園の景観を楽しみ、記念撮影をして階下に降りて来た。1階玄関には肥後菊が飾られ、熊本のゆるキャラ熊もんも飾られていて、会員の中にはこの熊もんの大ファンがいて大喜び。
松聲閣を後にして、全員で新江戸川公園内を散策した。ここは細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園で、目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、実に変化に富んだ景観を生み出している。晴天のこの日、皆思い思いに散策を楽しんだ。新江戸川公園の名称は「文京区立肥後細川庭園」と変更されるらしい。
(肥後菊)
台地に上ると永青文庫。公園と永青文庫は裏門で繋がっていて、公園の外へ出ることなく永青文庫へと通じていた。どちらも細川藩のものであった故に出来ること。永青文庫にはまだ1本の紅葉が残っていて、青空を背景に紅の鮮やかな色合い見せてくれた。
ここで野間文庫へ行くグループと芭蕉庵へ行くグループとに別れた。私は芭蕉庵へ。
芭蕉は2度目の江戸入りの後、3年間この地に住んだ。旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこの工事に携わったと言われている。後に芭蕉を慕う人々は「龍隠庵」を建てたが、これが現在の芭蕉庵につながり、現在のものは第2次大戦後の建築。池の周りを散策すると「古池や蛙飛び込む水の音」の句碑が建てられていて、耳を澄ますと微かに水音が聞こえて来た。
(芭蕉庵内部に飾られていた、昔の神田川の絵)
今日の二葉(北野天満宮御土居の紅葉)