前にも書きました(参考記事)が、読売新聞の「検察官」シリーズは毎日続いています。今日は第4回で、不起訴となった事例のお話でした。かいつまんでお話しますと、2000年に起こった東京メトロの日比谷線脱線事故についてで、当時の警察捜査から書類送検されたのですが、検察捜査の結果、「不起訴処分」となったということでした。5名の死者を出した事故だったのですが、法的責任を問うことは出来ないというのが検察の最終判断で、これを被害者や遺族への説明に当たった検事のコメントも出ておりました。
東京地検刑事部の古賀検事が、事故原因について捜査した結果は、「「起訴は困難」との結論を出さざるを得なかった」。このことを遺族や被害者に説明したのが、担当検事であった加島検事であった。曰く「「事件を担当した自分がやるしかない」と感じた」。
検察庁舎で不起訴処分直前に、5日間に渡り説明を行ったそうだ。記事には、こう書かれている。
時間の制限は設けなかった。説明に納得できず、厳しい処罰感情をあらわにする人も多かった。「とにかく自分にぶつけてもらうしかない」と加島は思っていた。「起訴すれば、被害者の無念は調書や証言の形で公判に出る。しかし、不起訴ではそうならない。被害者が思いの丈を話せるのは今、この時しかない」
遺族たちは、納得できない人もいる。そうだろう。何の過失もなく、乗車していただけで、尊い命が失われたのだ。これについて、遺族の声は、記事で次のように書かれている。
「誰も責任を問えなかったのは、検事の力不足だ」
「でも、不起訴はそれで終わり。あんまりだ」
また、検事たちの言葉が、次のように記されていた。
加島は言う。「仮に自分の身内が同じ事故にあったら、私だって納得できないだろう」。古賀も「何とかしたいのは山々だったが、法と証拠に基づいて判断せざるを得なかった」と振り返り、「遺族の思いに応えることができなかった以上、批判は検察が受け止めるしかない」と思っている。
怒りと無念さを吐き出す、公判という場を失ったことで、遺族や被害者たちはそれを昇華する機会を失うのだな、と感じた。同時に、こうした不起訴処分の陰にも、苦悩、無念さや批判を一身に受け止めねばならないという、検事たちの知られざる苦労があるのだなと思う。説明会での、遺族の叫ぶような無念の言葉を聞いた時、何処に自分の心を置けば良いのか、とも思う。こうした苦悩は、経験することがないので、私には判らない。だが、それを経験する人々がいる、現に検察官は日々こうした苦悩を乗り越えるのだな、と思うと、彼らに対して以前とは少し違う見方になったような気がする。
奇しくも今日尼崎での脱線事故(Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 電車脱線マンションに激突、37人死亡220人けが)が伝えられている。死者は今判明しているだけで37名と大惨事となっている。こうした事故で尊い命が失われ、再び遺族や被害者が多数生じさせられるというのも悲しすぎる。
恐らく検事達の新たな苦悩が生み出されてしまうことだろう。
東京地検刑事部の古賀検事が、事故原因について捜査した結果は、「「起訴は困難」との結論を出さざるを得なかった」。このことを遺族や被害者に説明したのが、担当検事であった加島検事であった。曰く「「事件を担当した自分がやるしかない」と感じた」。
検察庁舎で不起訴処分直前に、5日間に渡り説明を行ったそうだ。記事には、こう書かれている。
時間の制限は設けなかった。説明に納得できず、厳しい処罰感情をあらわにする人も多かった。「とにかく自分にぶつけてもらうしかない」と加島は思っていた。「起訴すれば、被害者の無念は調書や証言の形で公判に出る。しかし、不起訴ではそうならない。被害者が思いの丈を話せるのは今、この時しかない」
遺族たちは、納得できない人もいる。そうだろう。何の過失もなく、乗車していただけで、尊い命が失われたのだ。これについて、遺族の声は、記事で次のように書かれている。
「誰も責任を問えなかったのは、検事の力不足だ」
「でも、不起訴はそれで終わり。あんまりだ」
また、検事たちの言葉が、次のように記されていた。
加島は言う。「仮に自分の身内が同じ事故にあったら、私だって納得できないだろう」。古賀も「何とかしたいのは山々だったが、法と証拠に基づいて判断せざるを得なかった」と振り返り、「遺族の思いに応えることができなかった以上、批判は検察が受け止めるしかない」と思っている。
怒りと無念さを吐き出す、公判という場を失ったことで、遺族や被害者たちはそれを昇華する機会を失うのだな、と感じた。同時に、こうした不起訴処分の陰にも、苦悩、無念さや批判を一身に受け止めねばならないという、検事たちの知られざる苦労があるのだなと思う。説明会での、遺族の叫ぶような無念の言葉を聞いた時、何処に自分の心を置けば良いのか、とも思う。こうした苦悩は、経験することがないので、私には判らない。だが、それを経験する人々がいる、現に検察官は日々こうした苦悩を乗り越えるのだな、と思うと、彼らに対して以前とは少し違う見方になったような気がする。
奇しくも今日尼崎での脱線事故(Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 電車脱線マンションに激突、37人死亡220人けが)が伝えられている。死者は今判明しているだけで37名と大惨事となっている。こうした事故で尊い命が失われ、再び遺族や被害者が多数生じさせられるというのも悲しすぎる。
恐らく検事達の新たな苦悩が生み出されてしまうことだろう。
それが不満ならマスメディアを通じて訴えるか別途民事訴訟を提起して下さい、ということになるのですが、“津隣人訴訟”で見られたように、民事訴訟を通じて被害感情をぶつけようとすると「命を金に換えるつもりか」とどこからか批判されるということもあり、また訴訟コストに耐えられる人ばかりでもないわけで、なかなか思いを伝えられない現実があるように思います。
有罪率99%を守り続けるために、53.9%もの事件を不起訴若しくは起訴猶予にしているという現状を踏まえると、検察は被害者・遺族の思いを過剰に引き受けすぎているように見えてなりません。
検察には「精密司法」を守っているのは自分たちだ、という自負があるのでしょうが、もっと裁判所に引き受けてもらい、公判で被害感情をつまびらかにした上で社会の判断に委ねてもよいのではないかなあ、と私などは考えてしまいます。
関係ないんで。