電脳筆写『 心超臨界 』

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( ロバート・バーン )

悪魔の思想 《 横田喜三郎――これほど徹底した悪人が他にあるか/谷沢永一 》

2024-08-05 | 04-歴史・文化・社会
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
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横田喜三郎は馬鹿でもなく、痴呆(ちほう)でもありませんでした。彼は東京裁判の成立にはもともと根本に無理があり、そこで喚きちらされている論理が空疎虚偽(インチキ)であることを十分に知っていたのです。そのうえで、頼まれもせぬのに自発的に東京裁判を支持し、弁護し、日本人が一人でも多く処刑され、少しでも厳しく処罰されるよう、進みでて奮励(ふんれい)これ努めたのです。国民の立場から見てこれほどに徹底した悪人がまたと他にあるでしょうか。


『悪魔の思想』 「進歩的文化人」という名の国賊12人
( 谷沢永一、クレスト社 (1996/02)、p122 )
反日的日本人第1号・横田喜三郎(よこたきさぶろう)への告発状
第5章 栄達のため、法の精神を蹂躙(じゅうりん)した男

  横田喜三郎
  明治29年生まれ、東京帝大卒。東大教授、最高裁長官を歴任。昭
  和56年、文化勲章受賞。“東京裁判史観”の初代煽動者。平成5
  年没。

  東京裁判は無理矢理に行なわれた私刑(リンチ)でした。基準とすべ
  き拠(よ)るべき法律がなかったからです。開廷を命じたマッカーサ
  ーはのちに帰国したとき、東京裁判は間違いだったと証言しました。
  しかるに、その違法であり無法である東京裁判を、これこそ正当で
  あると全面的に支援し、そのためにあらゆる屁理屈(へりくつ)を総
  動員して、東京裁判を神聖化し合理化しようと努めたのが横田喜三
  郎です。進駐軍に身をすり寄せて阿(おもね)った第1号がこの東京
  帝国大学法学部教授でした。

5-6 これほど徹底した悪人が他にあるか

では、法律上の「形式」よりも訴訟法の「技術的な論理をもてあそ」ぶよりも、さらにもっと大切な最高至上の「実質」とは何か。

それがまた感嘆すべきことに、たった一言で言い尽くされるのです。

  こんどの戦争で、日本は極端な侵略的戦争を行(おこな)い、その戦
  争中において、また驚くべき暴虐行為を行つた。
               (『戦争犯罪論』「はしがき」5頁)

この一方的な判定こそ、横田喜三郎がご大層に持ちあげ振りかざすところの「実質」のすべてなのです。日本という国家に対する憎悪にこりかたまったこの「極端」な貶(おとし)め、見下(みくだ)し、蔑(さげす)み、罵(ののし)り、卑しめの台詞(せりふ)を、時代の一齣(ひとこま)として強く記憶しておこうではありませんか。

日本が侵略戦争を行なったなどとはけっして簡単に断定できません。それは100年後の歴史観測が公平に判定してくれるでしょう。今はその問題に深く立ちいるべき場所ではありませんから、詳細にはわたりませんが、少なくとも次のことは確実に言えると思います。

横田喜三郎は自分自身の眼識と調査で独自に慎重な検討を綿密に加え、十数年間にわたる長い期間の複雑なそれぞれの局面を微細に観察した結果、これは侵略戦争だと判断したのではありますまい。彼にはそれだけの時間の余裕も、行動の自由も、資料の収集もなかったからです。

したがって、日本が侵略戦争を行なったという彼の判定は、十分な実証を経ないで言い立てられている思いこみです。しかも、彼がひとり沈思黙考したゆえに達した予断であるのならともかく、東京裁判が「侵略戦争」と言っているから、だから「実質」は「侵略戦争」なんだという単純な鸚鵡返(おうむがえ)しにすぎません。これが横田喜三郎における「実質」論の本体です。

東京裁判が法理論のうえにおいて無茶苦茶であることは、さすがに横田喜三郎にも判っていました。そこで、法理論に叶っていない東京裁判を弁護して救うために「実質」論を持ちだしたというわけです。東京裁判が私刑(リンチ)であると理解できず、東京裁判は正義の祭儀であると信じて東京裁判を弁護した人がもしあったとすれば、その人の罪はかなり軽いと言えましょう。

しかし、横田喜三郎は馬鹿でもなく、痴呆(ちほう)でもありませんでした。彼は東京裁判の成立にはもともと根本に無理があり、そこで喚きちらされている論理が空疎虚偽(インチキ)であることを十分に知っていたのです。そのうえで、頼まれもせぬのに自発的に東京裁判を支持し、弁護し、日本人が一人でも多く処刑され、少しでも厳しく処罰されるよう、進みでて奮励(ふんれい)これ努めたのです。国民の立場から見てこれほどに徹底した悪人がまたと他にあるでしょうか。

しかも、横田喜三郎は日本の行為をただ単に「侵略的戦争」と規定するだけでは気がすまず、「極端な侵略的戦争」と表現しました。この「極端な」というまったく不必要な言葉を書きつけているその姿勢からは、日本国民に対する横田喜三郎のどす黒い饐(す)えた憎しみと蔑みの「極端な」怨念が匂ってきて、胸が悪くなるではありませんか。

仮に、世に「侵略的戦争」なるものがあるとして、その「侵略的戦争」に「極端」型と通常型とがあるというその判定基準を教えてもらいたいものですな。もちろん、そんな目盛りはどこにもありません。ただもう、横田喜三郎が日本人を徹底的に貶めたかったという情念の発作があっただけでしょう。

ゆえにまた、横田喜三郎は言葉を重ねて、日本は「驚くべき暴虐行為を行った」と、決定的に断言します。ただ単に「暴虐行為」と言っただけでは気分がおさまらず、そのうえに「驚くべき」という情意的な形容語の強調をわざわざかぶせるところ、さきほどのこれまた不必要で無意味な嫌がらせである「極端な」という憎しみの発露(はつろ)と「実質」は同じです。

この「暴虐行為」についてもまた、ついさきほど述べたと同じく、横田喜三郎が現地の実態を両方の立場にある者からじっくり聞いて調べてきた結果の報告ではありません。ただ単に、次から次へと東京裁判に持ちだされた虚偽の証言を鵜呑みにしたうえで、かさにかかかって日本国民を一方的に罵倒しているのです。

横田喜三郎は、一方的な東京裁判において行なわれる日本人への弾劾(だんがい)のすべてを、確実にして完璧な証拠であると信じます。そして、わが日本人が、こういう一方的で偏った意図的で為にするところのある証言に述べられているようなひどい事を、果して本当にしたのだろうかとうい疑念を、横田喜三郎はひとかけらも持ちません。日本国民なら誰でも首を傾(かし)げて、こんな誹謗はどうもおかしい、どこか不自然だ、なにか裏に作為があるに違いない、と察するはずの、その種の健全な神経が、横田喜三郎には初めから欠如しているのです。

倒錯の理論による「東京裁判」の正当化 へつづく
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