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日本再興~~きっと未来はある

2007年12月31日 19時30分08秒 | 社会全般
ニッポン、チャチャチャ、じゃないけれど(古い?)、ここはひとつ強力な応援ということで、楽観派最右翼の1人(笑)として展望や願望等を書いてみたい。


1)今年を振り返って

厄年を迎えたので、ひっそりと大人しくしていようと思っていたのが幸いしたかもしれない。来年は後厄らしいので、依然として注意が必要だろうと思うが、悪い時期を過ぎれば新たな展開も出てこよう(例によって、都合のいい願望?かも、笑)。

個人的な話で恐縮であるが、まずは経済環境から。
投資の含み損は残ったままだし、塩漬け覚悟で待っているが、どうなるかは判らない。けど、多分大丈夫だろう(何が?)。年度末の配当を楽しみに待つことにしているよ。今のところ食べるに困らぬくらいには生活できてはいるが、どうなるか判らないな。住宅ローンの金利引き上げも痛いし。日銀が余計な利上げなんかをするもんだから、短期もののローン金利は上昇幅が大きかったからね。繰上げ返済などで元金を減らしてきたし、短期変動金利の適用で恩恵を受けてきたのだが、その効果が剥落していくかもしれない。前年には0.25ポイントの引き上げ幅だったものが、今年は0.7ポイントも上げられてしまった。短期プライムレートの上昇幅を大きく上回っての引き上げとなってしまい、インターバンクの話どころか庶民の家計をモロに直撃食らわされたようなもんですな。それと、定率減税廃止の「実質増税」効果も大きい。

こうして、日銀の誤った金融政策によって、07年は「効き過ぎたブレーキ」となってしまったであろう。低い名目成長率のまま賃金上昇率は伸び悩み、物価高だけが先に来ることになってしまった。来年春以降に企業が賃金引上げに動き、正規雇用を増やし、その恩恵が中小企業にも波及するのを期待するしかない。賃金上昇が明確になっていけば、国内消費はそこそこ維持されうるであろう。

ブログを始めた頃には小学生だったウチの子も、いよいよ受験生となり来春には高校受験だ。どうなるのか判らないけれども、あまり口出しせずにいる。なるようになるだろう、きっと(笑)。これも楽観過ぎかな?

そんなわけで、子年の「始まり」みたいなものにも期待している。父が生きていれば、長嶋さんと同じ72歳にもなるのだな、と思うと、自分が歳をとったのだな、と改めて感じる。


2)日本経済について

円高傾向に傾くことはあっても、逆は少ないような気がする。1ドル105円前後をつけたのは05年1月頃だったと思うので、概ね周期的な波動を思い起こせば、08年後半から09年初め頃にかけてその近辺まで行くのではなかろうか、などど思ったりする。大統領選後の影響もあるかもしれないけど、よく判らない。

現在のところ、物価高が先に来て暗い見通しとなっていると思うが、そこから先が重要であって、必ずしも悪材料ばかりとも思っていない。企業が値上げした効果で売上高を増やすのであれば、賃金にその一部を上乗せするのが当然であろう。日本人の場合には、成果主義的に賃金を弾力的に決定するという機構が元々うまく備わっていない。成績は「チームのもの」であって、個人の正確な評価というのが出来難いからではないかな、と思っている。それをある程度機械的に解消するために、ベースアップとか年功序列的賃金体系を形成してきたのであろうな、とも思っている。なので、値上げで回収した一部は賃金引上げに使ってあげて欲しい。

日銀批判はこれまで通りであるが、「セイフティ・マージンを取っておけ」としつこく忠告していたにも関わらず、度重なる利上げなどに踏み切ったせいで、変動リスクを吸収できる余力は残されていなかった。血圧を下限ギリギリにしておくと、急な出血があったりすると忽ち急激な血圧低下となり、循環動態の不安定化となってしまうのである。僅かな「ショック」に見舞われるだけで、自律的な回復機構のみでは耐え切れない状態に陥りやすい、ということ。健康体で予備能が十分備わっていれば、多少の出血などが起こったとしても重要臓器の循環はオートレギュレーションが働いて自律的に維持されるし、危機的状況には至らないのだ。しかし、元が「病み上がり」で弱々しいのに、ギリギリの循環バランスにされてしまえば、ごく僅かな変動要因でさえ吸収できずバランスは維持されないのである。予め「出血が予想されるであろう」という見通しを立てて、血が本格的に出始める前に準備しておきさえすれば慌てることにもならないのだが、定率減税廃止のマイナス効果、賃金上昇が弱い、などのジワジワ出る「出血要因」(一気に出血するタイプではないということ)への備えができていなかったので、「建築基準法改正ショック」とか「サブプライムショック」などのように「ジャーッ」と出血したりすると、対応できなくなるのである。

これら2つのショックの大きさは、日本では致命的インパクトを持つようなものではないのにも関わらず、政策運営の稚拙さによって「下落幅」は大きくなってしまう、ということだ。もっと安全運転を意識していれば、これほど急ブレーキとはならなかった、ということ。これら失策により、日本国民は数十兆円か百兆円規模で「経済的損失」を与えられたということである。失策の大きさをよく考えてみるとよい。これまでの失われた15年は、この連続であって、単年度で失われた損失額が数十兆円にもなるのであり、「浮いた年金」とかの比ではないことを国民も政治家も銘記するべきである。

