電脳筆写『 心超臨界 』

天才とは忍耐するためのより卓越した才能に他ならない
( ルクレール・ビュフォン )

日本史 鎌倉編 《 粛清に次ぐ粛清——渡部昇一 》

2024-07-10 | 04-歴史・文化・社会
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このようにして頼朝は、実際に武器を執って平家と戦い、これを亡ぼした近親者を義仲、義経、範頼の順で殺し、しかも義仲の長男で、自分の長女と結婚していた清水冠者義高(しみずのかんじゃよしたか)をも殺している。かくして頼朝が死んだとき、彼の血を分けた男は、長男の頼家(よりいえ)(当時18歳)と次男の実朝(さねとも)(当時8歳)の二人だけであった。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p26 )
1章 鎌倉幕府――近代国家意識の誕生 = 元寇が促した「一所懸命」からの脱却
(1) 「善政」は万能ならず――北条一門の破滅

◆粛清に次ぐ粛清

清盛の特徴は何か、と言えば、一族を大切にしたことである。「平家に非(あら)ざれば人に非ず」というように極端な身びいきであった。そういう欠陥はあっても、一族の仲がよかったのであり、重盛(しげもり)のような賢人が長生きしていたら、平家文化といった公武合体風の新文化ができたかもしれぬ。

これに反して、頼朝はどうであっただろうか。源氏復興の先駆としてまず平家を京都から追い落としたのは木曽冠者(きそのかんじゃ)源義仲(よしなか)である。頼朝は平家に対して兵を挙げてからも、その進攻はかならずしも順調ではなかった。都を目指して、東海道を攻め上(のぼ)った源行家(ゆきいえ)の軍は、養和(ようわ)元年(1181)の3月、尾張の墨俣(すのまた)川で平重衡(しげひら)の軍に敗れたのである。

ところが頼朝の従弟(いとこ)の木曽義仲は、同じ年の6月に、信濃から攻め出て越後の城助長(じょうすけなが)を破り、翌々年5月には越中と加賀の国境の砺波山(となみやま)の倶利伽羅谷(くりからだに)で、平維盛(これもり)・通盛(みちもり)を大将軍とした、平家の大軍を木っ端微塵に撃破した。このときの平家の軍は10万と言われ、総力を結集したものであった。

これが粉砕された以上、平家は都を守ることができない。義仲は、その年の7月の末に京都に進駐し、平家は西に落ちた。だから平家征伐の第一の功労者は木曽義仲でなければならぬ。しかし頼朝は、弟の範頼(のりより)と義経に命じて義仲を討たせるのである。それで一時は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ朝日(あさひ)将軍と言われた義仲も、近江の粟津(あわづ)で従兄の軍勢に殺されてしまった。

義仲を討たせたところまでは、まだよいと言える。彼の軍は都に入ってからは蛮族のような振舞いをしたうえ、のちには頼朝を討つのに協力しないかなどと、西国の平家に呼びかけているからである。

しかし、頼朝はこの義仲を倒し、平家を壇の浦に追い詰めて亡ぼした武勲赫々(ぶくんかくかく)たる弟の義経を亡ぼす。これは誰の目から見ても、かわいそうなことであったので、今なお「判官(はんがん)びいき」(義経は九郎判官(くろうはんがん))という言葉がのこっているくらいであり、義経、弁慶、静御前などをテーマにした文学作品群があり、義経文学とか判官物とか呼ばれているのは、よくご承知のとおりである。

さらに不可解なのは、もう一人の弟の範頼に対する頼朝の態度である。範頼は義経と力を合わせ、義仲や平家を亡ぼした戦功抜群の人であった。彼は義経が亡ぼされるのを見てから、そのような災いの身に及ぶことを恐れて、特に頼朝に恭順を誓っていたのである。しかし頼朝は疑念を起こし、伊豆の修善寺に範頼を幽閉し、間もなく殺した。義経が死んでから、わずかに4年後のことである。

このようにして頼朝は、実際に武器を執って平家と戦い、これを亡ぼした近親者を義仲、義経、範頼の順で殺し、しかも義仲の長男で、自分の長女と結婚していた清水冠者義高(しみずのかんじゃよしたか)をも殺している。かくして頼朝が死んだとき、彼の血を分けた男は、長男の頼家(よりいえ)(当時18歳)と次男の実朝(さねとも)(当時8歳)の二人だけであった。

この頼家は二代将軍となったが、彼の妻の実家の比企(ひき)家と、母政子の実家の北条氏との争いに巻き込まれて、伊豆の修善寺で殺された。歳はまだ23歳であった。その跡を継いで、三代将軍となったのが弟の実朝である。

しかし、この実朝は頼家の次男の公暁(くぎょう)に、つまり甥によって鎌倉の鶴岡(つるがおか)八幡宮において殺された。実朝の歳は28歳であった。だが、この公暁も二日後には殺されている。頼家は公暁のほかに一万丸(いちまんまる)、栄実(えいじつ)、禅暁(ぜんぎょう)という三人の子どもがいたが、一人残らず非業(ひごう)の死を遂げている。実朝に子がなく、頼家の子はみな若いうちに殺されて子どもがないから、鎌倉幕府創設者の頼朝の男系は簡単に絶えてしまった。そして傍系にも、将軍職を継ぐべき男はいなかった。

平家は戦場で亡びたが、源氏は骨肉の争いと、暗殺で亡びたのである。
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