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秋葉原事件の犯人は何故犯行に及んだのか

2008年06月14日 15時22分06秒 | 社会全般
アキバの恐るべき事件について、何も書かないでおこうと思っていた。識者等のコメントが多く出るであろうから、敢えて言うべきことなどないのではないかな、と思っていたので。
が、やはり書き留めておこうと思った。


被害に遭われた方々、ご遺族やその他関係者の方々には、かける言葉もありません。亡くなられた方々の御悔み申し上げます。決して許すことができない、というお気持ちは誰しもお持ちになるでしょう。それは私とて同じです。それでも敢えて、書こうと思いました。記事内容が不適切であるという非難があるかもしれませんが、不快に思われる方はお読みにならないようにお願い致します。

犯罪心理学とか、精神分析の専門家とか、各種有識者のご意見などは一通り出されたのではないかと思います。その中身については、あまり関心を払っていなかったので、よく知りません。あくまで、私独自の勝手な意見を書いていきますので、トンデモであることをお含みおき下さい。


率直に書くと、犯人の行動が極めて特殊なのかというと、そうでもないかもしれない、というのが私の考えです。いきなり、暴論から始まりましたが、人間というのはそもそもそういう生き物なのではないだろうか、というのが私の出発点です。これに類することは以前にも書いたことがあります。

「子殺し」と「イジメ」の深層を考えてみる


何故、今回の事件が極めて特殊と考えないか、というと、人間のやってきたことを振り返ると、類する行為は結構ありました。羅生門で書かれたような時代であれば、ごく普通に「見ず知らずの他人」を次々と殺して、略奪の限りを尽くすことだって普通にできていました。これが普通ではなかったかもしれませんが、ある特定の能力を持つ人間であれば、何人も無抵抗の人間を切り殺していくことはできてしまうのです。これは日本に限ったことではありません。世界中のどこでも、略奪や虐殺の類で、逃げ惑う人々を次々と殺していくことをやってのける人間は大勢存在していた、ということを言っているのです。


たとえば言葉を話せない(或いは発声できてもまだ少しだけ、とか)乳幼児くらいだと、不満や怒りを言葉で言い表せないので、手近にあるものを投げつけたり、強く叩いたり、やたらと齧ったり、といった動作をすることがあるでしょう。行動学?とか、発達・心理学的にどういった分析がなされているのかは知らないですが、見るからに怒りとかの「衝動を抑制できていない」状態ではないかな、と思うのです。なので、人間には始めからそうした衝動やそれに伴う行動が備わっているのではなかろうか、ということです。

また、少し大きくなると、子どもが昆虫を捕らえたりして残虐行為をすることがあります。生き物なのですが、意図的に足をちぎったり、羽をむしったり、というような行為を行う、ということです。結構残酷な行為であっても、平気っぽくやってしまえるのです。これも、「~をしてはいけない」というような抑制が働かない為に、割と平然として殺すことができてしまいます。

こうした行動の根本は、それをやることで人間が生き延びてきた、というような遺伝的に備わった気質のようなものなのではないか、ということです。そうでなければ、生き抜くことができなかったから、ということですね。動物を可哀想とか何とか思っていては、食べていけないですから。生き物を襲って、殺すことで生きてきたわけですから、それをいちいち抵抗感を持っていたり躊躇していては生きていけないでしょう、と。なので、本能的にはそうした「襲う」「殺す」というような行為や、それに類する行為は、生きるために必要な能力であったのだ、ということではないかな、と。乳幼児期に見られる行動には、それに近いものがあって、より「本能に近い状態」が出現する為に、衝動のままに行動したり残虐に見える行為を平然と行えるのではなかろうか、と。


大人であっても、破壊衝動みたいなものは持っていることが多いのではないでしょうか。居酒屋だったか、お皿やコップみたいな「ワレモノ」を壁に思い切り投げつけるというサービスがあったと思います。これが、まさに似ているのです。幼児が投げつけるのと、本質的に違いがなさそうかな、ということです。あれをやると、大概の人は「スカッとした気分」になれるでしょう。それで「自分の中の何か」が発散されるのです。多分、破壊衝動のようなものが満たされるので、そういうスッキリした気分になれるのではないでしょうか。

他には、ゲームセンターの射撃ゲームのようなものでしょうか。襲ってくるゾンビなんかを殺しまくる、というヤツですね(ゾンビだから既に死んでるか、笑)。ああいうのも、破壊衝動みたいなものを発散させるには、丁度いいように出来ているのかもしれません。銃を撃って撃って撃ちまくると、自分の圧倒的強さと破壊されたゾンビ軍団という対比で、気分が良くなったりするのかもしれません。皿を投げつけて粉々に破壊するのと、さしたる違いがないかも。幼児が昆虫の羽根をむしる時の、「圧倒的強さ」(自分の圧倒的優位)と同じようなものです。

