電脳筆写『 心超臨界 』

想像することがすべてであり
知ることは何の価値もない
( アナトール・フランセ )

活眼 活学 《 ナショナリズムとインターナショナリズム=新しい民族主義――安岡正篤 》

2024-06-30 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


従来のような排他的ナショナリズムではなくて、リファインド・ナショナリズム、洗練されたナショナリティを通じなければ、真のインターナショナル、真のコスモポリタンにはならない。ちょうど本当の立派な木になるためには、立派な松になるか、梅になるか、杉になるか、何らかの個性を通じなければなり得ない。そうでない木などというものは観念的存在にしか過ぎません。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p32 )
[1] 活眼・活学
1 肉眼と心眼

◆ナショナリズムとインターナショナリズム――新しい民族主義

その次にまた著しいのは、この世界が科学や文明の発達によってだんだん距離をなくしつつあることです。従来世界を隔てておった距離というものが、交通・通信の発達でだんだん消滅しつつある。確かに世界が統一に向かって進みつつあるのでありますから、その意味においては、インターナショナル、グローバル、コスモポリタンになりつつあるのです。

このような傾向は第一次大戦後におけると同様でありますが、大変違っている点は、第一次世界大戦後のコスモポリタニズムであるとか、あるいはインターナショナリズムとかいうものは、このころはまだグローバリズムとはあまり言いませんでした。これは主として、国民主義、民族主義、ナショナリズムというものと相容れないものでありました。ナショナリズムを否定することがインターナショナリズムであり、コスモポリタニズムでありました。

ところが今度は、だんだんそうではなくなって参りました。真のコスモポリタン、真のインターナショナリストになるには、最も徹底した、最も洗練されたナショナリストでなければならない。従来のような排他的ナショナリズムではなくて、リファインド・ナショナリズム、洗練されたナショナリティを通じなければ、真のインターナショナル、真のコスモポリタンにはならない。ちょうど本当の立派な木になるためには、立派な松になるか、梅になるか、杉になるか、何らかの個性を通じなければなり得ない。そうでない木などというものは観念的存在にしか過ぎません。

それで、一面、世界が統一に向かいつつあるとともに、その裏打ちとして、従来のような間違ったナショナリズムではなくて、本当のナショナリティを発揮しなければならない。民族的特性を発揮しなければならんというわけで、一見矛盾の如き民族主義的主張、その運動が勃然として起こってきております。しかもそれが、ちょうど初めに申し上げました例と同じように、このアジアにおいて非常に著しい。今アジア諸国、東南アジアなどに行ってみますと、非常にその感を深くするのですが、若い人たちが実に溌溂として民族精神に燃えております。概念の幽霊というか、感傷の夢というか、そういうものに空漠に生きているような人間ではありません。皆溌溂として自分の国家、自分の民族を振興することによって、新しい大きな世界を協力して作って行こうという精神に燃えております。

このごろ中共礼讃が一つの流行になっておりますが、その中共の如き最も民族主義が旺盛で、民族、国家のためにはすべてを捧げようという、ちょうど日本の幕末、明治維新のような気分やスローガンがそのまま盛んに用いられております。例えば北京へ行っても、天津へ行っても、上海へ行っても、至る所部屋という部屋、壁という壁には、殊に若い者の集まる所には、スローガンがベタベタ張ってある。「青春を把(と)って祖国に献給せよ」あるいは「公私兼顧」公と私を兼ねて顧みよ。このようなものが中共の『北京画報』などを御覧になっても至る所に出ております。そしてともかくも祖国、祖国である。民族、民族である。そのためには個人のことなど滅却してしまう。献給してしまう。これが中共の圧倒的な要請であります。

ところがおかしいのは日本で、こういうことを言うと反動だ、右翼だと大騒ぎです。「青年よ銃を取るな」というようなことを言って、盛んにアジっている有名人が、新聞記者のインタビューに「中共では、青年も祖国のために、民族のために情熱を燃やしておる」とえらく感激をしております。こういうのは精神分裂症というものでありましょう。どうも平仄(ひょうそく)が合わん。まあ、さようなことは他人のことだからどうでもよいとして、われわれはただ、そういう世界の大きな流れを見つめれば宜しいのです。

この民族主義というものは、世界が統一に向かいつつある時、その裏打ちとして起こってきているものであります。日本とか中国とかイギリスとかドイツとかアメリカとかいう、そういう民族・国民というものを無視して、否定して、世界がどうのこうのと云々するのは観念の遊戯に過ぎないのであります。やはり本当の世界というものが一つになるためには、立派な民族、立派な国家というものを通じて、その協力によってなるのだという自覚、これは確かに前大戦後よりは進歩しております。アジアは一つになると言ったって、かつての李承晩大統領のように、まず日本と喧嘩しておってどうして一つになりましょうか。李承晩は反共ということと反日を一対にして、朝鮮民族に反共教育と反日教育を一緒にやると申しておりました。そしてアジアよ団結せよといっても、それはできるものではありません。あたかも夫婦喧嘩や兄弟喧嘩をしながら、家庭の幸福を説くようなものです。

どうしても各民族、各国家が、もっと道徳的な、もっと理性的な存在にならなければ、本当の世界というものにはなりません。世界を統一するということは、例えばその辺の樹木をみんな切ってしまって、砂漠にしてしまうことではないのですから、それこそ百花繚乱の花園なり、森なり、花なりを作ることなんですから。その意味において新しい民族主義というものは、非常に注目しなければなりません。これが第二であります。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 論語 《 子曰く、中人以上は... | トップ | 人間学 《 トップの条件=ス... »
最新の画像もっと見る

03-自己・信念・努力」カテゴリの最新記事