電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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冷戦後の米国外交には、3つのポイントがあった。第1は、二度と米国のライバルとなる国を生ませない。これはいかなる国にも地域覇権さえも許さないとする断固とした考え方である。第2は、アメリカ的価値観(民主主義)の強制である。第3は、民主主義体制でない国は力づくでも民主主義化させる(レジームチェンジ)である。この考えは「ウォルフォウィッツドクトリン」と呼ばれているが、トルーマンドクトリンと本質は同じである。
◆ネオコン外交――渡辺惣樹
『アメリカ民主党の欺瞞2020-2024』
( 渡辺惣樹、PHP研究所 (2021/5/22)、p32 )
ネオコンについては拙著『アメリカ民主党の崩壊2001-2020』で詳述した。その特徴は以下の6点である。
1 徹底的に反ソ
2 小国の政権を強引に親米に変更(傀儡(かいらい)政権化)させ
ても構わない(レジームチェンジは是)
3 先制攻撃は許される
4 経済リベラリズム
5 リベラル的社会政策
6 親イスラエル
ネオコン思想は「干渉主義」である。「干渉」という言葉を嫌うメディアや正統派(釈明史観)歴史家は「国際主義」と言い換える。歴史的に見れば、アメリカの国是は長期にわたってモンロー主義(非干渉主義)だった。ヨーロッパ諸国には南北アメリカには干渉させない。同時に米国はヨーロッパ問題には干渉しない。これが米国建国の父たちの遺言だった。
この遺言(国是)は、ウッドロー・ウィルソン大統領(民主党)の第一次世界大戦参戦で反故(ほご)にされた。協商国(英仏露など)は米国の加勢を得て、中央同盟国(独墺トルコなど)に勝利した。その結果、ベルサイユ体制が出来上がったが、米国民はその体制の不正義と脆(もろ)さにたちまちに気づかされた。すべての戦争責任を独墺に被せ、法外な賠償金を課し、少数民族の勝手気ままな主張をベースにした国境線引きが行なわれた。協商国は多額の借款(しゃっかん)を米国から受けていたが、その返済は遅々として進まなかった。返済を求めれば「米国は現代のシャイロックだ」と罵声(ばせい)を浴びた。要するに、ウィルソン大統領が国是を破って協商国を勝利させ、ベルサイユ体制を構築したものの、ヨーロッパに安定は訪れなかった。
米国民はモンロー主義の正しさに気づいた。だからこそ、ウィルソン大統領退陣後は共和党の大統領(ハーディング、クーリッジ、フーバー)を選び続けた。1932年の選挙では世界恐慌が深刻化していた。これを奇貨として、民主党はフランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)を擁立し、ようやく政権を奪い返した。FDRは米国外交を再び干渉主義に変更した。鳴り物入りで始めたソビエトも顔負けの社会主義政策(ニューディール政策)は、権力に近い組織(政治資金の出る「蛇口」に近い人物や組織)の懐(ふところ)を潤(うるお)しはしたが、不況からの脱出はできなかった。
米国が不況から脱出したのは、ヨーロッパで再びの戦火(1939年9月、ナチスドイツのポーランド侵攻)が始まり、米国が英仏の軍需品供給工場になって以降のことである。1941年12月の真珠湾攻撃は、FDR政権の異常なほどの干渉主義的外交への反発として起きた。それを利用してFDR政権は念願であった対独戦争に参入することができた(裏口からの参戦の成功)。
第二次世界大戦で米国は再び勝利者の側に立ったが、世界に平和は訪れなかった。FDRが深い考察もなく無節操に同盟国として扱った共産主義国家ソビエトがその牙(きば)を現し、世界の共産化を進めた。その結果として冷戦が惹起(じゃっき)した。ソビエト共産主義帝国が崩壊し、冷戦が終わったのは1989年のことである(ブッシュ・ゴルバチョフ会談)。
