とりあえず今日を稽古納めということにして、稽古してきました。
前回の反省点から、今回は型の動作をゆっくりとやってみることを心がけて稽古してみました。
これをやると勢いや反動でごまかしているところがわかるので、正しい体内感覚がわかります。
今後の稽古としては、まず大前提として「教本通りにやっているか」の部分、そしてそこから抽出した「新体操作が正しいか」の部分、そして座学に当たる「居合や剣術の理合を学ぶ部分」の3つに分けてやっていこうと思います。
今回の稽古では、各々の動作をするときの体軸の意識が重要かなーといった感じ。
振る刀の勢いに持っていかれて体制が崩れることはまあなくなったので、次は前後などに向きを変えるときの体軸の意識でしょうか。
制定居合は基本的に体軸は一つで良いんですが、古流になってくると体軸を複数意識したり、あるいは体の外に意識したりしなくてはいけない……っぽいのでこの辺は要修行。
また、稽古法や身体操作法に関してももう少し信頼できる外部の情報を取り入れてやっていこうと思います。
ようやく近場で居合の稽古ができるところを見つけました!
正確には、居合の稽古ができることに気付きました。
近所の体育館なんかは団体での使用が前提になってて諦めてたんですが、自宅から少し離れたところにあるスポーツセンターにダメ元で電話してみたところ、個人での使用もOKとのことだったので喜び勇んで行ってきました。
時間も3時間たっぷり使えましたし、使用した多目的室には鏡もあって稽古環境は言うことなし。
1年以上道着に袖を通していなかったせいか帯の結び方がだいぶ怪しかったですが、そこはもろもろの解説書を使ってなんとかしました。
なによりの収穫だったのは、なんといっても居合の稽古を楽しむことができた点です。
他には誰もいないので気兼ねせずに3時間まるまる稽古できましたし、いろいろと反省点・改善点を見つけることができました。
熊本のように完全開放されてはおらず、あくまで予約制ではあるものの、幸い多目的室の方は午前中がけっこう空いているようなので十分稽古ができそうです。
とにかく先の7年間でいろいろなものをムダに消費してしまったので、これからの稽古でそれらを取り戻していこうと思います。
まだ自分の中に居合を楽しむ余裕が残ってたのを確認できたのは本当に良かった。
他人と比較せず、少しずつ自分の中の楽しむ心を育てていこうと思います。
先日日記に書いたとおり、京都の道場は辞めました。
正直なところ居合自体を辞めようと言う気持ちもゼロではありません。
10年以上かけて行き着いた先がこんなものだったらもうやる意味などないとも思いましたし、以前はあれほど楽しんできたことをここまで楽しめなくなってしまったなら、少なくともこのまま続けることは出来ない。
そもそも10年以上かけてやってきたことがこれなら、自分にはもう何かをやる意味もないという気持ちもあります。
それに、他人に追い越され、蔑まれ、見下され、憐れまれさえしてまでするほどのことなのか?という思いもあります。
ここ数年……3年前に五段受験を失敗してからは本当に居合をやるのは全く楽しくなく、得られたのは苦痛だけでした。
こんな思いをするくらいなら死んだほうがマシだと思っていましたし、道を歩いていてトラックが横から突っ込んできてくれたら、僕は確実にある側面では救われていたでしょう。
本当に居合に関しては苦痛だけの数年間でした。
少なくとも今の状態で居合を継続することはしない。
しかし、おそらく居合は僕自信が自覚している以上に僕の人生と癒着していると思います。
正確には居合が、というよりは、10年以上続けてきたことが、でしょうか。
なのでそうそう簡単にハイさよなら、と忘れられるものでもないでしょう。
もちろんここまで続けてきたんだから辞めてしまうのはもったいない、という気持ちもありますが、ここからはもったいないだけで続けていくことは不可能でしょう。動機としては弱い。
なので居合に関しては今後も続ける方向では行くつもりです。
続けざるを得ない、の方が正しいかもな……。
熊本の道場の先生も、ほかの道場を紹介してやると言って下さっているのでいずれは新しい道場で、と考えてはいますが、その前に可能であれば単独で稽古ができる場所を見つけて、そこでしばらくのあいだ一人で稽古をしようと思っています。
ここ数年で居合に関してはもうほんとうにさまざまなものを失いました。
居合をやる動機は当然「楽しいから」だったわけですが、それが失われた状態でいきなり次の道場に行っても続かないでしょうし、何より今は疲弊しきっています。
「楽しむ」がもう完全に他者との比較されるから……という強迫観念に塗りつぶされていましたから。
なので、ここで改めて自分が居合をやる動機を見つめ直す……というよりは、「行動の動機の中心には必ず自分を据える」ということをもう一度確認することをしようと思います。
この問題については、表出したのが居合という側面だったというだけで、その本質は居合云々というよりも実はアダルトチルドレンとしての自分の抱える問題にあると思います。
問題の大本は「行動の判断基準が自分の中ではなく外にある」ことだと思います。
