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世界統一と自由貿易

2011年10月14日 20時43分01秒 | 経済関連
経済学的には、自由貿易は正当であると学者たちは口を揃えて言うだろう。必ずしも、これに同意できないというものではない。ただ、現実世界は、経済学が教えてくれること以上に、はるかに複雑で解決が難しい問題を抱えている、と私は考えていることは最初に言っておこう。

経済学というのは、不明なことが多い割に、やたらと説教がましい。経済学の想定している世界というのは、非常に単純化して言うなら、基本的部分で「世界統一が果たされている」というようなことがある。全世界が、同一市場であり、同一価格、同一賃金であることを要求する、ということである。過去にも幾度か例示してきたが、これは化学で言うところの、平衡状態と同じ意味合いである、ということだ。


水槽のような容器U1、U2、U3、…Unがあって、それぞれの水槽の中には、何かの分子が雑多に入っている。水槽が独立で別々に隔てられているなら、中身が移動することはないが、これらの水槽が全てパイプで連結されると、どうなるだろうか?
全ての水槽の分子は均一になるまで移動し、水槽内の各分子の濃度が同じになるであろう、というのが、平衡状態ということの意味だ。経済でも、これと同じ考え方をするのである。状態の違いというのは、例えば価格差とか、賃金の差などということと同様の意味を持つということだ。元々の分子構成の違いというのは、例えば産業構成の違い、というのと似ている。

仮に、水槽ごとの特徴のようなものがあって―「比較優位」的な意味合いだ―、特定の分子だけをトラップする構造を有するとしても、平衡状態までは移動を続けることになるだろう。この場合、各水槽の分子構成が完全に同一とならないが、やはり平衡状態となるまで、分子移動は起こるだろう。

こうした「完全に連結された水槽」という状態(経済が統合された状態)は、経済学的には望ましいものであるに違いない。こうした世界では、貨幣も政府も統一されているであろう、ということである。中央銀行も勿論一つになっているだろう。世界政府の誕生、ということかもしれない。


現実世界では、どうなのだろうか?
今回のユーロ圏の問題を見れば明らかなように、「統合された状態」というのが果たして「望ましいのか」ということである。
経済学者たちは、恐らく別々なことを言うだろう。
貨幣や労働といった基本的な部分が統一されているにも関わらず、そのこと自体が「弱点」であるかのように主張する者がいるだろう。各々の国は異なる制度や法を抱えている、とか、財政は別だ、とか、中央銀行の役割が云々とか、いくらでも悪い理由が挙げられてきたであろう。

日本は、都道府県は別だが、貨幣は同じだし、税制も基本的には同じだ。財政に当たる部分は「自治体の権限」ということで、若干は異なる。都道府県ごとの債券の発行も可能だ。地方の財源は、恐らく国よりも多いだろう。
米国であると、州政府権限は強く、法制度は似てはいるが、別々の法が存在している。財政も別、連銀も別にある。が、ドルという貨幣は同一で、連邦法も同一だ。
日本や米国だって、統合された状態と看做せるであろう。これがEUと何がどう違い、その違いがどんな問題を引き起こし、経済学の教科書にあるような「夢の世界」となることを阻むのであろうか。日本も、米国も自由貿易と似たような状況を作り出しているが、これがEUになると何がダメなのであろうか。


世界を統一し、同一市場、同一価格、同一原則、などを正当化する人々が、何故かユーロの問題となると「通貨統合自体に問題がある」などと言うわけである。全世界の統一通貨でいいはずなのに、それを認めようとしないのだ(笑)。全ての国が金本位制であれば、同一通貨と看做せなくもないが、これははるか以前に崩壊した体制であろう。早い話が、「現実世界では無理がある」ということなのではないのか?