FDRは、本を読まなかった。彼は毛並みの良さと気の利いたスピーチ力で大統領に上り詰めた。本を読まない人間に共産主義の本質がわかるはずもない。彼は愚かな「勘」で、共産主義は「民主主義の亜流」だと理解した。その結果、政権内には共産主義思想に侵された政治家や実務官僚が跋扈(ばっこ)した。言うまでもなく実務官僚の多くが親ソビエトであり、中には本物のソビエトスパイもいた。
第二次世界大戦の結果、共産主義拡散の防波堤となっていた日独両国は破壊された。連合国だった英国もフランスも疲弊した。世界革命思想を持つ、ソビエトの世界共産化の動きに対抗する軍事力を持つ国が、ヨーロッパからもアジアからも消えた。米国はFDR外交の結果、ただ一国でソビエトの外交・軍事攻勢に対峙(たいじ)しなくてはならなくなった。その結果、米国は西側諸国を共産主義の攻勢から守る「孤独な警察官」となった。
「孤独な警察官」が採った外交政策が「トルーマンドクトリン」だった。FDRの死を受けて大統領となったハリー・トルーマンが唱えた「力によるソビエト囲い込み外交」がトルーマンドクトリンである(1947年3月提唱)。ソビエトの赤化攻勢に対抗できる唯一の国となってしまった米国は、非干渉主義に戻ることはできなくなった。したがって、戦後外交は民主党、共和党のどちらの大統領が現れても、その外交は干渉主義的なトルーマンドクトリンの焼き直し外交となった。
先に書いたように冷戦は1989年に幕を閉じた。共産主義から決別したロシアは資本主義国家へのシフトという難題を抱えたが、ロシアはその改革に米国から多くのアドバイザーを迎えた。国有企業の民間企業化にも彼らが知恵を出した。常識的に考えれば、世界革命思想を抱えたソビエトの消滅で世界はより平和になるはずであった。しかし、そうはならなかった。
その理由は、先に書いたネオコン思想の政治家、実務官僚あるいは学者たちが、米国の世界覇権を確実なものにする新ドクトリンを採用したからである。それが「防衛計画指針:Defense Planning Guidance」(1992年2月)だった。ネオコンの代表とも言えるポール・ウォルフォウィッツ(後の国防副長官:2001年1月~05年5月)とルイス・リビー(後のディック・チェイニー副大統領補佐官:2001年1月~05年10月)が作成したこの指針が「ポスト冷戦干渉主義外交」のテキストブックとなった。
このテキストブックに書かれた冷戦後の米国外交には、3つのポイントがあった。第1は、二度と米国のライバルとなる国を生ませない。これはいかなる国にも地域覇権さえも許さないとする断固とした考え方である。第2は、アメリカ的価値観(民主主義)の強制である。第3は、民主主義体制でない国は力づくでも民主主義化させる(レジームチェンジ)である。この考えは「ウォルフォウィッツドクトリン」と呼ばれているが、トルーマンドクトリンと本質は同じである。ソビエトという米国の力に唯一対峙できる強力な国家が崩壊してもなお、米国は干渉主義的外交の継続を決めたのである。「ウォルフォウィッツドクトリン」は米国一国覇権主義と言い換えてもよい。
冷戦の終結で米国は再び非干渉主義的外交に切り替えることができた。しかし、冷戦時代に勝(まさ)るとも劣らないほどの干渉主義的外交の継続を選択した。ネオコン思想家は、民主・共和両党で横断的に「活躍」した。米国外交は政権が民主・共和に入れ替わっても本質的変化はなかった。
ソビエト崩壊後(冷戦後)も世界各地で紛争が続いた。おもな紛争だけ列挙しても以下の通りである。
湾岸戦争(1990~95)
第一次ソマリア内戦(1992~95)
ボスニア戦争(1992~95)
ハイチ侵攻(1994~95)
コソボ紛争(1998~99)
アフガン戦争(2001~継続中)
イラク戦争(2003~11)
ワジリスタン紛争(2004~継続中)
第二次ソマリア内戦(2007~継続中)
リビア内戦介入(2011)
イラク内戦介入(2014~継続中)
シリア内戦介入(2014~継続中)
リビア内戦再介入(2015~継続中)
