マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

オンディマンドで”御柱”を観る(その3)

2016年12月26日 | 考古学

 (3)NHKスペシャル”御柱”は、御柱祭が何故諏訪地方にだけ残ったをテーマにしていた。私は、その番組には4本の柱があると思った。今日のブログは3番目の柱「弥生文化は諏訪地方を迂回した」について。

 考古学の最新の研究成果は、諏訪が最後の縄文王国というべき場所にあったことを明らかにした。手がかりは全国の遺跡から出土した土器。土器に付着した米や煤の成分を分析することで土器が使われていた年代を推定することが出来る。そこから弥生の文化つまり水田稲作がどの様に日本列島に広がって行ったのかが明らかになった。
 国立歴史民俗博物館が作成した、水田稲作の広がりを可視化した図が図1~図4。
 研究によると縄文時代の日本列島に稲作が伝わったのは紀元前10世紀後半。水田稲作は朝鮮半島から九州へ。(図1)








 九州北部から400年ほどかけて東へ(図2)。









 ところが諏訪を含む中部高地を前に勢いは急速に衰える。そして中部高地を迂回するようにして青森へ(図3)。








 そこから東北各地に南下する。最後まで残ったのが現在の関東甲信地域(図4)。








 日本列島の大半が弥生の文化に覆われるなかで諏訪の縄文人は最後まで水田稲作を拒んだ。それは縄文人に対する旧来の見方を覆すことになった。
国立歴史民俗博物館教授藤尾慎一郎氏曰く「水田稲作が入ってきたら縄文人は直ぐに稲作に飛びつくとイメージされて来た。必ずしもそうではなく、自分たちが稲作はやらない、受け入れないと自主的に判断していたと考えられます」と。
 諏訪の縄文人はある時期までは、米でなく森の恵みとともに生きる道を選び続けてきた。

 NHKスペシャル”御柱”では、私は上の事実に一番興味を覚えた。放射性炭素年代測定
によって土器が使用された年代を推定できる。その資料を基に国立歴史民俗博物館は図を作成したと思われる。この様に科学的方法に拠る成果のほうが、神話を基にした推測よりも私は納得しやすい。この博物館は佐倉にある。秋の佐倉祭とともに是非この地を訪れたいものだ。(次回に続く)

 今日の一葉(昨日撮影の、夕映えの富士)