電脳筆写『 心超臨界 』

計画に失敗すれば、失敗を計画したことになる
( アラン・ラケイン )

般若心経 《 「倒見」を「正見」にする智慧——松原泰道 》

2024-04-03 | 03-自己・信念・努力
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夢想は、一般には〈夢に見ること〉ですが、仏教用語では、あてもないことを心中に思い煩(わずら)う「妄想(もうそう)」の意味に用います。妄想はモウゾウとも読み、迷った心に生ずる思いですから、顚倒の倒見と同じです。したがって「遠離一切顚倒夢想」は、一切の逆しまの見解を遠離するということになります。といって、恐れて遠くに待避するのではありません。むしろ夢想に近づいて、夢の思いを事実の思想と観想します。それが「究竟涅槃(くきょうねはん=涅槃を究竟する)」だ、というのです。


『わたしの般若心経』
( 松原泰道、祥伝社 (1991/07)、p273 )
8章 無罣礙(むけいげ)――とらわれるな
(2) 涅槃(ねはん)への道
遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃
おんりいっさいてんどうむそう くきょうねはん

◆倒見(とうけん)」を「正見(しょうけん)」にする智慧

「遠離一切顚倒夢想」――一切(いっさい)の顚倒夢想(てんどうむそう)を遠離(おんり)して、と心経は続きます。ただし、この「一切」の二字は、梵文の原典には存在しないので、中国で翻訳の際に加筆されたと考えられています。したがって、日本でも「一切」を読誦(どくじゅ)する宗派と省略する宗派もあります。しかし「一切」を加えると、文意がなおはっきりいたします。

「顚倒(てんどう)」の二字は、ともに〈逆(さか)さまになる〉ことです。「顚」には〈頭のてっぺん〉の意味があるので、頭のてっぺんを倒して地につけるのが顚倒です。したがって、たんに引っくりかえったり、転んだりの「転倒」ではありません。

よく世間で、あわてうろたえて騒ぐのを顚倒といいますが、本来は仏教語で「道理のとおりに見ず、道理を誤って逆さまに考えること」です。言い換えると、縁起の真理に背く逆(さか)しまの人生観・世界観ということです。なぜそうなるかというと、身びいきや身勝手から、自分中心に物ごとを考えるからです。

仏教の行事で人に親しまれている「お盆」の原語は、梵語のウランバナで、中国では「盂蘭盆那(ウランバンナ)」と音訳(写)し、日本では省略して「盂蘭盆(ウランボン)」、さらに「盆(ボン)」と一字で表わします。言語のウランバナは「倒懸(とうけん=逆さに吊り下げる)」と漢訳されます。昔話の“かちかちやま”に、悪い狸がつかまって、その仕置に天井から逆しまに吊り下げられる場面があります。昔話でなくとも、かつての日本にも、実際に逆さ吊りの刑罰がありました。

倒懸の体形からだと、周囲の眺めもみな逆しまに見えます。倒懸はそのまま倒見――真理に対する逆しまの人生観・世界観になることを象徴します。生まれた者には必ず亡びのときがあるのに、いつまでも生き続けたいと考えるのも倒見です。

倒見を修正するのには、倒懸の体形をあらためて、頭を上に足を下にする正常の姿勢に戻ればいいのです。正常の姿勢になれば、正しくものを見ることができましょう。それが正見(しょうけん)、正しい見解です。お盆の行事は、「倒見を反省して正見に立ち返る」教えを意味するものです。

倒懸を言い換えると「夢想(むそう)」となります。夢想は、一般には〈夢に見ること〉ですが、仏教用語では、あてもないことを心中に思い煩(わずら)う「妄想(もうそう)」の意味に用います。妄想はモウゾウとも読み、迷った心に生ずる思いですから、顚倒の倒見と同じです。

したがって「遠離一切顚倒夢想」は、一切の逆しまの見解を遠離するということになります。といって、恐れて遠くに待避するのではありません。むしろ夢想に近づいて、夢の思いを事実の思想と観想します。それが「究竟涅槃(くきょうねはん=涅槃を究竟する)」だ、というのです。
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