電脳筆写『 心超臨界 』

幸せは外部の条件によって左右されるものではない
自分の心の持ちようによって決まるのである
( デール・カーネギー )

ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ――長岡輝子

2024-07-11 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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盛岡市出身の女優・長岡輝子さんは宮沢賢治の詩や童話の朗読会を30年にわたり続けています。賢治の作品を読むと、幼い頃毎晩のように祖母が東北弁で聞かせてくれた昔話や、当時見聞きした言葉や風景がなんとなく蘇ってくる、といいます。共通の体験があるからこそ、賢治の詩がより深く理解できる、ともいいます。そこから、「雨ニモマケズ」の詩の一節である「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」は、「ヒデリ」ではなく「ヒドリ」であることに気づきます。でも長岡さんは、目の色を変えて論争するのは「ジブンヲカンヂョウニ入レズニ」という賢治の精神に合わないとして、さりげなく賢治の原稿の通り「ヒドリ」と読むことにしている、といいます。


◆ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ――長岡輝子

『致知』2003年3月号【特集・縁尋機妙】
「インタビュー①縁尋機妙――宮沢賢治から生きる力をもらった」
女優・演出家・長岡輝子

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長岡輝子(ながおか・てるこ)
明治41年岩手県生まれ。東洋英和女学校を経て渡仏。帰国後の
昭和6年、演出家の金杉惇郎と劇団テアトル・コメディを結成。
14年文学座に転じて女優を続ける一方、演出にも手を染め、福
田恒存、三島由紀夫らの作品を積極的に取り上げた。46年文学
座を退団。以後、宮沢賢治の詩の朗読会や演劇研究生の指導など
に努める。58年NHKドラマ「おしん」での重厚な演技が話題と
なる。著書に「老いてなお、こころ愉しく美しく」、CD「長岡
輝子、宮沢賢治を読む(全8巻)」などがある。
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宮沢賢治(みやざわ・けんじ)
明治29年~昭和8年(1896~1933)。詩人、童話作家。
岩手県花巻生まれ。盛岡高等農林卒。中学の頃より法華経への信
仰を深め、大正10(1921)年1月突然上京、布教活動の傍
ら童話や詩の創作を開始し数多くの草稿を書く。同年8月帰郷。
稗貫農学校教諭をしながら詩作に励む。13年第一詩集『春と修
羅』第一集、同じく童話集『注文の多い料理店』を自費出版する。
15年農学校を退職し、羅須地人協会を創設。農民たちの間で献
身的な努力を続けるが、肉体の酷使から肋膜炎を患い、昭和3年
病臥。その後は病床にあって長編童話『グスコーブドリの伝記』
『銀河鉄道の夜』などを執筆。6年に短い期間砕石工場技師とし
て働くほかは、亡くなるまで改稿の手を休めなかった。
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【長岡】 とはいえ、私も若い頃は、賢治の『春と修羅』を読んでも難しくて分かりませんでした。賢治って、なんてキザでハイカラな田舎紳士なんだろうと思っていました。それが戦後何年かして、「ちゃぐちゃぐ馬こ」という詩に出合って、幼児の頃過ごした盛岡のことをサーッと一気に思い出し、それから賢治の虜(とりこ)になってしまったのです。

――どんな情景を思い出されたのですか。

【長岡】 まだ暗いうちに、隣のふみちゃんと、こっそり家を抜け出して、ゲンノショウコの白い花が咲いている小道を駆け抜けて行き、草原の土手に座ってちゃぐちゃぐ馬こを見ようと待っていました。その時同じように賢治も弟の清六さんと一緒に土手に座って待っていたんですね。遠くのほうから「ちゃぐちゃぐ」と聞こえてくる馬の鈴の音を思い出したとき、「ああ賢治って、とても私と身近な人なんだな」と、そういう体験がなかったら、私は賢治の詩をいまのようには読めなかったと思います。

――共通の体験があるからこそ、賢治の詩がより深く理解できるんですね。

【長岡】 例えば、「雨ニモマゲズ」の詩に「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」という一節があります。ところが、賢治は原稿では「ヒデリ」とは書かないで「ヒドリ」と書いているんですね。

――えっ、そうなんですか。

【長岡】 「ヒデリ」は日照りのことで、天気がよくてお米が取れてしょうがないわけですから、涙を流すはずはないのです。一方「ヒドリ」は花巻地方の方言で「日雇い」を意味するんです。つまり、冷害のためにお米が取れず、みんな泣きながらつらい日雇いの出稼ぎに出たというわけです。「ヒデリ」と「ヒドリ」ではまったく意味が違ってくるんです。

私は賢治の教え子たちにこのことを聞いて確かめたことがあるのですが、みんなこれは「ヒドリ」だと言ってました。

――どうしてそんなことが起こったのでしょう。

【長岡】 多分、東京の出版社の人が、賢治が間違ったのだろうと思って、親切心から「ヒデリ」と勝手に直したのでしょう。

私は賢治の弟の清六さんと一緒に朗読会をやっていたことがあるんですね。それでわからないことがあると、いつも清六さんに電話をかけて聞いていたんです。その時も清六さんに電話をかけてそのことを相談すると、「目の色を変えて論争するのは、ジブンヲカンヂョウニ入レズニという兄の精神に合いませんね」と言われ、私は賢治の原稿の通り「ヒドリ」と読むことにしたのです。

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