電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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戦闘能力においても、士気においても薩摩軍のほうが上であったが、この劣勢を盛り返すために政府軍がとったのは、徹底的な物量作戦である。兵員にしても、また武器弾薬にしても、必要とあればいくらでも本州から船で運びこんだ。しかも、政府軍にはすでに電信が装備され、東京との連絡に活用されている。敵軍の背後に上陸する作戦もできた。薩摩軍は押し返され、西郷はとうとう鹿児島の城山で自刃する。
◆西南戦争勃発
『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p182 )
1877(明治10年) 西南戦争勃発
貴重な戦訓を残した日本最後の内乱
西郷隆盛が下野した後、西郷を担(かつ)いだ薩摩を中心とした士族の反乱、いわゆる「西南戦争」が起こる。だが、これは西郷が起こした戦争というより、周囲の状況が彼を戦争に引きずりこんだというほうが正解であろう。
実際、西南戦争の勃発直前、新政府に反乱を起こそうとする周辺の動きに対して、西郷は極力それを抑えようと努力している。自分と同じく征韓論に敗れて下野した江藤新平が「佐賀の乱」を起こした時も、西郷は援助しなかった。また、薩摩で反政府行動が始まったときにも、西郷自身は山中で狩猟をしていて、それを知らなかったと言われる。
しかし、西郷という人は、周囲から担がれれば地獄まで乗ってやろうという腹を持った人であったから、いざ戦争が始まってからは、黙って首領の地位についたのである。
もし西南戦争において西郷が積極的に動いていたら、薩摩軍の勝利とまではいかなくとも、その帰趨は大きく変わっていたかもしれない。
当時の陸軍は組織作りを始めたばかりで、近代的装備は持っていても、兵の多くは町人百姓あがりであり、ろくな訓練もしていなかったから、維新の最前線で働いた薩摩の武士たちと交戦したときには、まったく歯が立たないというありさまであった。このため、緒戦において政府軍は総崩れに近いありさまで、あっという間に熊本城は薩摩軍に包囲されてしまう。
ところが薩摩軍は戦略的なミスを犯す。それは、熊本城陥落に必要以上に執着してしまったことである。加藤清正が完成させた熊本城は天下の名城であって、そう簡単に陥(お)ちるものではない。守城の将、谷干城(たにたてき)も必死になって防戦したので、薩摩軍の主力は熊本に釘づけになってしまった。そうこうするうちに、政府軍の援軍が本州から上陸し、逆に薩摩側が包囲されることになった。
もし西郷が積極的に全軍の指揮に当たっていたら、こんなバカなことはせず、さっさと本州に向けて進撃していたはずである。とはいうものの、たとえ西郷が陣頭指揮をとったとしても、西南戦争は最終的に政府軍の勝利に終わっていたであろう。勝敗を分けたのは、結局、物量と補給力の差であった。
戦闘能力においても、士気においても薩摩軍のほうが上であったが、この劣勢を盛り返すために政府軍がとったのは、徹底的な物量作戦である。兵員にしても、また武器弾薬にしても、必要とあればいくらでも本州から船で運びこんだ。しかも、政府軍にはすでに電信が装備され、東京との連絡に活用されている。敵軍の背後に上陸する作戦もできた。薩摩軍は押し返され、西郷はとうとう鹿児島の城山で自刃する。
日清・日露戦争当時の陸軍首脳はみな西南戦争の生き残りであり、日露戦争のごく初期の段階からロシアとの講和の準備をしているのも、「たとえ弱兵であっても、補給さえ十分に行えば究極的には勝つ」「長期戦になったら物量の差が勝敗を分ける」という西南戦争の貴重な戦訓を実感として知っていたことが大きい。また、圧倒的な軍事力を持つロシアに対して、日本軍があれほどの戦果を挙げえたのは、一つには指揮していた人たちが、みな西南戦争で生き延びた人たちであったからである。
参謀総長山縣有朋、満洲派遣軍総司令官大山巌、同参謀総長児玉源太郎、さらに黒木為楨(ためもと)、奥保鞏(やすかた)、野津道貫(みちつら)、乃木希典(まれすけ)など、日露戦争に活躍した指揮官たちは、みな共通して西南戦争の体験者である。
西南戦争では、双方あわせると死傷者は3万人に上(のぼ)った。このような激戦の中では、単に才能があったり、度胸があったりするだけでは生き残れない。やはり運があり、勘がよくなければ、生き残ることはできないのである。
