いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

ガチンコ!深読みクラブ

2008年06月20日 21時05分22秒 | いいことないかな
特に、意味はありません。ただ何となく。
判る人だけ判ってくれればいいです。


・酷評は、時として讃辞を超える効果をもたらす:

字句の通り。多分、そうなんじゃないかな、と。つまらん宣伝をするくらいなら、こき下ろした方がよいこともある。素材が割りと平凡であったり、ややとっつき難いものであったり、興味を誘うような魅力に欠けるような場合、ありきたりの「良かった、素晴らしかった、心に残った」みたいな美辞麗句は、情報の濁流に呑み込まれてしまう。しかし、ネガティブなインパクトは人々の心に、深い印象を残すことがあるかもしれない。テストの点数が正規分布なら、100点満点も、0点(*)も同じだ。最大讃辞が憚られる時、70点や80点をつけるくらいなら、いっそ0点をつけた方がインパクトはあるかも。なので意図的に舌鋒が鋭くなっていることがあるかもしれない。
最近の例では、「せんと君」かな。はじめの頃は圧倒的に酷評が多かったが、印象を深く残すことに成功した。結果、かなりの人数に「せんと君」は認知され、宣伝効果は高まったに違いない。

もしも疑うのなら、同じ評者がここ最近出した評で、0点以外のものは何があったのか挙げてみるとよい。多分、殆どの人たちが挙げられないだろうと思う。それは、注目度が低く、見ていたとしても印象には残らないからだ。マーケティング的?には、「0点効果」はかなりあった、ということだ。カリスマに乏しいものを売ろうと思う時、通常の方法が通用しないとか、必ずしも効果を得られなさそうという予想があるのなら、「鬼手」として使えることがある(正攻法ではないので、あくまで例外的にしか用いることができないのと、使い方を誤れば本当に沈むので注意が必要)。

(*:「ロボコン、0点!」は無関係)


・名所巡りルートを書くのは凡人がやればいい:

かなりヘンな表現だが。いいのが思いつかないので。
ガイドブックでも何でもいいのだが、代表的なルートだの観光コースだのを書くのは、他の人(凡人)にお任せしようということだろう。旅馴れた人が行くコースを書くのは一ランク上だが、なまじ知識がある故に「通」気取りのありきたりなルートになることがある。さらに上級なのは、「ハマリ」パターンを予め探し出し、トラップルートを示しておくことだ。
「~なんじゃないのかな?」というある人の疑問に対して、「ああ、それはね、~~だからなんだよ。それは既に常識さ。」みたいに答えてしまうのが「ハマリ」になっている、という場合があるのだ。こうした「~~だからなんだよ」という答えを先回りして考えておき、トラップルートを回避する為のルートを書くのが、「上級者」ということなのだろう。多分それを意識すると、平凡な「名所巡り感想文」を書くのが躊躇われる、ということだろう。いや、むしろ「そんなもん書いてどうすんの、アホか」と内心思っているに違いない。


・免疫が必要だ(笑):

相手のレベルは色々とある。いきなり「目が覚めました」とか言い出す連中が出るのも、「かなわんな」、と。多分、読む時か書いている時には、思わず悪態が口をついて出たことだろう。「ケッ、何で…」とか「本気で…」とか何とか(笑)。

◇◇◇


最後に、全くの適当。ただの雑感ですので。


現在から過去のある時点を振り返ってみた時に、どうしてこう考えたんだろう、とか、何故失敗を予測できなかったんだろう、とか、そういうことを考えることができる。ある時点の人にとっては、「失敗することを知ることができない」からこそ、「そういう考え」を持つのだ、みたいなこと。何を言っているのか、自分でもヘンだなと思うけど、要するにそういうようなことなんですよ。

ある病気があって、その治療法とかが昔はこんなおかしな治療をしていた、とか、当時の人間はみんな間違ってたのでアホだな、とか、そういうのはあるのだろう。けれど、どうしてそんなことになってしまったのかを考えるのが未来に役立ったり、現時点でも役立ったり、ミスを犯す過程のやり方や考え方にヒントがあったり、そういうことがいっぱい詰まっていたりする。病気の情報が足りなくて理解が間違っていたのか、診断技術が未熟で不確実だったからなのか、薬が発見されてなくて他に手がなかったのか、別の病気と混同していただけの単なるミスか、悪魔信仰(笑)による社会的要因だったからなのか、そういうようなことは、色々と違うわけです。なので、間違っていた過去の知識や情報にも、それなりに見るべき価値があるのだろうな、と思っています。失敗の過程を探る・知ることにも、意味があるのだろうな、と。

あと、実は考え方や治療法の基本部分は正しかったけれど、症例数が少なすぎて「失敗の方が多かった」という結果があったとしても、必ずしも「間違いだ」と断定するのが難しいことも有り得る、とは思う。治療法Xがあって、使用した5例全例で転帰が死亡であったとしても、「治療法Xは死亡する、無効だ、Xを選択するのは誤りだ」みたいな断定ができるとは限らない、ということです。本当は、治療法Xは「治療法としては正しくて効果があった」かもしれないが、他の理由や要因で外見上失敗だった、と見えてしまうこともあるかもな、と。これが5例ではなく1000例やれば、65%で効果が確認できた、みたいなことですね。どうして治療法Xを考え出したのか、何故これを選択しようとしたのか、そういうことを考えてみることに意義があるんだろうな、と。



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