通貨単位の統一が無理なのではなく、金という偏在希少のものを基準に用いるのがダメだというのであれば、銅でも鉄でもいいので、統一しても何ら問題ないのではないかと思うのだが。鉄でもいいなら、紙でもいいはずだ。紙、すなわち世界統一の通貨ということを意味する。同一市場だの、自由貿易だのと言う方々が、何故か「同一通貨」は拒否するとか、否定的なのが不思議ではある。

経済学の言う統一された市場なり、政府なり、通貨なり、中央銀行なりがあるとして、その大きさについて最適とか適切な基準といったものを見ることがないわけだが、日本の都道府県は良くて、EUがダメなのは何故なのかな、と。或いは、米国の”合州”国(合衆国のことだ)は良くて、EUはダメなのはどうしてなのだろう?大きさでは、区切れないということか。


経済学の教科書では、学問的な「平衡状態」に向かう時の問題というものを、あまり教えてはくれない。連結された水槽同士は、時間がゼロ(とみなせるくらい短い時間)で、一足飛びに状態変化が起こるわけではない。経済学という幻想であれば、理屈の上では、あっという間(瞬時?)に起こるらしいが、現実にそんなことは起こらない。特に、強欲な連中が狙うのは、こうした不均衡のある場所だ。

水槽U1とU2だけ連結すると、その格差が平衡状態となるまで中身が移動する。その落差があることこそ、「金を生み出す」ということに他ならないのだ。平衡状態となるまで移動が必要なのだが、その部分こそが「金儲け」の根本なのである。移動にはコストがかかるので、U1とU2の間の落差が存在し続ける限り、これを「均衡へと向かわせる経済活動」が存在するのだ。一方の価格が下がってゆき、もう一方では価格が上がる、といったような変化だ。この「価格が上がってゆく」過程に、金儲けの材料が埋まっている、ということなのである。で、落差がなくなるまで―つまり平衡状態になるまで―は、こうした「金儲けの機構」(普通は各種の取引や価格決定機構などだ)が必要とされるが、均衡に至ってしまうと、金儲けの手段は失われてしまうのである(株価だって同様だろう。安く放置されていた株式は、いずれ”正当な価格”まで上昇するだろうから、先回りして発見できた人間は買っておくといずれ値上がりして儲けられる、という寸法なのだ。上がり切ってしまうと、そこからはもう儲けがなくなってしまう)。


バナナを売る島が2つあって、一方の価格が100円、もう一方が200円であれば、両者の取引が同一市場で行われるようになる(連結されるということだ)と、100円の方から200円の方へとバナナが流れて(運搬されて)ゆく。その結果、100円だったバナナが値上がりし、両者が同一の価格となるまでバナナの流れが続くことになる。けれど、バナナの価格が同一に到達すると、もう、バナナの流れは以前のようにはならない。運ぶ必要性がどんどん減少してゆくからである。
このような、「バナナ運搬」の必要性が存在している間は、この商売によって儲けることができる、というような意味を持っている。


このように、異なる市場を連結すると、両者が均衡状態に至る過程の中で、大儲けが可能になるわけだが、この儲けの果実を「一方の狡賢いヤツが総取りする」という事態が考えられるわけである。自由貿易そのものの害、というよりも、こうした「不均衡を解消する過程」で大儲けを企む連中が利益を毟り取ってゆくことに問題があるのだ。


また、人間は分子じゃないから、簡単には移動できない。分子構成が変わる過程では、産業構造が変化するのと同じなので、濃度の高い分子が拡散してゆくのと同じように、ある業種では大幅な労働者数の変化を受容せねばならなくなるのである。そのこと自体が、社会的コストを発生させるであろう。何故経済学理論が机上の空論的な幻想であるという主張をしたくなるかといえば、こうしたコストの説明を正確にしていないからだ。


「水槽を連結すれば、平衡状態となるであろう」
ということを言えるとしても、これを現実に実行するということになると、様々な障害が存在しているということを、経済学者たちは自覚するべきである。

各市場を連結するということが、どういう困難を伴うか、そのコストがどのくらいのものなのか、連結した結果、どのような弊害を生じるか、連結体の大きさが大きい場合と小さい場合の違いはどうなのか、そういうことを、経済学理論を用いて正確に記述できてはじめて、「各水槽を連結すべし」と唱えるべきだ。

市場を統一するのに、何故統一通貨なくしてOKなのか、そういうことを明らかにできる人間だけが、「市場を統一せよ」と主張すべきなのである。




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