ハンティングなども似ているかもしれません。キツネや鹿を狩ったりするのは、擬似的殺戮体験そのものではないかとさえ思えますからね。これも殺すことを楽しみたいというよりも、本能的な衝動部分(それとも単なるストレス?)を発散させるには有効に働くのではないでしょうか。狩り自体は高貴な方々がやっていたもので、そういう伝統的な部分もあるでしょうが、元々は恐るべき本能を押さえ込んでおく為の方策であったのかもしれません。


なので、普通の人たちにも、殆どがこうした暴力性みたいな部分や、破壊衝動のようなものがあるのではないか、ということです。これは元々遺伝的に備わっているなら、本能に近いような性質なので、なくしようがない、ということです。けれど、多くの人は誰かを殺したりはしません。みんなが犯人の如く、無差別殺人を行ったりはしません。この違いとは、一体なんでしょうか?それが一番の問題です。

多分、破壊衝動を「抑制するシステム」の形成の問題なのではなかろうか、と思っています。神経系の発達とほぼ同じなのですが、通常、神経ネットワークは「興奮系」と「抑制系」が作られていきます。興奮系シナプスのネットワークが形成されていっても、必ずといっていいほど「抑制シナプス」もできているでしょう(多分)。興奮情報が伝わっても、抑制系へのフィードバックがなされるので、無限に興奮だけが拡大していくということにはならないのです。アクセルとブレーキが両方とも作られ、アクセルを踏んでいけばいくほど自動的にブレーキも作動し始める、といった、バランスをとるようなネットワークが形成されるのです。これと同様に、本能的には破壊衝動や殺衝動みたいな部分が備わっているのですが、これをマスクしておく為の「抑制システム」が成長とともに作られていくので、大抵の人たちは殺人を行ったりはしなくなるのではないだろうか、と。

この抑制システムの大部分は「社会的適応」のようなものであるので、時代が異なればいくらでも変化してきたのではないかな、と思います。先の応仁の乱頃であれば、殺すのが得意な人たちはいくらでも殺せたし、殺すという行為が他の殺さない人間と比べて社会的に生存を脅かされるほど特殊ではなかった為に、あまり抵抗なく殺していたでありましょう。躊躇を感じる人も大勢いたと思いますが、弱い抑制システムしか持たない人というのが必ずいて、そういう人であれば割りと平然と何人も殺せたはずです。戦乱に向いている傾向の人というのは、そうした「弱い抑制システムの持ち主」なのではないでしょうか。戦士向きの気質、ということですね。幼児がトンボの胴体を笑って引きちぎるのと同じ、ということです。


上の参考記事にも書いたように、多分宗教的にこうした人間の本能部分を「押さえ込む」ということが行われるようになっていったのではないかな、と思います。昔ですから、戦乱は多くありましたし、殺人だろうが何だろうが、普通に起こっていたであろう、ということです。それを人工的に押さえ込む為の「抑制システム」として、初期には宗教が、時代が経つにつれて「社会慣習」や「法」ができていったのではないだろうか、と。
無礼者!と切り捨て御免が許された社会では、そういうレベルの抑制システムしか形成されないだろう、ということです。奴隷を殺しても罪に問われない、という社会であれば、やはりそういう抑制システムしか形成されないのです。一族を根絶やしにする為に手当たり次第おんな子ども関係なく殺せ、という命令があったから殺したんだ、というような歴史的事件なんかもありますが、アキバの犯人との違いというのはあまりないでしょう。命令を下したのが君主か、自分自らか、という程度の違いでしかない、ということです。


よく「心の闇」とか言われたりしていますが、犯人の心にどうしてこのような闇が芽生えたのか、原因究明が大事だ、というような意見が出され易いと思います。あたかも、真っ白なキャンバスに「心の闇」みたいな黒い部分が覆っていくようなイメージです。半紙に墨汁をぶちまけたような状態でもいいです。しかし、私の受ける印象というのは、元々真っ白いキャンバスでも何でもなくて、むしろ「誰もが真っ黒」な部分を宿しているのが普通の状態なのではなかろうか、ということなのです。その真っ黒になっている部分を、後天的に「覆い隠すようにしていく」というのが、上述したような抑制システムの獲得ということです。一度、この抑制システムの不調や効力が失われれば、誰もが「真っ黒な部分」―つまりは本能的なもの―が露わになり、その暴力性は行動に発揮される、ということになるのではないかな、ということです。真っ黒な部分を覆っている抑制システムは、人によってはいとも簡単に「剥げ落ちてしまう」ことが起こり得る、ということです。