五段受験に失敗した時の京都の道場の指導者の対応は端的に言って人間としての信頼を完全になくすにふさわしいものでしたが、そこまでされても道場をやめるという選択肢を取れなかった理由が、「京都の道場を紹介してくださった熊本の先生に迷惑がかかるかもしれないから」でした。
つまり行動の判断基準が「自分がどうしたいか」になかった。
このせいで無駄な苦痛を2年間も味わい続ける羽目になった挙げ句、居合を楽しむこともできなくなってしまった。
「行動の判断基準を自分の外から押し付けられ続けてきた」というのはもう幼少期から仕込まれてきたことで、ここにきて一気にその病巣が発現した感じです。
これについてはカウンセリングの中でも担当の先生と話し合って行こうと思います。
カウンセリングに通うようになって本当に良かった……。
居合云々の部分はあくまで表層であって、根本的な問題はやはりアダルトチルドレンとしての部分にあるんですよね。
居合への復帰は焦らず、カウンセリングと並行して少しずつ「楽しい」を思い出しながらやっていこうと思います。
そもそも居合を選んだ動機の一つには自分ひとりでやれるから、ってのがあったはずなんだよな。
マイペースでやれていたからこそ楽しめてた。
京都の道場では自分のペースではなく指導者のペース……というか、相手がしてあげたいことを一方的に飲み込まされていたというのもあります。
これはもう幼少期の親からされていたことと同じなんですよね。
それをまたそのまんま再現される羽目になっていたわけです。7年間も!
思い返すだけでおぞましい。
あそこでは完全に自分に蓋をした状態でしたし、自分から相手の望む自分でいようともしていた。これも幼少期から親に仕込まれていた悪癖の一つです。
自分は他人がいる限りほんとうの意味での自分になれないと感じることがあります。
親を始めとする他人の多くは、僕に対して役割を求めてくる。
その役割というのは大抵のばあい自分を投げ捨てるゴミ箱もしくは自分のやってあげたいことでいくらでも殴らせてくれるサンドバッグだ。
そうした幼稚な欲求を向けてくる他人が嫌いだ。
それについつい応えてしまう自分も嫌いだ。
正直なところ、他人と関わりたくないとすら思います。まともな他人って本当に少ないんだよ……。
でもまあ、僕が全ての他人を助けてやる義務なんてありませんし、興味のない他人には無関心でいようと思います。
もっと自分勝手になろうと思いますし、これからも他人との接触は極力避けていくでしょう。全ての他人と親しくしてやる義理はありませんし、向こうがそれを僕に求めていたとしてもそれは僕が同じようにしてやる理由にはならない。
あくまで僕がどうしたいか。
もちろんすべての他人が僕に対してそうだというわけではありませんが、それらはあくまで例外だという認識は変わらないでしょう。
以前はもっとマイペースで要られたと思いますが、メンタル面が弱っているのか病巣が広がっているのか、自分が他人に侵食されている割合が広がってきている感覚があります。
いろいろと書いてきましたが、要は「自分が蚕食されていってる」ってことなんでしょうかね。
居合の側面でそれが大きく出てるってだけで、そこだけが問題じゃない。
マイペースでいられるときが一番強いとうのは自分でも自覚していることですし、諸々の焦りは自分をいちいち他人と比較してしまうことから発生してるんですよね……。
それでまたメンタルが削られるという完全な悪循環。
なので、まずはゆっくりと自分を取り戻していこうと思います。
ようやく京都の道場を辞めました。
居合に関してはマイナスなことが積み重なっていてかなり停滞状態になっていましたが、これで確実に一歩前進できると思います。
いろいろと考えをまとめたいんですがまた後日。
……というわけで、居合の稽古はしばらく休むことにしました。
この判断はここ数年……いやいや、自分の人生全部でも一二を争う大英断だったと思います。
ほんとうに心の底から、今の状態で「頑張って続ければ」というお約束思考に陥らなかったのは良かったと思ってます。
そうなってたらまた同じことの繰り返しで、近いうちに潰れてしまってたでしょう。つうかもうすでに潰れかけてたしな。
前回はこの判断を誤ったために2年もの間楽しくもないことに時間と金を費やすことになってしまい、回復するどころかますます落ち込んでしまってたしなあ。
頑張ることは大切かもしれませんが、頑張れない時に頑張ろうとするのは間違いです。
さらに言うなら、何かを長く続けるのなら、頑張ることよりも楽しむことが必要だと思います。
少なくとも僕はこの「楽しむ力」が居合に限らずいろんなことに対して低減しているので、本当に今回は休む判断ができてよかった。
本当に肩の重荷がようやく取れた気分です。
通算19年も続けたことを一時的にせよ中断する判断を下し、さらにそれを道場の先生に告げることは相当のストレスがかかることでしたが、ほんとうにできてよかった。
あとまあ、状態が良ければ自宅でちょこちょこ稽古はしていくつもり。
では次は、日記でしばしば言っていたとおり、メンタル方面の修復にかかろうと思います。
まだ考えがまとまらない。
それぞれの選択肢を取ったときのメリットとデメリットを書き出して考えてみるか……。
いちばんのネックになるのはやはり稽古場所だよなあ……探せば見つかるか?
