電脳筆写『 心超臨界 』

人生の目的は目的のある人生を生きること
( ロバート・バーン )

完璧というのは僅かな時間しか人の注意を引き付けないのだ――ウィリー・アシェンデン

2011-09-26 | 05-真相・背景・経緯
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『お菓子とビール』
【 サマセット・モーム、岩波書店 (2011/7/16)、p143 】

他の人も同じかどうかは不明だが、僕は美を長いこと眺めていることが何ともしがたい。キーツは『エンディミオン』の1行目に「美しきものは永遠の喜びなり」と書いたが、あれほど誤ったことを書いた詩人はいない。美しいものが僕に美の感覚の魔法を与えると、僕の心はすぐどこかあらぬ方向にさまよいだす。景色であれ絵であれ、何時間もうっとりと見ることが出来るという人がいるが、とても信じられない。美は恍惚であり、空腹のように単純だ。美について何か語るべきことなどありはしない。バラの香水のようなもので、香りを嗅いで、それでおしまい。だからこそ、芸術の批評というのは、美と無関係つまり芸術と無関係であるものをのぞけば、退屈なのだ。ティツィアーノの『キリストの埋葬』はもしかすると世界中の絵画の中で最も純粋な美を持つといえるかもしれないのだが、批評家がこの作品について言いうることは、実物を見てきなさいというだけである。他に言えるのは、作品の経歴、芸術家の伝記などである。だが人々は美にさまざまな資質――崇高さ、人間的な関心、優しさ、愛情――を加える。これは要するに、美は人を長く満足させないからだ。美は完璧であり、完璧というのは(人間性はそういうものだ)僅かな時間しか人の注意を引き付けないのだ。あのラシーヌの完璧な『フェードル』を観たあとで、「この悲劇は結局何を証明するのか?」と尋ねた数学者は、世間で考えられているほど愚かではなかった。パエストゥムにある古代のドーリア式寺院がグラス一杯のビールより何故美しいか、その理由など説明できる者はいないのだ。美と無関係の理由を持ち出すしかいないだ。美は袋小路である。山の頂上であり、到着したらあとはどこへも通じていない。だから我々はティツィアーノよりエル・グレコにラシーヌの完璧な傑作よりもシェイクスピアの不完全な作品に、より多く魅了されるのである。美については猫も杓子もいろいろと述べている。それで僕も一寸(ちょっと)論じてみた。美は審美本能を満足させるものである。だが、誰が満足させられたいと臨むだろうか? 満腹はご馳走なりというのは愚か者に対してののみ言えることだ。そう、敢えて事実に直面しよう。美は退屈なのである。

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