電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

悪魔の思想 《 大塚久雄――昔から敬遠されてきた「公事狂い」/谷沢永一 》

2024-10-05 | 04-歴史・文化・社会
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生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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大塚久雄の史的構図における「近代化」の含意は、「資本主義的なもの」が「歴史的により高い段階への止揚」される動きなのですから、単なる「近代化」ではなく「近代化」を「止揚」する「近代化」という、ややこしくも複雑な概念であるようです。しかも、その進み行きは「事実」として実現するのだという確信が強調されます。この「より高い段階」という朧(おぼ)ろ語法は、よほどおきに入りらしいですね。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p287 )

〈進歩的文化人の原型・大塚久雄(おおつかひさお)への告発状〉
 第13章 近代日本を全否定した国賊

  大塚久雄(おおつかひさお)
  明治40年生まれ。京都帝大卒。法政大教授、東大教授、東大名誉
  教授を歴任。反日感情を前提とした“大塚史学”を確立させる。

  明治以来の日本人が苦心の末に築き上げた近代社会を全面的に否定
  し、近代国家である日本は実は近代社会ではなかったのだと弾劾し
  たのが大塚久雄です。近代の日本人には近代精神がどこにも見出さ
  れないのだと、それほどまでに徹底的にわが国民を侮蔑した例は他
  にありません。日本には近代科学を成立させる基盤であるところの
  合理的思考がなかったと断言するのですから、我が国の近代科学は
  すべて虚構虚偽(うそはったり)だったということになります。この
  ような妄言が生まれた根拠を探ってみようではありませんか。

13-4 昔から敬遠されてきた「公事狂(くじぐる)い」

以上の2箇条に分けて考えてみた場合、大事ではない小事を「大目に見る」のは人間関係に無用の波風を起こして紛争や騒動や衝突や怨念を大きくしないための賢明な世間智です。そういう世の些事(さじ)をなんでもかんでもあからさまな問罪と処刑へ持ってゆきたい大塚久雄のような刺々(とげとげ)しく毬(いが)のある型(タイプ)を昔から「公事狂(くじぐる)い」(訴訟魔)と呼んで敬遠してきました。

大塚久雄の考えている「民主主義」社会は対決を軸に回転しながら明けても暮れても闘争を旨とする殺伐たる修羅場のようですね。

しかしながら、大塚久雄が相対的に期待する聖なる目標としての「近代化・民主化」は、何が何でも断乎として強力に推し進めなければなりません。

  現在の吾(わ)が国の民主化過程においては、社会的・政治的レヂー
  ムの他律的な民主化に相応して、人間類型の近代化・民主化が意志
  的計画的に推進されなければならない。言ひ換へれば、民衆を近代
  的・民主的な人間類型に意識計画的に「教育」することが極めて緊
  要なこととなるのである。
  (昭和23年9月10日『近代化の人間的基礎』白日書院、26頁~27頁)

別にこちらから頼みもしておりませんのに、どんな資格があってそんなに上から「教育」を押しつけられるんですか。などと女々しくぼやいてはなりません。クレージー・キャッツの谷啓が健康飲料・マミアンのコマーシャルで、「蛋白質が足りないよ」と注意してくれましたように、大塚久雄は、「近代化」が足りないよと深く憂えてくださっているんですからね。そのためには、国民一般ではなく特に「勤労大衆」を重視せねばならぬのだそうです。

  なによりも必要なのは生産力の主体的要因たる勤労大衆(労働力)
  を古き舊(ふる)き段階の人間類型から真に近代的な生産力的な人間
  類型へと「教育し行く」――もとより最広義において――ことが第
  一の、最大の条件であらう。
  (『近代化の歴史的起点』154頁)

単に「近代的」というだけの掛け声では手ぬるいのであって、行きつく先は「真に近代的」なる境地でなくてはなりません。しだいに鍋が煮つまってきました。

  振り返して云(い)ふやうに社会変革と人間変革とは同時進行的に遂
  行されなければならないと私は考へてゐる。(中略)従つて、社会
  変革に勿論密着しつゝ而(しか)も人間変革が十二分に強調されねば
  ならない、と私は考へたのである。
  (『近代化の歴史的起点』序の4頁)

いよいよ話が佳境に入ってきました。

  「近代化」といふ語は、このごろの「民主化」といふ語と同様に、
  ここでは或(あ)る程度漠然たる意味に用いられてゐる。つまり、封
  建的なものの崩壊を資本主義的なものの成立といふ厳密な意味での
  「近代化」のみでなく、さふしたものの歴史的により高い段階への
  止揚(しよう)といふ事実も亦(また)含まれている。
  (『近代化の歴史的起点』序の1頁)

大塚久雄の史的構図における「近代化」の含意は、「資本主義的なもの」が「歴史的により高い段階への止揚」される動きなのですから、単なる「近代化」ではなく「近代化」を「止揚」する「近代化」という、ややこしくも複雑な概念であるようです。しかも、その進み行きは「事実」として実現するのだという確信が強調されます。この「より高い段階」という朧(おぼ)ろ語法は、よほどおきに入りらしいですね。

  尚(なお)こゝでいふ「近代的」といふ語は或る程度莫然たる意味の
  ものであつて、つまり、単に近代資本主義的だけでなく、歴史的に
  より高い段階への移行をも亦(また)同時に含めてゐるのである。
  (『近代化の歴史的起点』序の10頁~11頁)

戦後進歩的文化人の最初の原型 へつづく
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