オリオン村(跡地)

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2007年通信簿 44 早川大輔

2007-11-25 22:28:30 | 千葉ロッテ

44 早川大輔 外野手 32歳 年俸2300万円

【2007年成績】 133試合 459打数 72得点 130安打 打率.283 17二塁打 8三塁打 5本塁打 44打点 16盗塁 50四死球 74三振 得点圏打率.292

この早川がいなかったら今年の2位はなかったのではないか、そう思えるほど救世主的な活躍をしてくれました。
投手のMVPが成瀬なら、野手のMVPは早川だと思います。

この早川と辻のトレードが発表になった時、正直なところ意外な感がありました。
貴重な第三の捕手であり、また右の打者としても出番が増えつつあった辻を出してまで獲る選手なのか、これが当時の私の評価でした。
確かに早川は足が速くバレンタイン監督好みであり、また活躍した年にはロッテ戦でも痛い目にあわされた記憶はあったのですが、前年は出番が減っていただけに得意の「昔の名前で出ています」トレードではないかと危惧さえしました。
実際のところオープン戦では出番がありつつも結果を出せず、ぎりぎり何とか1軍に残った感じでした。
代田の代わり、あるいは諸積の後釜、その程度に考えていました。

しかしそんな私の思いをあざ笑うかのように早川は少ない出番で確実に結果を出して、いつの間にかレギュラーポジションを獲得していました。
今でも私はあれはフリだと思っているのですが、感情を表に出してプレーする姿は今までのロッテの選手にはいなかったタイプで新鮮味を感じました。
5月にはすっかりと足場を固め、既になくてはならない存在に昇華していました。

早川大輔 (5/6 オリオン村)

そんな早川を一気に有名にしたのは、オリックスの宮内オーナーがトレード失敗に激怒したと報道されたことでした。
オリックスが行ったトレードの失敗の最大の例として早川の名を出し、なぜあんなにいい選手を出したのかとフロントを叱ったとのことでした。
もっとも当の早川はプロ入り当初からの自信家ぶりを発揮し、これぐらいのことは出来て当然と語っていたようです。

早川は自信家 (6/1 オリオン村)

早川の武器はやはり足、俊足を活かした内野安打などで特徴をアピールしています。
三塁打はリーグトップで、加速してからのスピードはその積極性も合わせるとTSUYOSHIより上かもしれません。
3試合連続三塁打などという、リーグ記録もマークしました。
前半はダメダメだった右打席も数多く打席に立つことで慣れたのか、むしろ長打力は右の方があるようです。
意外と小技の下手さっぷりを時折見せながらもチームトップの23犠打を決めていますので、充分に2番打者としてTSUYOSHIを活かす役割を果たしてくれたと言えます。
またこちらもチームトップの16死球はリーグ2位で、逃げずに積極的に打ちにいった結果でしょう。
とにかく野球が出来て嬉しい、試合に出られて楽しくて仕方がない、そんな風が見て取れる選手だけに自然と応援したくなります。

俊足を活かした広い守備範囲とダイビングキャッチも厭わない果敢なプレーも、ロッテの外野は鉄壁と言わしめるのに充分な貢献をしています。
肩はさほど強くないのか送球にやや難があり、あまり考えずに放っている嫌いもありますが、全体的に見ればゴールデングラブの候補になってもおかしくないと思います。

来季は各チームから相当マークされるでしょうし、終盤戦での失速が気にならないと言ったら嘘になります。
しかし足があり、守備力もあるだけに余程のことがない限りはレギュラーは安泰でしょう。
あるとすれば本人の油断からくるミス、不振、怪我だと思いますが、今年の試合に出られた喜びを忘れずにプレーしてくれれば来季もきっと活躍してくれると信じています。


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抑えの最有力候補は清水か

2007-11-25 20:39:06 | 千葉ロッテ

小林雅のメジャー移籍が決定し、来季の抑えをどうするかを本格的に考えなくてはならなくなりました。
仮に残留したとしても必要な行為ではありましたが、いざ現実になるといろいろと悩みも多くなります。

