「そう怖い顔をするな、円光」
野太いバリトンの落ち着いた音色が、円光の耳に届いた。
「貴様、何者だ。何故拙僧の名を知っている?」
すると、山伏は頭に手をやり、面を固定していた紐を解きにかかった。
「久しいな。かくまで立派に育ってくれて、この道賢、うれしく思うぞ」
天狗の面の下から現れたのは、いかつい顔立ちを白に変貌した太い眉と口ひげで飾った、年老いた男の顔であった。弛んだ頬の肉と深く刻まれたしわが相当な高齢であることを物語ったが、「枯淡」などという年相応の心境とはまるで縁がない眼光が、鋭く円光を見返した。対する円光は、相手がまるで旧知の間柄であるかのごとく振る舞うのを見て、不審の思いを募らせた。少なくとも円光の記憶に、この顔とその名前は刻まれていない。
「して、道賢殿は何故かような真似をなさるのか、得心行くまでお聞かせ願おうか」
「ふふふ、やはり覚えてはおらぬか」
「なに?」
「されば教えて進ぜる。円光、我は主の父じゃ」
突然の物言いに、円光はしばし返す言葉を失った。言うに事欠いて自分の父だと? 円光はにわかに身中怒りが沸騰するのを覚えた。
「いい加減なことを言うな!」
円光の剣幕を、道賢はあっさりと無視して言った。
「それから主の血を分けた同胞じゃ。さあ、いつまで寝そべっておる! 立って挨拶せい!」
道賢に怒鳴りつけられた山伏達が、思い思いに立ち上がった。よろける足を踏ん張ってお揃いの面を次々に取る。その途端、円光はあっと驚いた。
「お、女だったのか」
驚きと同時にやはりそうか、と円光は納得した。滝を飛び越えるために踏みつけにした肩の柔らかさや、ついさっき当て身を喰らわせたときの手応えの異様さが、ひょっとして、と直感に警告していたのだが、まさか、と思う部分の方が取りあえずは強かった。だが、こうして20人、皆自分よりも年若いと思われる女性達に取り囲まれてみると、今更まさかとは言えない。それに、と円光は固唾を呑んだ。それぞれ顔立ちに違いはあるがその容貌は充分に美しいと言える部類にある。麗夢殿ほどではないにしても、と思った時、円光はその顔に何となく見覚えがある事に気が付いた。会ったことはないはずだが、といぶかる円光に、一番身近にいた一人が円光ににっこりと笑いかけた。
「兄上様、お初にお目にかかります。私、妹の蓮花と申します」
「あにうえさま?」
円光は、初めて聞いたかのように、ただ目を丸くしてその言葉をなぞりながら相手を凝視した。すると、円光を兄と呼んだ少女が、頬を朱に染めて目を伏せた。それをきっかけに、残る19人がそれぞれの笑顔で円光に言った。
「兄上様、やっとお会いできましたね」
「兄上様、この日が来るのをどれほど待ちわびたことか」
「ずっと会える日を楽しみにしておりました」
「お会いできてうれしゅうございます」
・・・・・・
次々と呼びかけられて、円光は何がなんだか判らなくなった。
「し、しばし待たれよ! 一体、一体貴女達は・・・」
「皆、兄上様の妹でございます」
最初に蓮花と名乗った娘にすました顔で慇懃に答えられると、円光の混乱は一層に増した。その混乱のまま、ふと池の水面に写った自分の顔に目がいった。そして円光は得心した。見覚えのあるはずだ。あの顔立ち、拙僧にそっくりではないか・・・。
「いやそんなはずは! せ、拙僧には兄弟姉妹はおらぬ!」
「それがいたのだ。円光」
道賢が一歩前に出て円光に言った。
「大体円光、主は己の幼き頃を覚えているか?」
「い、いや。拙僧、物心ついた時には既に修行中の身であった」
「では、二親を覚えているか?」
「・・・拙僧は天涯孤独の身。親など拙僧には・・・」