そしてなにより自分自身のメンタルを最優先せねば。
努力と苦痛を履き違えて、苦痛だけを徒に積み上げることだけは避けないと。
楽をすることを覚えたい。
今後のこと、考えがまとまりそうになってはつっかえの繰り返しで結局なかなかまとまらない。
辞めるにせよ休むにせよ、ブランクが空くのが怖いというのと、このままの状態で続けても疲弊するだけというのがせめぎ合ってる。
もうだいぶ考えるのも面倒になってきたし、悩むだけでも気力を消費するし……。
ベターなのは休んでその間にカウンセラーなりを探して自身の問題を解決することかなー……。
確実なのは、このメンタルの状態で続けてもどうにもならないどころか、さらに状態を悪化させるだけということ。
事実、以前の昇段試験からの2年間、一度も稽古を楽しいと思ったことはない。
なので少なくとも現状は休息を取るべきなのは確実だ。
その間に心療内科なりなんなりでメンタルの回復を図る、というのが良かろうなぁ……。
ブランクが空くのには抵抗があるけど、そこは認識を改めるということで。
あと現在の道場に関しては休むか辞めるかはまだ迷ってる。
正直本音は「居合の稽古が楽しくない」ではなく「今の道場の稽古が楽しくない」、より正確に言えば「人間として信頼できない指導者からの指導が楽しくない」なんだよな。
これに関しては稽古をする場所がなくなるという問題点があるので、今までは「割り切って指導を受ける」でやってきたけど、それにもいよいよ限界が来てる……。
前回の昇段審査のときに辞めておくべきだったか……。
正直なところ、このままの状態で続けても疲弊するだけだと思うんだよなあ。
なぜそうなるかというと、まったく楽しめていないから。
別に矯正されてるわけじゃなし、楽しくもないことにわざわざ時間と金を費やす必要なんてどこにもない。
こういう状況だと、どうしても「我慢して続けていればいつかは……」と考えがちだし、一般的にも「諦めない」ことが正しい・尊いと認識されてるけど、「頑張れない状態で頑張る」って一番危険なことだよな。
現状、居合をやめてしまいたいという気持ちと、完全にやめるのはやはり惜しいという気持ちが混在してる。
この状態がまずいという自覚はあるわけだし、いくらかの期間休養を挟むという選択も、長期的な視点で居合を継続するということを考えると必要かもな……。
当日はダメージを受けてなかったとは言え、ダメージがまったくなかったわけでは決してなくて。
今後のことも考えていかなくてはいけません。
やめるか続けるか。
正直なところ現状のまま続けても進歩があるとは思えませんし、なにより居合を全く楽しめていない状態で続けるのは苦痛以外のなにものでもない。
そもそも居合云々の部分は実は表層的な問題であって、本当に重要な問題は「自己肯定が全くできない」といったようなメンタルの部分だと思います。
この部分をどうにかしないことにはもうどれだけ努力をしてどんな成功を収めても自分を肯定することはできない。
もし仮に今回五段に受かっていたとしても、自己効力感は手に入らなかったはず。
前回五段受験に落ちて以来、一度も居合を楽しいと思ったことはありませんし、正直もう疲れた。
やればやるほど惨めさが増すだけで、19年間かけて手に入れたものはこの吐き気をもよおす劣等感だと思うと死にたくなる。
少なくとも、現在の道場はやめてしまいたい。
熊本の先生に紹介して頂いたこともあって前回のようなことがあっても続けていたけど、それが結局自分を苦しめるだけの結果になった。
自分を殺した人間に師事したところで得られるのは苦痛しかないことは考えれば当たり前のことなんだが、今の自分のように判断基準が自分の中にないと、自分の意志、特に感情を根拠にして行動することができなくなる。
だったらもう子供じみた感情丸出しの行動を取るべきではないのか。
少なくともこの状態で居合を続けることは辛くて惨めで苦痛なだけだ。
自分が居合を続けたいのかどうかすらもうわからない。今、自分の中にどれほど自分が残っているんだろうか。