来季のボビー構想では「抑えは清水」 (11/25 デイリースポーツ)
ロッテの清水直行投手(32)が来季ストッパー候補に挙がっていることが24日、分かった。
昨年までは主に先発で4年連続2けた勝利を挙げていたが、今季は6勝10敗と不振。
来季は抑えとして再起を目指すことになる。
今季まで7連続20セーブを記録した小林雅が、FAで大リーグ・インディアンスへ移籍。
セットアッパーの薮田もFAでの大リーグ移籍が確実となっている。
バレンタイン監督は「来季、大きな課題を残している。薮田、小林雅の穴を埋めなければいけない」と話しており、守護神探しは急務だ。
そこで先発投手を抑えに回す案が浮上した。
「(先発からの)配置転換も考えている」と本多球団部部長。
最終的に小林宏らの候補から、バレンタイン監督は経験豊富な清水に白羽の矢を立てた。
清水自身は「できれば先発をやりたい」としながらも、「誰かが(小林雅の)穴を埋めなければいけない」と危機感を持っている。
清水については、先発補強を目指す阪神がトレードを打診していたが、ロッテは清水を放出しない方針を決定し本人にも通達。
清水の抑え転向により、球団は先発ができる外国人投手の補強に動く方針だ。
 

藪田のメジャー移籍も確実であり、期待していた内が手術で開幕に間に合わず、バレンタイン監督が自ら渡米してまでの新外国人投手探しも即決出来ずですから、まあ妥当な展開ではあります。
清水の場合は抑えがどうのというよりは自らの復活が大前提ですが、抑えという短いイニングであれば軸になるストレートの復調がより容易とも思えますので、悪い選択ではないと思います。
とは言え記事を見るとフロントや清水の過去の発言を繋げての推測記事でしかなく、まるで直接の打診があったかのような書きっぷりはオフのスポーツ紙ならではです。
しかも清水の2桁勝利を4年連続(本当は5年連続)と書き、よくこんな程度の知識で「ミスター完投」として阪神とのトレード最有力と書いたものかと呆れてしまいます。
もっともデイリーの記事を数日遅れで焼き直したかのようなサンスポは、そのデイリーに清水のトレードは無しと報道されて慌てているでしょうね。
いずれにせよ推測の域を出ず、また今後の新外国人投手の獲得状況にもよりますが、何にせよ清水が最有力候補であることは間違いないと思います。

そうなると空いた先発枠に誰がくるのか、ここが興味の的となります。
現時点で一番期待されるのは、社会人野球日本選手権でMVPに輝いた服部でしょう。
体格的にも中継ぎ左腕としての起用が有力視されていましたが、ここにきての3試合連続1失点完投で評価が急上昇したと思われます。
来春のキャンプで適性を見極めた上での判断になるとは思いますが、早く自分の目で服部を見てみたいと思えるような活躍ぶり、見事でした。
あまりの凄さに決勝も連投で先発かと心配していましたが、8回からの登板でほっとしました。
ドラフト1巡目指名にMVPと盆と正月が一緒にきたような騒ぎで周りからいろいろな誘いもあるでしょうが、かなり疲れも溜まっているでしょうから来季に向けてゆっくりと体を休めて欲しいと思います。

 

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島津家の野望 第8章

2007-11-25 07:30:30 | ゲーム

 