ソビエト崩壊後(冷戦後)も、米国は世界の警察官を務めていたことがよくわかる。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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冷戦後の米国外交には、3つのポイントがあった。第1は、二度と米国のライバルとなる国を生ませない。これはいかなる国にも地域覇権さえも許さないとする断固とした考え方である。第2は、アメリカ的価値観(民主主義)の強制である。第3は、民主主義体制でない国は力づくでも民主主義化させる(レジームチェンジ)である。この考えは「ウォルフォウィッツドクトリン」と呼ばれているが、トルーマンドクトリンと本質は同じである。
◆ネオコン外交――渡辺惣樹
『アメリカ民主党の欺瞞2020-2024』
( 渡辺惣樹、PHP研究所 (2021/5/22)、p32 )
ネオコンについては拙著『アメリカ民主党の崩壊2001-2020』で詳述した。その特徴は以下の6点である。
1 徹底的に反ソ
2 小国の政権を強引に親米に変更(傀儡(かいらい)政権化)させ
ても構わない(レジームチェンジは是)
3 先制攻撃は許される
4 経済リベラリズム
5 リベラル的社会政策
6 親イスラエル
ネオコン思想は「干渉主義」である。「干渉」という言葉を嫌うメディアや正統派(釈明史観)歴史家は「国際主義」と言い換える。歴史的に見れば、アメリカの国是は長期にわたってモンロー主義(非干渉主義)だった。ヨーロッパ諸国には南北アメリカには干渉させない。同時に米国はヨーロッパ問題には干渉しない。これが米国建国の父たちの遺言だった。
この遺言(国是)は、ウッドロー・ウィルソン大統領(民主党)の第一次世界大戦参戦で反故(ほご)にされた。協商国(英仏露など)は米国の加勢を得て、中央同盟国(独墺トルコなど)に勝利した。その結果、ベルサイユ体制が出来上がったが、米国民はその体制の不正義と脆(もろ)さにたちまちに気づかされた。すべての戦争責任を独墺に被せ、法外な賠償金を課し、少数民族の勝手気ままな主張をベースにした国境線引きが行なわれた。協商国は多額の借款(しゃっかん)を米国から受けていたが、その返済は遅々として進まなかった。返済を求めれば「米国は現代のシャイロックだ」と罵声(ばせい)を浴びた。要するに、ウィルソン大統領が国是を破って協商国を勝利させ、ベルサイユ体制を構築したものの、ヨーロッパに安定は訪れなかった。
米国民はモンロー主義の正しさに気づいた。だからこそ、ウィルソン大統領退陣後は共和党の大統領(ハーディング、クーリッジ、フーバー)を選び続けた。1932年の選挙では世界恐慌が深刻化していた。これを奇貨として、民主党はフランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)を擁立し、ようやく政権を奪い返した。FDRは米国外交を再び干渉主義に変更した。鳴り物入りで始めたソビエトも顔負けの社会主義政策(ニューディール政策)は、権力に近い組織(政治資金の出る「蛇口」に近い人物や組織)の懐(ふところ)を潤(うるお)しはしたが、不況からの脱出はできなかった。
米国が不況から脱出したのは、ヨーロッパで再びの戦火(1939年9月、ナチスドイツのポーランド侵攻)が始まり、米国が英仏の軍需品供給工場になって以降のことである。1941年12月の真珠湾攻撃は、FDR政権の異常なほどの干渉主義的外交への反発として起きた。それを利用してFDR政権は念願であった対独戦争に参入することができた(裏口からの参戦の成功)。
第二次世界大戦で米国は再び勝利者の側に立ったが、世界に平和は訪れなかった。FDRが深い考察もなく無節操に同盟国として扱った共産主義国家ソビエトがその牙(きば)を現し、世界の共産化を進めた。その結果として冷戦が惹起(じゃっき)した。ソビエト共産主義帝国が崩壊し、冷戦が終わったのは1989年のことである(ブッシュ・ゴルバチョフ会談)。