なので、無差別殺戮ということは、人間が持って生まれた業のようなものであり、多分道具(武器)を持つようになったことの弊害みたいなものではないでしょうか。シマウマの群れやインパラの群れで内部で争いが起こったとしても、次々と雄も雌も関係なく襲って蹴り殺すとか角で殺すといったことは、あまり起こらないのではなかろうか、と(実際は調べてないので判りません)。人間は生きる為に武器を使っていたのですが、次第に人間同士の戦乱の為に用いるようになったので、その遺伝的素養みたいなものが引き継がれてきたのではなかろうか、と。かつては、倒すべきは人間ではなく他の動物であったものが、段々と生存を脅かす強力な敵が人間しか残らなかったから、ということではないかな、と。


形成される「抑制システム」は、主に「自分が失うもの」や「自分が受ける不利益」によって作動するかもしれません。殺す対象は、多分あまり関係がないのではないかな、と思います。キツネでも鹿でも人間でも、狩れる人は特別な違いなどなく狩るでしょう。対象の違いはあまりないのではないでしょうか(あるとしても、それは多分行為者の持つ想像力の違い*かな、と思います)。
「自分が失うもの」が大きい人には、強い抑制力が働くであろう、ということです。それは人によって違いますが、家族であったり、恋人とか、社会的地位とか、名誉や名声とか、色々でしょう。それらを失った時の自分を考えるので、実行行為まで踏み切るのは容易ではないでしょう。心理的な強いブレーキとして働くだろう、ということです。「自分が受ける不利益」というのは当たり前過ぎですけれども、「死刑になれば死ぬ」とか「~に叱られる」とか「母親から嫌われる」とか、そういうことです。子どもの時から、そうした不利益の大きさみたいなものを経験的に学んでいるでしょう。普通であれば、そういうことを勘案すると「踏み切れない」という方に傾くでしょう。けれど、社会環境として「殺戮は罰せられない」というような経験が獲得されていれば(昔みたいな状態)、不利益がないので容易に行為に及ぶでありましょう。そういう意味です。

(*:映画などで、柵やフェンスの両側で家族や恋人が離ればなれになって引き裂かれるシーンがあったりますが、サンマの大群が網にかかる時にも同じく引き裂かれているかもしれませんよね。いま目の前にあるサンマの塩焼きが、そうやって「お兄ちゃーん、お姉ちゃーん」泣、みたいに引き裂いた結果なんだな、と考えたりはしないでしょう、普通。私は子どもの頃そういうバカな想像をしたりして、網に捕らえられるサンマの演技をしたりした。それとも、人なつこく飼い主の後ろをついていく首にデカイ鈴を付けた子牛とか、ピョンピョン飛び跳ねながらお母さん羊と一緒にいた可愛らしい子羊とか、それが眼前の皿の上に載っているお肉なんだなー、みたいに相手(対象)のこととか生きてきた軌跡とか、そういうのを想像できてしまうと、殺すのは怯むよ、きっと。でも、日常ではそういった想像を消し去っているか、わざと隠蔽することに成功しているからこそ、ごく普通の「物質」としてしかみなさないようにできているんだろうな、と。それとも元から想像できないということかな。結局、誰でもそういう冷酷者みたいになれる、ということです。)


ですので、犯人にはこうした「自分が失う大事なもの」があまりなかった可能性があります。更に、「受ける不利益」ですけれども、単純に「死んでもいい」と考えていたのであれば実行可能かもしれません。持っていた抑制システムが脆くも壊れてしまった原因は、「本人にでさえ」正確には判らないかもしれませんが、抑制システムを乗り越えていけるだけの何かがあったんでしょう。


あまり考えたくないことですが、中には行為を楽しめる人間がいたりします。強い欲望によるものではないかなと思います。食欲や性欲となんら違いがなく、「襲いたい、殺したい」という欲望を抑え切れないタイプの人間はいる、ということです。多くの犯罪では、こうした欲望の制御が利かなくなる為でしょう。ただ、欲望の種類は恐らくいくつかあって、性的興奮や快楽とは全く異なったものがあるのではないかと思います。それは、破滅の欲望です。