大永2年(1522年)夏、周防国の山口館は騒然とした雰囲気に包まれていた。

「殿が亡くなられたとは、誠にござりまするか。」
甲胄姿のままに広間に駆け込んできた新納忠武が叫んだ。
「忠武殿、落ち着かれよ。」
同じく甲胄姿の筆頭家老、伊集院忠公がたしなめた。
「忠公殿、どういうことでござるか。殿は、殿はどうなされたのでござりまするか。」
「忠武、落ち着けと申しておるのがわからんのか。」
広間の上座に座していた、先代当主の島津久逸が怒鳴った。
「忠武殿、二番家老たるそなたが取り乱してどういたす。そなたが浮き足立てば家中は乱れるが必定。立場をわきまえよ。」
忠公の言にようやく落ち着いたのか、忠武が腰を下ろした。
「申し訳ござらぬ。しかし急なことゆえ城井谷より駆けつけ申したが、事情がよくわかり申さぬ。」
「驚いたは我も同じよ。指月城攻めから急遽戻ったが、殿は既にお亡くなりになっておられた。」
「大殿、どういうことでござりまするか。」
忠武の問いに、久逸は横に座っていた善久の嫡男、忠良を促した。
「父上は一昨日気分が悪いと昼過ぎに横になられたのですが、翌朝には既に亡くなられておりました。」
「もしや細川殿の刺客でござりまするか。」
「いや、それはあるまい。」
久逸が忠公の方を見て答えた。
「はい。この山口館には手練れの忍びの者を多数配しておりまする。いかに優秀な素破と言えども、殿に近寄ることはかないませぬ。」
「加治木から府内、そしてこの山口館と短期間で本拠を移ったこと、また領地内の差配などの気配りで相当お疲れのご様子でした。」
忠良の言葉に、久逸が頷いた。
「あれは元々体の弱いところがあったゆえ、長年の疲れがいつしか体を蝕んでいたのやもしれぬ。」
疲れたように語る久逸に、忠公も忠武も視線を落とした。
「何にせよ各地の重臣を呼び寄せて向後のことを決めなければならぬ。忠公、皆が集まり次第評定を開くよう手配をいたせ。」
久逸が気持ちを振り絞るように忠公に命じた。

3日後、山口館の広間に各地から参集した重臣が顔を揃えていた。
「皆も既に存じておろうが、善久が急な病にて身罷った。今後のことを皆と相談したい。」
久逸の言葉に、集まった重臣たちは戸惑いの表情を隠さなかった。
「忠公、殿は確かに病で亡くなられたのだな。」
伊集院忠胤が質した。
「兄上、薬師の見立てによれば殿は心の臓を患っておられたとのことでござる。」
「確かに先年お会いした時にはお疲れのご様子ではござったが、何にせよ急すぎやせぬか。」
「その思いは私も同じでござるが、当家も大きくなりすぎのかもしれませぬ。」
「どういうことじゃ。」
「当家の支配はもはや九州全土に及んでおり、運久殿や忠朝殿は四国を攻めておられる。殿お一人で領地内を差配されるには負担が大きすぎたのやもしれませぬ。」
「そのために忠公、そなたや忠武殿、長久殿がおられるのではないのか。」
忠胤が立ちあがって怒鳴った。
「わかっておりまする。指月城攻めの大将を命ぜられた時、お断りすべきであったと後悔しておりまする。」
「忠公殿ご不在の折にはそれがしが殿のお役に立たなければならぬところ、力不足でござりました。」
三番家老、樺山長久が絞り出すような声で答えた。
「もうよい。残された者が責め合っても善久は喜ぶまい。領地が拡大したにも関わらず家中の制度を整えないままに家督を譲った我の不明である。」
久逸の言葉に、広間が静まった。

「大殿、家督の儀は忠良様がご相続されるということでよろしゅうござりますな。」
湯築城攻めから戻ったばかりの相州家の島津運久が言った。
「うむ、忠良もはや30歳、家督を相続するに早すぎることはなかろう。」
「若輩者ではあるが、父上と同様に皆の力を貸して欲しい。皆で細川殿を打ち破ろうぞ。」
やや紅潮した表情で忠良が決意を述べた。
「忠良様の力量は伊東殿を説き伏せた件で家中は皆存じておりまする。忠良様の若い力で当家を引っ張ってくだされ。」
薩州家の島津成久の言に、嫡男の忠興が続けた。
「そうでござりますな。当家もそろそろ世代交代の時期にきているのかもしれませぬ。」
「忠興、そちはわしに隠居せいと申しておるのか。」
「忠広、もしやそちも同じ様なことを考えておるのか。」
豊州家の島津忠朝も、脇に座る嫡男の忠広を見ながら言った。
「はて、何の事やら。しかし父上、そういった考えが出る時が引き際かもしれませぬぞ。」
忠広の言葉に、湿りがちだった広間に笑いがこぼれた。