現在の原油高や相次ぐ値上げは、短期的にはマイナスのインパクトを持つものであると思うが、本来的な考え方でいうと「物価が変動する」のは経済学的には当然なのであって、何十年も同じ値段が継続する、ということを想定する方がむしろ異常である。それが成り立つのは、外部環境が不変で原材料費が一定であることが永続する場合くらいだろう。天候とか災害などで小麦の値段が変わるのは普通であり、その変動幅が「これまで慣れていた」幅を超えてくるようになった、ということだろう。そもそも変動の全てを吸収しようとする発想は限度があるのである。生鮮品は頻繁に変動しているのに、これが他の製品になると「変動しない」ものであると信じることの方が不自然なのである。

これまでは企業努力といって、「何とか値上げしないように」と遮二無二頑張ってきたが、それにも限界があるのは当然であろう。価格の構成にもよるが、変動費の全てを内部的に吸収しようとして、人件費などの固定費削減に努めてきたものの、その吸収には無理があるのである。削られた人件費は、回りまわって社会全体の消費を抑制し、自社の不振にも貢献してしまうということである。なので、価格改定は、あまりに頻繁に行うとそのコストが多くなってしまうけれども、年に1回とか2回くらい変えたとしても、それがオカシイということにはならないだろう。企業規模によっても吸収幅は異なり、小さい規模の企業ほど価格改定は頻繁に必要になるであろう。


それと株式市場のことだが、何とかパキスタンが落ちついてもらうことを祈っている。選挙実施にこぎ着けられれば、波乱は残されるものの、先進国の市場には大きなマイナス要因とはならないのではないかと考えている。海外投資家は依然として売り越しが続くであろうが、国内政治の転換点(日銀総裁選びや総選挙を含めて)を迎えることがあるかもしれず、年末に向けて上昇が期待できるのではないかと思っている。これまで逆回転だった、物価下落・賃金低下・低成長という歯車が、以前の順回転に戻って軌道に乗れば、ある程度の名目成長率が戻ってこよう。いや、これは必ず戻さなければならない。


3)必要なのは「何かを信じる力」

これまでの低迷期で日本が失ってきたものは、多くの「信ずるべき何か」や「これまで信じてきたもの」だったろう。それは社会全般の広範囲に及ぶものであったと思う。人間関係から始まって、仕事も、政治や行政も、ありとあらゆるものが信じられなくなった。家族でさえ不倫だの何だので、実は互いに信じてないのかもしれない。夫は外で働き妻は家事や子育てと信じてきたら、古い価値観であり新しい女性は違うということになった。長年勤めた会社を信じていたのに、非情に切り捨てた。人の羨むような大企業や銀行に勤めていて、潰れることなどないと思っていたのに、消えてなくなった。公営だから、公務員だから、親方日の丸だと思っていたのに、突然公務員ではなくなった。政治家や官僚たちも、信じられなくなった。国の制度でさえも、年金の如く無条件には信じられるものでなくなった。こうして、かつて信じられてきた多くのものが壊れていった。それ故、多くの人々は、これまでとは違った「信じられる何か」を求めているのかもしれない。イスラム教徒みたいに確固たる宗教でもあればいいのかもしれないが、日本では最も信頼度の低いのが宗教であるらしいので、カルトまがいのものやスピリチュアルものや霊感商法ものなどに走ってしまっているのかもしれない。こうした精神分析的な話は全く知らないので、適当に書いたのだけれども、「信ずるべき何か」を失ってしまった日本人の多くは、迷走を続けるようになってしまったように思われるのである。

私自身はかなり楽観的だろうと思っているのだが、大抵の場合「きっとよくなるだろう」みたいな「良いシナリオ」を想定してそれを割りと容易に信じているからなのかな、と感じている。これは精神的には大変よろしいのではないかと思っているのである。何といっても、悩みが少ない(笑)。心配事のいくつかは消えてなくなる。眉間のシワが減る。ということで、幸せ気分は大幅に増強される。この逆の人々も大勢いて、常に心配していたり気にかけていたりすると、些細なことにさえ過敏に反応していたりするのではなかろうか、と思ったりする。どんな場所でもどんな体勢でも寝られるし、不眠などになったことが一度もないけど、心配事を多く抱える人々は眠れなくなったりするとか聞くので、可哀想だなと思っている。

リスクに対しては、心配してもしなくてもリスクの大きさは変わらないので、どれだけ心配してもあまり意味はないと思っている。心配すればするほどリスクが小さくなるとか、回避できるようになるわけではないのですからね。それよりも、起こりえるリスクに対しては、より具体的に個別の対策を着実に講じることを考える方が、深く心配するよりも効果的ではないかと思う。例えば、「年金不安」があるなら、いくら不安に思っても、その心配の度合いでもらえる額が増えたり減ったりするわけではないのですから、「自分で貯金」「自分で積立」「年金保険加入」「資産形成・運用」といったことを考えて、自分の実行できる小さいことを一歩一歩着実にやっていくことがいいのではないか。そうすれば、年金不安の大きさにはあまり関係なくなっていき、「まあもらえればラッキーだな」という程度に心配の大きさは減るだろう。


自分を信じる、信じられるようになるまで努力する、そういうことの積み重ねだろうと思う。きっとできる、やればできるんだ、と信じること。自信を回復すること。それが今の日本には足りない。
仕事の結果を信じてもらえるように全力で誠実にやる、企業に限らず、どんな仕事の人たちであっても、同じだと思う。政治家も官僚も同じはずだ。自信に満ち溢れたリーダーが必要だ。人々を信じさせることのできるような人間が必要だ。自らを信じることができない者は、決して多くの人々に信じさせることはできない。宗教っぽくなってしまうかもしれないが、人々に自信と勇気を与えるのは、こうした信じさせる力を持つリーダーである。

果たして来年には、そうしたリーダーが登場するであろうか。



今年1年間、ご愛読頂き有難うございました。
それでは皆さん、よいお年を。





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