電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスとしてではなく
一方が降伏するからである
D・パイプス

世田谷区の「日本語」教育に日本再生の希望の光を見る――渡部昇一教授

2008-06-17 | 04-歴史・文化・社会
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●歴史の教訓 第146回――上智大学名誉教授・渡部昇一
【「致知」http://www.chichi.co.jp/ 2008年6月号 】
国旗国歌を敬わない反日分子が各界に入り込んでいる
これは日本の根幹に関わる問題だ

(p109よりつづく)

世田谷区の日本語の授業は
教育の希望の芽を感じさせる
(p110)

あっちにもこっちにも国歌の斉唱に起立しない教師がいる。こんな教師に狙われる日本の教育にはとかく絶望的になりがちだが、そうではない。大いに希望を感じさせる芽もある。

その教科書を手にした時、私は本当にびっくりした。こんな素晴らしい教科書を使って授業を行っている学校が本当にあるのか、と半分信じられない気持ちだった。

それは東京都世田谷区の区立小中学校の教科「日本語」で使われている教科書である。

世田谷区は平成16年に内閣府から教育の国語特区の認定を受け、準備を進めてきた。そして、教科「日本語」を設置、教科書を作成して昨年から実際の授業に入ったのだ。

なぜ「国語」ではなく「日本語」なのか。国語は学習指導要領で定められたカリキュラムに沿って授業を行うことが義務づけられている。だが、それでは美しい日本語の言葉の力を向上させ、言葉への関心や理解を深め、言葉を大切にするという目的を達成することができない。そこで教育指導要領による「国語」とは別に「日本語」という教科を設置したのだ。

これも教育指導要領によって、授業時間には枠が設けられている。その枠はいっぱいいっぱいで、どの学校でも学校行事などの時間をどのようにやりくりするかで腐心している状況がある。世田谷区ではどのようにして、どれぐらい日本語の授業時間を設けたのか。

小学校では週に1時間、年間35時間とし、「生活」や「総合」から充(あ)てた。中学校では週2時間、年間70時間で、「総合」や「選択」から充てた。なんだ、たったそれだけか、と思うかもしれない。だが、たったこれだけのことでも1年間を経過して、その効果は素晴らしいものがあるのだ。

実際にどういう授業が行われているのか。教科書に即してみてみよう。


1年生から古典を教えると
子どもはどんどん吸収していく

たとえば小学校1年生。俳句や短歌が出てくる。

我と来て遊べや親のない雀(すずめ)
痩(や)せ蛙(がえる)負けるな一茶これにあり
雀の子そこのけそこのけお馬が通る

一茶の俳句が並んでいる。しかも漢字でちゃんと表記されているのだ。

一年生に漢字が読めるのか、と思うかもしれない。これが読めるのだ。

石井勲(いさお)という教育学者がいた。いまは故人となられたが、石井式国語研究会を設立、漢字教育の研究と実践を進められた人である。世田谷区の教科「日本語」はその理論と実践を大幅に導入しているのである。

それによると、子どもは教えれば、大人が考えるより簡単に漢字が読めるようになるという。発達心理学を専門にする人に聞いたら、それは当然だという。人間は幼い時ほどパターン認識力、つまりものの形をパッとつかむ力にすぐれ、成長するにつれて衰えてくるのだ。早くから漢字を教えるのは、理にかなっているのである。

もっとも、読めるようにはなるが、書くことはできない。書くには手の発達がなければならい。だが、書けなくともかまわない。読めるようになる力はすぐれているのだから、どんどん教えてしまおうといわけだ。

先に述べた一茶の俳句など、結構難しい漢字が出てくるが、1年生がどんどん読んでしまう。しかも俳句の内容を身近に感じるのか、子どもは非常におもしろがり、五七五の言葉の調子のよさもあって、たちまち暗記してしまうそうである。

「春眠暁を覚えず」という孟浩然(もうこうぜん)の漢詩、「雨にもまけず 風にもまけず」の宮沢賢治の詩、山上憶良(やまのうえのおくら)の短歌、さらには百人一首などが続々と出てくる。「みちのくの 母のいのちを 一目見ん 一目みんとぞ ただにいそげる」という斉藤茂吉の短歌も出てくる。これが2年生になると、「子曰(いわ)く、過(あやま)ちて改めざる、是(これ)を過ちと謂(い)う」という論語が取り上げられる。「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり」が出てくるのは5年生である。

これらを内容の理解はさておいて、まず音読させ、暗唱させる。日本語の響きやリズムの美しさを味わうことに主眼を置いているのである。漢字が読め、意味が分かり、やがて書けるようになる。それは副産物としてついてくるというわけだ。

さらに注目されるのは、教科「日本語」の中に「哲学」の項目が設けられていることである。「道徳」ではなく「哲学」なのだ。これは人生観や道徳観、社会観などを育成し、深く考える力を養うものだが、ここで取り上げられるのも古典である。

教育指導要領の枠をはめられた国語の授業では、こういうことはできない。学年によって教える漢字が制限されているから、先に述べたような古典を取り上げることができないのだ。

結果はどうなのか。「日本語」の教科書が定まり、スタートしてからまだ1年である。だが、さまざまの好ましい兆候は表れている。子どもが古典の一節を何気なく口にするのなどは当たり前になっている。言葉への関心が深くなったということは確かに言える。

そして、何よりも大切なのは、美しい日本語を通して子どもたちが誇りといったものを身につけつつある、ということである。それは日本の文化に対する誇りであり、日本の伝統、歴史、さらには日本そのものへの語りにつながっていくことは疑いない。

1年という短い期間で、わずかな授業時間で、これだけの兆候が表れているのである。これが積み重なっていったらどういうことになるか。単に日本語だけにとどまらず、他の教科書にも波及していくことは明らかである。

こういう教育が世田谷区の区立小中学校で行われているのだ。従来の教育指導要領に縛られた授業に終始している地区の子どもたちとは、やがて学力格差となって表れるに違いない。そうなったら、親たちは黙っていないだろう。そこから日本の教育が変わっていく可能性は大いにある。

荒廃が言われて久しい日本の教育だが、素晴らしいものになっていく芽はあるのだ。大いに希望を感じる。

教科「日本語」の道を開いた世田谷区の教育関係者のご努力には、満腔(まんこう)の敬意を捧(ささ)げたい。

(つづく)

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