「早速だが、向後のことについて相談したい。」
忠良の言葉に、重臣たちの顔が引き締まった。
「忠公、忠武、長久の家老職、そして相州殿、薩州殿、豊州殿、伊東殿、相良殿、そして我の6軍体制は当面このままといたす。」
善久が家督を相続した時と同様、大きな変化がないことを知った家臣たちが安堵の表情となった。
「しかし領地内の差配については我のみでは父上の二の舞になりかねぬ。かと言って家老たちも多忙ゆえ、軍団制を敷こうと考えておる。」
「軍団制と申しますと。」
忠公の問いに、忠良が地図を広げながら答えた。
「今まで通り敵と間近にある最前線は各軍団が受け持つものとする。しかし後方の領地は生産中心の後方支援になるがゆえ、内政に長けたものに差配を任せることにする。」
「なるほど、そうすれば我らは糧道などを気にすることなく戦えまする。」
忠武が感心したように頷いた。
「して軍団はどのようになされまするか。」
「南九州の差配を、忠昌殿にお願いしようと考えておる。」
先年帰服したばかりの本宗家に南九州を任せるとの忠良の意向に、広間がどよめいた。
「お待ちくだされ。我らは新参者も同然、そのような大任は務まりませぬ。」
本宗家・島津忠昌の代理で清水城から参じていた次男の忠隆が慌てたように答えた。
「いや、忠昌殿ゆえお願いしたい。南九州は本宗家の威光と忠昌殿、忠隆殿の人柄があってこそ治まるというもの。期待しておりますぞ。」
「何、不穏な動きがあればこの忠胤が素っ首を刎ねに駆けつけますゆえ、ご安心めされ。」
「兄上、失礼にござりますぞ。」
「そうかのう。」
忠胤の言葉に座は笑いに包まれ、忠隆もやや安堵したような表情になった。
「忠隆殿、ゆくゆくは九州全土をお任せするつもりゆえ、人材の育成も含めてお願いいたす。勝久殿も清水城にお返しいたすゆえ、兄弟で忠昌殿をお支えくだされ。」
忠昌の三男である勝久は人質の意味合いもあり山口館に出仕していた。
「ありがたき幸せ。この忠隆、勝久とともに父を支え、殿のお役に立ってみせまする。」
忠隆は勝久とともに平伏した。


永正15年(1518年)夏  相良治頼を大将とした軍を村中城の攻略に向かわせる。島津成久を大将とした軍を有智山城の攻略に向かわせる。
永正15年(1518年)秋  朝廷より従五位上・五位蔵人に叙任される。島津忠朝が岩瀬城を下す。相良治頼が村中城を下す。
永正15年(1518年)冬  島津成久が有智山城を下し、横岳家を滅ぼす。
永正16年(1519年)春  朝廷より正五位下・民部大輔に叙任される。
永正16年(1519年)夏  島津運久を大将とした軍を地蔵嶽城の攻略に向かわせる。
永正16年(1519年)秋  伊東尹祐を大将とした軍を小倉城の攻略に向かわせる。島津成久を大将とした軍を大村城の攻略に向かわせる。
永正16年(1519年)冬  朝廷より正五位上・太宰少弐に叙任される。
永正17年(1520年)夏  島津忠朝を大将とした軍を中村御所の攻略に向かわせる。
永正17年(1520年)秋  島津運久が地蔵嶽城を下す。
永正18年(1521年)春  相良治頼を大将とした軍を白狐山城の攻略に向かわせる。伊東尹祐が小倉城を下す。
永正18年(1521年)夏  朝廷より従四位下・勘解由長官に叙任される。島津成久が大村城を下す。
大永1年 (1521年)秋  島津運久を大将とした軍を湯築城の攻略に向かわせる。
大永2年 (1522年)春  伊集院忠公を大将とした軍を指月城の攻略に向かわせる。
大永2年 (1522年)夏  島津善久が病死し、嫡男・忠良が家督を相続する