その意味で、西南戦争で生き残った軍人たちは、いわば“幸運の女神”に好かれた人間であった。そして、こうした人たちが日露戦争の陸軍を指揮していたということが、ロシアとの戦いに勝利を収める一つの要因になったと言っても言い過ぎではあるまい。「物量と補給の大切さ」という戦訓は、この戦いの経験者が全員いなくなった昭和の日本陸軍では忘れ去られてしまったが、ことほどさように、西南戦争は後世に大きな影響を与えたのである。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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戦闘能力においても、士気においても薩摩軍のほうが上であったが、この劣勢を盛り返すために政府軍がとったのは、徹底的な物量作戦である。兵員にしても、また武器弾薬にしても、必要とあればいくらでも本州から船で運びこんだ。しかも、政府軍にはすでに電信が装備され、東京との連絡に活用されている。敵軍の背後に上陸する作戦もできた。薩摩軍は押し返され、西郷はとうとう鹿児島の城山で自刃する。
◆西南戦争勃発
『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p182 )
1877(明治10年) 西南戦争勃発
貴重な戦訓を残した日本最後の内乱
西郷隆盛が下野した後、西郷を担(かつ)いだ薩摩を中心とした士族の反乱、いわゆる「西南戦争」が起こる。だが、これは西郷が起こした戦争というより、周囲の状況が彼を戦争に引きずりこんだというほうが正解であろう。
実際、西南戦争の勃発直前、新政府に反乱を起こそうとする周辺の動きに対して、西郷は極力それを抑えようと努力している。自分と同じく征韓論に敗れて下野した江藤新平が「佐賀の乱」を起こした時も、西郷は援助しなかった。また、薩摩で反政府行動が始まったときにも、西郷自身は山中で狩猟をしていて、それを知らなかったと言われる。
しかし、西郷という人は、周囲から担がれれば地獄まで乗ってやろうという腹を持った人であったから、いざ戦争が始まってからは、黙って首領の地位についたのである。
もし西南戦争において西郷が積極的に動いていたら、薩摩軍の勝利とまではいかなくとも、その帰趨は大きく変わっていたかもしれない。
当時の陸軍は組織作りを始めたばかりで、近代的装備は持っていても、兵の多くは町人百姓あがりであり、ろくな訓練もしていなかったから、維新の最前線で働いた薩摩の武士たちと交戦したときには、まったく歯が立たないというありさまであった。このため、緒戦において政府軍は総崩れに近いありさまで、あっという間に熊本城は薩摩軍に包囲されてしまう。
ところが薩摩軍は戦略的なミスを犯す。それは、熊本城陥落に必要以上に執着してしまったことである。加藤清正が完成させた熊本城は天下の名城であって、そう簡単に陥(お)ちるものではない。守城の将、谷干城(たにたてき)も必死になって防戦したので、薩摩軍の主力は熊本に釘づけになってしまった。そうこうするうちに、政府軍の援軍が本州から上陸し、逆に薩摩側が包囲されることになった。
もし西郷が積極的に全軍の指揮に当たっていたら、こんなバカなことはせず、さっさと本州に向けて進撃していたはずである。とはいうものの、たとえ西郷が陣頭指揮をとったとしても、西南戦争は最終的に政府軍の勝利に終わっていたであろう。勝敗を分けたのは、結局、物量と補給力の差であった。
戦闘能力においても、士気においても薩摩軍のほうが上であったが、この劣勢を盛り返すために政府軍がとったのは、徹底的な物量作戦である。兵員にしても、また武器弾薬にしても、必要とあればいくらでも本州から船で運びこんだ。しかも、政府軍にはすでに電信が装備され、東京との連絡に活用されている。敵軍の背後に上陸する作戦もできた。薩摩軍は押し返され、西郷はとうとう鹿児島の城山で自刃する。
日清・日露戦争当時の陸軍首脳はみな西南戦争の生き残りであり、日露戦争のごく初期の段階からロシアとの講和の準備をしているのも、「たとえ弱兵であっても、補給さえ十分に行えば究極的には勝つ」「長期戦になったら物量の差が勝敗を分ける」という西南戦争の貴重な戦訓を実感として知っていたことが大きい。また、圧倒的な軍事力を持つロシアに対して、日本軍があれほどの戦果を挙げえたのは、一つには指揮していた人たちが、みな西南戦争で生き延びた人たちであったからである。
参謀総長山縣有朋、満洲派遣軍総司令官大山巌、同参謀総長児玉源太郎、さらに黒木為楨(ためもと)、奥保鞏(やすかた)、野津道貫(みちつら)、乃木希典(まれすけ)など、日露戦争に活躍した指揮官たちは、みな共通して西南戦争の体験者である。
西南戦争では、双方あわせると死傷者は3万人に上(のぼ)った。このような激戦の中では、単に才能があったり、度胸があったりするだけでは生き残れない。やはり運があり、勘がよくなければ、生き残ることはできないのである。
その意味で、西南戦争で生き残った軍人たちは、いわば“幸運の女神”に好かれた人間であった。そして、こうした人たちが日露戦争の陸軍を指揮していたということが、ロシアとの戦いに勝利を収める一つの要因になったと言っても言い過ぎではあるまい。「物量と補給の大切さ」という戦訓は、この戦いの経験者が全員いなくなった昭和の日本陸軍では忘れ去られてしまったが、ことほどさように、西南戦争は後世に大きな影響を与えたのである。