FDRは、本を読まなかった。彼は毛並みの良さと気の利いたスピーチ力で大統領に上り詰めた。本を読まない人間に共産主義の本質がわかるはずもない。彼は愚かな「勘」で、共産主義は「民主主義の亜流」だと理解した。その結果、政権内には共産主義思想に侵された政治家や実務官僚が跋扈(ばっこ)した。言うまでもなく実務官僚の多くが親ソビエトであり、中には本物のソビエトスパイもいた。
第二次世界大戦の結果、共産主義拡散の防波堤となっていた日独両国は破壊された。連合国だった英国もフランスも疲弊した。世界革命思想を持つ、ソビエトの世界共産化の動きに対抗する軍事力を持つ国が、ヨーロッパからもアジアからも消えた。米国はFDR外交の結果、ただ一国でソビエトの外交・軍事攻勢に対峙(たいじ)しなくてはならなくなった。その結果、米国は西側諸国を共産主義の攻勢から守る「孤独な警察官」となった。
「孤独な警察官」が採った外交政策が「トルーマンドクトリン」だった。FDRの死を受けて大統領となったハリー・トルーマンが唱えた「力によるソビエト囲い込み外交」がトルーマンドクトリンである(1947年3月提唱)。ソビエトの赤化攻勢に対抗できる唯一の国となってしまった米国は、非干渉主義に戻ることはできなくなった。したがって、戦後外交は民主党、共和党のどちらの大統領が現れても、その外交は干渉主義的なトルーマンドクトリンの焼き直し外交となった。
先に書いたように冷戦は1989年に幕を閉じた。共産主義から決別したロシアは資本主義国家へのシフトという難題を抱えたが、ロシアはその改革に米国から多くのアドバイザーを迎えた。国有企業の民間企業化にも彼らが知恵を出した。常識的に考えれば、世界革命思想を抱えたソビエトの消滅で世界はより平和になるはずであった。しかし、そうはならなかった。
その理由は、先に書いたネオコン思想の政治家、実務官僚あるいは学者たちが、米国の世界覇権を確実なものにする新ドクトリンを採用したからである。それが「防衛計画指針:Defense Planning Guidance」(1992年2月)だった。ネオコンの代表とも言えるポール・ウォルフォウィッツ(後の国防副長官:2001年1月~05年5月)とルイス・リビー(後のディック・チェイニー副大統領補佐官:2001年1月~05年10月)が作成したこの指針が「ポスト冷戦干渉主義外交」のテキストブックとなった。
このテキストブックに書かれた冷戦後の米国外交には、3つのポイントがあった。第1は、二度と米国のライバルとなる国を生ませない。これはいかなる国にも地域覇権さえも許さないとする断固とした考え方である。第2は、アメリカ的価値観(民主主義)の強制である。第3は、民主主義体制でない国は力づくでも民主主義化させる(レジームチェンジ)である。この考えは「ウォルフォウィッツドクトリン」と呼ばれているが、トルーマンドクトリンと本質は同じである。ソビエトという米国の力に唯一対峙できる強力な国家が崩壊してもなお、米国は干渉主義的外交の継続を決めたのである。「ウォルフォウィッツドクトリン」は米国一国覇権主義と言い換えてもよい。
冷戦の終結で米国は再び非干渉主義的外交に切り替えることができた。しかし、冷戦時代に勝(まさ)るとも劣らないほどの干渉主義的外交の継続を選択した。ネオコン思想家は、民主・共和両党で横断的に「活躍」した。米国外交は政権が民主・共和に入れ替わっても本質的変化はなかった。
ソビエト崩壊後(冷戦後)も世界各地で紛争が続いた。おもな紛争だけ列挙しても以下の通りである。
湾岸戦争(1990~95)
第一次ソマリア内戦(1992~95)
ボスニア戦争(1992~95)
ハイチ侵攻(1994~95)
コソボ紛争(1998~99)
アフガン戦争(2001~継続中)
イラク戦争(2003~11)
ワジリスタン紛争(2004~継続中)
第二次ソマリア内戦(2007~継続中)
リビア内戦介入(2011)
イラク内戦介入(2014~継続中)
シリア内戦介入(2014~継続中)
リビア内戦再介入(2015~継続中)
ソビエト崩壊後(冷戦後)も、米国は世界の警察官を務めていたことがよくわかる。