親について尋ねられた円光は、少し目を伏せて苦い顔をした。円光には両親の記憶はおろか、過ごしたはずの幼い頃の記憶もない。唯一残っているのは、どことも知れぬ深山で、一所懸命真言を唱え続ける小さな声と、その傍らで輝く一対の瞳であった。その瞳は、時に厳しさを増して声を励まし、時に慈愛に満ちて声をいたわった。時には、得体の知れぬ物の怪からとてつもない霊力を発揮して声を救うこともあった。この声が即ち自分であり、見つめる目が多分父か師匠だと円光は考えている。円光という法名は恐らくその目の主から頂戴したのであろう。だが、それは全てあやふやな記憶から抽出した、根拠のない円光の思いに過ぎない。
そう。円光には過去がない。
自分は一体何者なのか、と言う問いは、円光が物心ついて以来の難問なのだ。
結局そんな自分に対する不確実な思いが、仏法への精神的傾斜を増すテコとなった。今は仏法こそが円光を支えるアイデンティティそのものなのである。それでも、自分の過去を、両親が誰なのかを知りたいという欲求が失せる事はない。数々の難行苦行をこなし、こうして日々荒行に明け暮れるのも、仏法の真理を掴めば失われた記憶を取り戻せるかも知れない、と期待を抱いているためとも言える。
そんな複雑な円光の思いを察してか、道賢は腕を組むと、さもありなんとゆっくり首を縦に振った。
「そうであろう。覚えておるはずはない。主の記憶にはある封印が施されているからな」
「封印だと?!」
驚く円光に、道賢と名乗る山伏は力強く頷いた。
「そうだ。だが心配するな。今このわしがその封印を解いてつかわす」
「封印を、解く?」
困惑してただ鸚鵡返しするばかりな円光に、道賢は、そうだともう一度力を込めて頷き、後ろに居並ぶ娘達に目配せした。たちまち円光の妹を自称する娘達は、円光を丸く同心円上に幾重にも取り囲んだ。はっと身構える円光に、道賢は言った。
「案ずるな。主にかけられた記憶の封印を解くには、少々力のいる念を施さねばならぬ。これはそのための陣じゃ」
野太いバリトンの落ち着いた音色が、円光の耳に届いた。
「貴様、何者だ。何故拙僧の名を知っている?」
すると、山伏は頭に手をやり、面を固定していた紐を解きにかかった。
「久しいな。かくまで立派に育ってくれて、この道賢、うれしく思うぞ」
天狗の面の下から現れたのは、いかつい顔立ちを白に変貌した太い眉と口ひげで飾った、年老いた男の顔であった。弛んだ頬の肉と深く刻まれたしわが相当な高齢であることを物語ったが、「枯淡」などという年相応の心境とはまるで縁がない眼光が、鋭く円光を見返した。対する円光は、相手がまるで旧知の間柄であるかのごとく振る舞うのを見て、不審の思いを募らせた。少なくとも円光の記憶に、この顔とその名前は刻まれていない。
「して、道賢殿は何故かような真似をなさるのか、得心行くまでお聞かせ願おうか」
「ふふふ、やはり覚えてはおらぬか」
「なに?」
「されば教えて進ぜる。円光、我は主の父じゃ」
突然の物言いに、円光はしばし返す言葉を失った。言うに事欠いて自分の父だと? 円光はにわかに身中怒りが沸騰するのを覚えた。
「いい加減なことを言うな!」
円光の剣幕を、道賢はあっさりと無視して言った。
「それから主の血を分けた同胞じゃ。さあ、いつまで寝そべっておる! 立って挨拶せい!」
道賢に怒鳴りつけられた山伏達が、思い思いに立ち上がった。よろける足を踏ん張ってお揃いの面を次々に取る。その途端、円光はあっと驚いた。
「お、女だったのか」
驚きと同時にやはりそうか、と円光は納得した。滝を飛び越えるために踏みつけにした肩の柔らかさや、ついさっき当て身を喰らわせたときの手応えの異様さが、ひょっとして、と直感に警告していたのだが、まさか、と思う部分の方が取りあえずは強かった。だが、こうして20人、皆自分よりも年若いと思われる女性達に取り囲まれてみると、今更まさかとは言えない。それに、と円光は固唾を呑んだ。それぞれ顔立ちに違いはあるがその容貌は充分に美しいと言える部類にある。麗夢殿ほどではないにしても、と思った時、円光はその顔に何となく見覚えがある事に気が付いた。会ったことはないはずだが、といぶかる円光に、一番身近にいた一人が円光ににっこりと笑いかけた。
