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検察批判を封じ込めるマスコミの自己正当化

2010年01月22日 15時15分58秒 | おかしいぞ
検察批判や、報道姿勢への疑念が一部識者たちから出され、その後に少しは沈静化してきてはいるものの、一部メディアは依然として自己正当化を貫いているようである。報道の自由は必要だが、行き過ぎは行き過ぎと言わざるを得ない。


1)検察の恣意性

これも書いてきた通りであるが、また書いておこうと思う。finalvent氏が西山事件について取り上げていたので、それについても触れておきたい。

簡単に書くと次のようになる。

【例1:西山事件】→西山事件 - Wikipedia
・国家公務員(外務省)―国家公務員法違反で起訴
・新聞記者―同、起訴

【例2:鑑定医による漏洩事件】→参考記事1
・鑑定医師―刑法134条違反で起訴
・取材側―著者、出版社ともにセーフ

【例3:防衛庁情報漏洩事件】→参考記事2
・自衛官(防衛庁)―自衛隊法違反、不起訴
・読売新聞記者―取調なし、送検なし


例1については説明するまでもなく、国家公務員の秘密漏洩はアウトということである。たとえ、取材であっても、ということになる。取材方法等の問題、というのは論点が問われる可能性はあるが、条文をそのまま適用すれば違法という理屈を付けるのはさほど困難とは言えないだろう。違法な取材方法とか、違法ではなくても裁判官や検察官の「アウト」とみなす方法なら、ダメということだな。しかも、新聞記者側が「そそのかし」に該当するという認定であった。


例2は、裁判にはならなかった事例(少年事件なので普通の裁判はないから)の調書等、資料を見せたらアウト、という判断である。検察側の論理構成とか知らないけれども、起訴するんだし裁判所も有罪ということだったと思うので、アウトなんだな。
そもそも、裁判後には刑事訴訟法によれば裁判記録(調書等の証拠類も含めて)は何人も閲覧できるということになっているのが原則であり、どうしても見てはいけないというものについては検察庁や裁判所の許可を必要とするものである。本来的には、処分決定後であれば見てもいいよ、というのが基本原則であるはずなのに、それを取材者に見せたらアウトという理屈を適用されるわけだ。検察庁の公式見解として、不起訴事件の調書や証拠関係についても「訴訟事件と同等に扱う」としていながら、じゃあ刑訴法の閲覧規定に基づいて見てもいいよと言うかといえば、但書の部分で「恣意的に見せない」ということをいくらでもコントロールできてしまうわけである。
検察の理屈というのは、本来「原則として見てもいい」調書類を見せたら秘密漏洩罪適用ということである。


例3は、マイナーな事件だったから覚えている人は少ないであろう。
これも特別職国家公務員たる自衛官が秘密を漏らしたということで送検された事例である。

元1等空佐を起訴猶予 防衛秘密漏えいで東京地検 - 47NEWS(よんななニュース)
記事では、『元1佐が情報漏えいを認め反省しているほか、2日付で懲戒免職となったことや、防衛省の再発防止策などを考慮した。自衛隊法には情報提供をそそのかす教唆罪もあるが、記者は書類送検されなかった。金銭提供など社会通念を逸脱する行為がないとされたためで、地検も「現在の証拠で十分事実認定できる」として記者への事情聴取をしなかった。』と述べられている。

つまり、不起訴処分にはなったものの、違法性が消えたわけではない。もっと謎であるのは、教唆が問われるはずの読売記者には事情聴取さえ行われなかった、ということである。要するに、恣意性のど真ん中、ということだ。検察とマスコミが結託して協力すれば、どういう事態を招くのか、ということは考えてみるべきであろうね。


ならば、法務省職員とか、検察庁の検察官とか、そういう人たちの「秘密漏洩」は違法認定されないのか?取材ならよい、ということか?そうであれば、西山事件の違法は何故認定されたのか?取材方法云々と言うのなら、例2では取材側の手法に問題が問われてないのに鑑定医側だけに刑責を問うのは何故か?検察は不起訴か起訴猶予も選択できたはずなのに、何故起訴だったのか?検察が保持してきた情報公開の決定権限を、無謀にも侵したからか?
例3の自衛隊法118条違反では、秘密漏示だけではなく、教唆や幇助者も違法に問えるのに、読売新聞記者への取調どころか事情聴取さえも行われなかった(笑)のは何故なのか?検察は、特定報道機関に対しては特別の取り計らいでもする習慣でもあるのだろうか?


報道が書けなくなったら終わり、というのはその通りであろう。
しかし、情報統制を検察が行い、そのお先棒を担ぐだけの報道が正当化されるとは到底考えられない。検察では恣意的運用を行っていないのだ、ということの説得的説明ができるなら、是非ともそれを知りたいものだ。

本当に取材を正当化したいのなら、西山事件だけじゃなく例2や例3の事件においても、マスコミ側が徹底的に抵抗すべきだし、反対を粘り強く訴え続けるべきではないのか。もし、各報道機関がそうした論説を展開していたのであれば、今回のような疑いを抱くことはなかったかもしれない。
だが、現実は、そうではなかった。
検察の恣意性と同調するかの如く、マスコミもまた言論の危機や取材の危機には無反応であったし、情報統制の域を出ない報道姿勢が殆どであったと受け止めている。


次は、マスコミ側の問題を取り上げる。

(つづく)




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