変な喩え話ですが、ご容赦を。
相手と自分が何かのゲームをやっているとします。どんなものでもいいのですが、勝敗が決するものです。で、ここに特殊なボタンがあって、このボタンを押すと自分は敗北が決定し二度とゲームには戻れませんが、相手にも大ダメージを与える効果があるものとしましょう。
さて、自分の敗北はほぼ濃厚であるとします。逆転の望みはありません。このままでは相手が圧倒的に勝ってしまいます。相手は圧倒的優位に顔をほころばせたり、時おり不敵な笑みを浮かべ蔑んだ目で見ています。
ここで、あなたなら「ボタンを押しますか?」ということなんですよ。
自分が勝てない、敗北が決まっている時、「自分が勝てないから、相手が憎らしい、悔しいので、ボタンを押してやる」という人間なのかどうか、ということです。ここは敗北を認め、次のゲームで勝ってやる、と考えるか、もう二度と戻れないけれど相手に大ダメージを与えることのできるボタンを押すか、です。こういう「誰かを破滅に追い込みたい」という強い欲望、「誰かに大ダメージを与えてやりたい」という欲求、そういうようなものがあるのではなかろうか、と。

この欲望が強く、自分の中にある抑制システムを超えてしまうことができるなら、恐らく殺戮行為に及ぶことができてもおかしくはないかな、と思うのですよ。大ダメージを与える相手とは、まず親でしょうね。普通の抑制システムでは家族はかけがえのないものとなるでしょうが、そうではなく逆に「復讐の対象」みたいになってしまった、ということではないかな、と。自分の持ち札とか手では限界があって、ダメージを与えることもできず、破滅に追い込むこともできない時、通常の一手では届かないからこそ、先のボタンじゃないが決定的ダメージを与えてやる方法を取ったのだろうな、と。これが母親への復讐みたいなことなのではないかな、と。更に、自分がいつも劣等感を抱いていたら、先のゲームでいえば「連戦連敗」ということで常に負けなのだ、と感じていたのでは。正社員でファッションセンスが良く、女にモテていい車に乗っているような連中には、どうやっても勝てない、永遠に勝つことができない、と。だから、「オレが勝てないなら、おまえらも一緒に破滅してくれ、地獄へ道連れだぜ」みたいに、破滅に追い込みたいという欲望が強くなっていたのではないかな。この心性は、例の「オレが浮かばれないなら、戦争になっちまえ」みたいな発想とほぼ似ているのです。どうせ自分が浮かばれないなら、他のヤツラも不幸になって堕ちていけ、というような倒錯した願望を抱く、ということです。


犯人は、きっと思っていた通りに目的を達成したでしょう。
母親への復讐として、普通では考えられないような大ダメージを与えることができたのですから。心に深い傷を負わせ、生きて苦しませることができたのですから。自分の受けた苦しみ以上の地獄の苦しみを与えることができたのですから。
幸せそうに歩いているカップルや若者たちを道連れにしてしまったのですから。
そして、「誰にも押せないボタン」を押すことができた自分、これを示したのですから。みんなには到底できない最も困難な選択と行為を、「オレならばできるんだ」ということを実証できたのですから。


結局、この犯人が持っていた「抑制システム」が脆弱だったのです。子ども時代なんかに、例えばうまく喧嘩できないとか、友達に言いたいことが言えないとか、そういう対人関係の経験不足みたいなことがあったのかもしれません。大人になってきてからも、成功者と違って「守るべき何か」をあまり持たない状態でした。抑制の閾値は、低いレベルで容易に超えやすい状態であったのではないかな、と。

そして、破滅に追い込みたい欲望が極めて強かったのでしょう。特に親を破滅させてやりたかったのではないでしょうか。それが自分をこんな風にした親への復讐であったからです。「抑制システム」を乗り越えるには十分な強さの欲望であった、ということです。

最後に、他の連中を軽々と凌ぐ「自分」を示すことができた、ということです。これまで劣等感に苛まれ続け、敗者のひねた根性が染み付いた自分、それらを全て打ち消し、コンプレックスから解き放たれる唯一の方法が、「誰にもできないことができる自分」を示せるということだったのではないでしょうか。これまでコンプレックスの対象であった勝ち組や彼女のいる連中なんかに比べて、自分が絶対的優位に立てる方法が、「誰にも押すことのできないボタンを押せる自分」を示すことだったのではないでしょうか。無視されて続けてきた自分から目を逸らすことができないようにすること、社会の注目を一身に集めることで「無視し続けてきたヤツラを見返せる方法」を犯人は選んだのだ、ということです。

犯人は当初の目的通り、勝ったのです。


多分、犯人自身でも言葉では説明ができないのではないかと思います。真相とは、心の深層と同じく誰にも判らないかもしれません。心の闇、みたいなものは、恐らく誰でも持っていて、それは普段隠されているだけに過ぎないでしょう。
応仁の乱しかり、サッコ・ディ・ローマしかり、人間にはそういう性質が備わっているようにしか思えないのです。