「兄上様、お初にお目にかかります。私、妹の蓮花と申します」
「あにうえさま?」
円光は、初めて聞いたかのように、ただ目を丸くしてその言葉をなぞりながら相手を凝視した。すると、円光を兄と呼んだ少女が、頬を朱に染めて目を伏せた。それをきっかけに、残る19人がそれぞれの笑顔で円光に言った。
「兄上様、やっとお会いできましたね」
「兄上様、この日が来るのをどれほど待ちわびたことか」
「ずっと会える日を楽しみにしておりました」
「お会いできてうれしゅうございます」
・・・・・・
次々と呼びかけられて、円光は何がなんだか判らなくなった。
「し、しばし待たれよ! 一体、一体貴女達は・・・」
「皆、兄上様の妹でございます」
最初に蓮花と名乗った娘にすました顔で慇懃に答えられると、円光の混乱は一層に増した。その混乱のまま、ふと池の水面に写った自分の顔に目がいった。そして円光は得心した。見覚えのあるはずだ。あの顔立ち、拙僧にそっくりではないか・・・。
「いやそんなはずは! せ、拙僧には兄弟姉妹はおらぬ!」
「それがいたのだ。円光」
道賢が一歩前に出て円光に言った。
「大体円光、主は己の幼き頃を覚えているか?」
「い、いや。拙僧、物心ついた時には既に修行中の身であった」
「では、二親を覚えているか?」
「・・・拙僧は天涯孤独の身。親など拙僧には・・・」
親について尋ねられた円光は、少し目を伏せて苦い顔をした。円光には両親の記憶はおろか、過ごしたはずの幼い頃の記憶もない。唯一残っているのは、どことも知れぬ深山で、一所懸命真言を唱え続ける小さな声と、その傍らで輝く一対の瞳であった。その瞳は、時に厳しさを増して声を励まし、時に慈愛に満ちて声をいたわった。時には、得体の知れぬ物の怪からとてつもない霊力を発揮して声を救うこともあった。この声が即ち自分であり、見つめる目が多分父か師匠だと円光は考えている。円光という法名は恐らくその目の主から頂戴したのであろう。だが、それは全てあやふやな記憶から抽出した、根拠のない円光の思いに過ぎない。
そう。円光には過去がない。
自分は一体何者なのか、と言う問いは、円光が物心ついて以来の難問なのだ。
結局そんな自分に対する不確実な思いが、仏法への精神的傾斜を増すテコとなった。今は仏法こそが円光を支えるアイデンティティそのものなのである。それでも、自分の過去を、両親が誰なのかを知りたいという欲求が失せる事はない。数々の難行苦行をこなし、こうして日々荒行に明け暮れるのも、仏法の真理を掴めば失われた記憶を取り戻せるかも知れない、と期待を抱いているためとも言える。
そんな複雑な円光の思いを察してか、道賢は腕を組むと、さもありなんとゆっくり首を縦に振った。
「そうであろう。覚えておるはずはない。主の記憶にはある封印が施されているからな」
「封印だと?!」
驚く円光に、道賢と名乗る山伏は力強く頷いた。
「そうだ。だが心配するな。今このわしがその封印を解いてつかわす」
「封印を、解く?」
困惑してただ鸚鵡返しするばかりな円光に、道賢は、そうだともう一度力を込めて頷き、後ろに居並ぶ娘達に目配せした。たちまち円光の妹を自称する娘達は、円光を丸く同心円上に幾重にも取り囲んだ。はっと身構える円光に、道賢は言った。
「案ずるな。主にかけられた記憶の封印を解くには、少々力のいる念を施さねばならぬ。これはそのための陣じゃ」
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